イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

メメント・モリふたたび

2007年12月12日 23時28分55秒 | Weblog
嵐山光三郎「死ぬための教養」、保坂和志「生きる歓び」を読了。どちらも死を扱った書物であるが、この一年を振り返ったとき、ずっと亡霊のようにぼくの心から離れなかったこと、といえば、それは死について考えることであった。こう書くとなんだか重々しく感じられてしまうかもしれないが、それほど深刻に思い悩んでいるのではない。ただ不思議なくらい、なかば取りつかれているといってもいいくらい、いつか死ぬのだ、ということをいつも「自然に」考えている自分がいた。これまでの人生、ここまで日常的に死を想うことはなかった。それまで、漠然とではあるが、人生は無限なもので、いつまでも続くのだという感覚を持っていたように思う。ところが、ここ一、二年で、どうやら人生の方から根本的な考え方の変化を迫られているらしい。ゆっくりと、徐々にではあるが、ぼくは人生の有限性を認識し始めている。

死ぬことは怖い。すべてが無になると思うととても寂しいし、悲しい。何をしても自分を待っているのは死だと思うと、そのときすべてが消え去ってしまうと思うと、これまで信じていた確かなものがとたんに頼りないものに感じられて、茫漠とした気持ちになる。この気持ちは、一冊の小説を読んでいるときと似ている。読み始めたばかりのときは、この先にどんな展開が待っているのだろうかと、わくわくしながらページを捲る。読み終えたページはまだわずかで、残りのページはまだぎっしりと厚い。次々に起こる事件や、魅力的な登場人物の数々、無限の展開が予測されて、話の終わりはどこか遠くにしか感じられない。ところが、書物も半分を過ぎたあたりから、だんだんと先が読めてくる。半分まで読んでこれだけの展開だったのであれば、残りの半分もだいたい想像がつく。どんなに面白い本でも、おそらくは残りの半分は少なくとも前半と同じくらいの面白さなのだろうかと思うと、少し熱が冷め、無限にも思えた書物の世界が、急に閉じられたものに感じられてくる。人生も同じかもしれない。年齢的に、ぼくは人生という名の書物の折り返し地点を迎えたのかもしれないと感じているのだ。

昔、新井英一さんのライブを観ていて、新井さんが「人生は四十を過ぎてから、本当に大切なことが見えてくる」みたいなことを歌の合間に言っていたことがあった。そのときまだ二十代だった自分は、そんなもんかな、と思った。正直、年齢で区切ることに何の意味があるのか、若い人には大事なことが見えてないのか、などとちょっと心の中で反発したりもした。でも、その一言がなぜかずっと心に残っていて、たまに蘇ってきては、特に最近、ああ新井さんがおっしゃっていたのは、こういうことなのか、としみじみと思ってしまう。「今日が人生最後の日だったら何をするか?」という問いにも似て、人間、先が見えたとき、初めて人生にとって本当に大切なことは何か、何をしたいのか、ということが見えてくるのではないかと思う。どんな人も、死には逆らえない。自分だけでなく、誰しもがはかなくも消えていく運命にあることを悟ったとき、人の世が違った形で見てくるような気がする。ひょっとしたら、優しさだって、変わってくるかもしれない。皆いつか死ぬ、と思えば、たいていのことは許せるような気もするからだ(実際はそう簡単に悟りきれないのだけれど)。

ただし、決して、死のネガティブな面だけにとらわれたくはない。有限だとわかっているからこそ、できることがあり、今日しかないとわかっているからこそ、一歩踏み出せることがある。腹をすえて、そして人生を楽しみながら、仕事であれ、日常を生きることであれ、確かなものとして味わっていきたいと思うのだ。そうして、人生を引いた目でみる視点、有限なものとして捉える感覚は、きっと翻訳者にとって有用なものに違いない。結局のところ、書物が人生を扱っていることには違いがないはずだから。