イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

インターミッション2

2008年07月31日 01時09分29秒 | Weblog
みなさま、お久しぶりです~、って本当にご無沙汰してしまい、すみません。ええ、アホですわたしは。本当に、アホです。アホという言葉はわたしのために創造されたに違いありません。父親が「ア」で母親が「ホ」です。わたしの体の右半分が「ア」で、左半分が「ホ」です。アホ。あほ。aho~!! もう、アホアホアホと、鏡に向かって百万回絶唱したい、喉から血がでるまでアホというマントラを唱え続けて、すべてを超越したい、そう願って止まない今日この頃です。

もう皆様、自信を持って、全幅の信頼を持って、このわたしに、アホと言ってやってください。もう、アホかと。いや、もう、紛れもなく、アホであると。馬鹿ヤローと、頬を張ってやってください。しかし、しかしです。しかしながらです。この間、アホはアホなりに、アホなりの人生をマンツーマンで生きていたのです。アホな自分に密着マークして、生きてきたのです。

アホはアホ。堕ちるとことまで堕ちる、堕ちたろやないかと、そうかたくなに心に想いを秘めて、この数週間、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、ハエ叩きでハエを叩き、肩たたきはする相手がいないのでせず、蚊の鳴き声で夜中に目を覚まし、無言で電気をつけるとしーんと静まり返った牛三つ時の西東京市で、ぷ~んと蚊の飛ぶ音が聞こえ、その刹那、石川五右衛門になったつもりで電光石火、蚊を拍手一つ、叩きつぶし、真っ赤な血に染まった両手を眺めては、マーロン・ブランドを諌めてしまった直後のマーチン・シーンのような顔をして、言葉にならない恐怖、不条理、存在の耐えられない軽さを感じて我を失う午前三時というような日常を過ごしておりました。

といいつつ、現実的には、会社の仕事、翻訳Loveの活動、変態ランナーとしての活動、無苦小富夫としての活動、その他もろもろなどを地道に続けているという終わりなき日常が私の心身を圧迫しているのでした(まあ、たいして今までとは行動パターンは変わっていないのです)。

でもね、考えてみてください。たとえそれが自分が選んだことことはいえ、起きてる間、基本的にはずっと仕事モードなわけですわたしは。そんなの、自慢するこっちゃありません。人様の同情を買うようなまねは、したくはありません。ええ、それこそまさにアホです。というか、やっぱりアホですわたしは。自堕落な男のように思えるかもしれません、いや、事実そうでしょう。しかし、しかしです。わたしは、もう朝起きてから、夜意識を失うまで、24時間耐えられますか、24時間翻訳できますか、人間止めますか、それとも翻訳止めますか、モードなわけです。「すきあれば訳せ」という天の声の下で生きているのです。ええ、それだけです。それだけを言いたかったのです。実際、天の声にはさからってばかりの毎日です。そうです。お恥ずかしい限りです。翻訳Loveを謳うわたしとしては、本当であれば、幸せであり、本望なことなのですが.......。あれだけ心のなかで心待ちにしていたブログを書く、という行為さえ、厭わしく思えるほど、最近私のこころは何かに占拠され、体は指は、何かに支配されていたのです。

いずれにしても、それは過ぎ去ったことのようです。とりあえず、今、わたしは翻訳の神様から、いくばくかの情けを受け、鋼鉄の鎖からわずかの間解き放たれようとしているようです。刑務所の外に一歩足を踏み出したお方が、「娑婆の空気は美味い~」と思う気持ちがよくわかるようなわからないような、そんな気がします。それにしてもシャバってなんで、「娑婆」なんですかね。娑なおばあさんがたくさんいるところ、それが、現実界?なんですかね。ともかく、ちょっとだけ自由。そしてこの自由、自由すぎて、何していいか、わかりません(^^) 資本主義世界は、自由すぎ~!!

わけのわからないことを書いて、ごめんなさい。みなさまの愛、たくさんの励ましのお言葉に支えられて、イワシは今、八月という一年のうちで最も好きな月を迎えようとしています。そしてこれから、色んな意味で、大きな変化を迎えようとしています。ありがとう。そして、さようなら。愛していたけど、それだけじゃ、ダメだったんだね。愛の意味を、もう一度考えなおさなくては。ともかく、イワシの翻訳Love、復活したいと思っています!(が、果たして?)

P.S. Ena さま、本当に本当に、おめでとうございます!! イワシはとってもとってもうれしかったです。皆様の幸せを心から、祈っていますよ~!!

マッコリ・イン・トランスレーション ~オモビニを探してソウルフルな旅~ 11

2008年07月15日 01時09分17秒 | 旅行記
話はソウルタワーに行く前にさかのぼるのだけど、忠武路(チュウンムロ)という韓国随一のペットショップ街でツアーバスを降りた。もちろん、犬とか猫が見たいからだ。ワンワンワン(僕たちは犬、猫、そして動物たちが好きなのです)。

驚いた。果たして日本に、これだけのペットショップが居並ぶ商店街があるだろうか...。見渡す限り、ペットショップ、ペットショップ、ペットショップ。犬ワンワンワン、猫ニャーニャーニャー。強いて言えば、日本で言うところの神保町の古本屋街だろうか。
それにしても、これはたまらん。可愛い犬(猫、その他の動物)がたくさん... ヾU^ェ^U ワンワンワン!
(ちなみに、隣はなぜかバイクの専門店がひしめき合う界隈だった。神保町の古書店街の隣に、スポーツ店街があるのと似ている)

あ、柴犬もいた! ハンシバ(韓柴)だ。茶柴と黒柴の仔犬が二匹ずつ。茶芝の二匹はぐったりとしている。黒柴は元気に動き回っている。カゴのなかに敷かれたハングルの新聞紙を齧ったりしている。ああ、可愛い。ああ、日本が懐かしい。琴線に触れた。悔しいけど、柴犬を見た瞬間、日本がたまらなく恋しくなった(なんという人間的なモロさ、弱さ)。冗談抜きで、あまりの可愛さに、涙がこぼれた。

しばらく犬、猫、鳥などを物色する。まあ、日本でも住宅事情によりペットは飼えないのだけど、ここソウルではいくら可愛くてもなおさら、ペットをその場で買うわけにはいかない。だけど、いいのだ。切ない。切なすぎる。

ついつい「ペットショップ街」という謳い文句に惹かれてここで下車したものの、バス停で時刻表を確認すると、シティーツアーバスはしばらくこないようだ。しかたない。タクシーでソウルタワーに向かうことにする。

見上げれば、南山はすぐ近くにそそり立っており、ソウルタワーもこれでもかというくらいにいきり立っている。車で行けば、ものの10分もかからないだろう。タクシーを拾う。ドアが開く。運転手に向かって一言「ソウルタワー」と叫ぶ。いくら韓国語がわからないといっても、さすがにこれなら通じるだろう。

ところが....U°ェ°U ハァ? タクシーの運転手は、なんだかわけわからないことを口走ると、かぶりを振ってドアを閉め、そのまま走り去ってしまった。乗車拒否???

しょうがない。外国人は乗せたくないのかも知れないし、そのタクシーの運転手には、止むに止まれぬ特別な事情があるのかも知れない。何が起こるかわからないのが海外だ。次のタクシーを止める。すると、また運転手は、こちらが「ソウルタワー」と言ったとたん、ダメダメといった表情を浮かべながら「...ニダ....ソウルタワー...イルボン....ダメニダ....オオニタ...コッカイギインヤメテ....プロレスフッキシタニダ....トモカク....オッサンワ....ヨウタワーニワイカナイ....ダメニダ」みたいなことを言う。

ナニイッテルノレスカ?

わからない。で、またタクシーは去っていった。バス停では、その場に居合わせた、バックパッカーらしき欧米人のお兄さんが、僕たちのこのマヌケな一部始終を見て、鼻でフッとせせら笑った。笑いたければ笑え。でも、なぜ?

僕は負けない。三台目のタクシーを止めた。「ソウルタワー!!ソウルタワーいって欲しいのだワン。行ってくれニダU・x・Uワンワンワン!!」と思わず犬並みの積極さで尻尾をフリフリ頼んでみたのだが、やはりタクシーの運転手は渋い顔をしている。なぜ???????
トワイライトゾーンに陥ってしまったのか??????

そのとき、奇跡が起こった。

どこからともなく現れた白馬に乗って(というか、バス停の近くに停車していたタクシーからやおら出てきたのだが)一人の角刈りのおっさんが僕の後ろから近づいてきた。
往年のグレート草津みたいな顔した迫力のあるおっさんだ(昔の東映のヤクザ映画によくいた「いぶし銀」の角刈りの渡世人のイメージ)。日本語を少し話せる。しぶっているタクシーの運ちゃんを「アホ、つべこべいわんとさっさとソウルタワーにこのカップル乗せてったらんかい!」と一喝した。運ちゃんはおっさんの迫力に気おされながらも、なぜ自分がソウルタワーにこの日本人を乗せていきたくないかという理由をしゃべっている。しかしおっさんは容赦ない。端から有無を言わせようとしていない。「アホ、○×□△したらええんやないか、なんも心配することあらへんちゅうねん」(となぜか関西弁になってしまうのだが)、と運転手をやり込めると、「パスポートはお持ちですね。どうぞお乗りください」とものこちらの方を向いてすごく丁寧な日本語をしゃべりながら、僕たちを後部座席に乗せると、強引にドアをバタリと閉め、運転手に、「さあ行け!」と目配せした。

運転手はキツネにつままれたような顔をしながらも、おそらくはタクシー業界ではけっこうな「顔」であろうはずのそのおっさんに歯向かうわけにもいかないのであろう、車をタワーの方に向かってヨロヨロと走らせ始めた。何かを説明したいみたいにこちらを向いてはひとしきりしゃべっているのだが、僕たちにはさっぱりわからない。ともかく、そのグレート草津のおかげで、僕たちはソウルタワーに向かって移動することができているようだ。

車は南山を這うようにして登っていく。途中で検問みたいなところがあって、高速の料金所みたいなボックスにいる強面のお兄さんから、パスポートの提示と、南山公園への入園料を請求された。僕たちはパスポートを見せ、運ちゃんは入園料を払った。タクシーが公園に着き、支払いをする段になって、運転手は先ほどの入園料も追加で支払ってほしいと言ってきた。なるほど、彼が懸念していたのはこれだったのか。パスポートの提示と、追加の入園料。そんなの、大したことでもないのに。言ってくれれば払いまんがな。といいつつ、そんなコミュニケーションができないところが、僕たち日韓の人間の間に横たわる溝といえば溝なのだろう(っていうか単純にお前が韓国語勉強しろという話ですな)。

僕たちを降ろすと、おっさんは苦笑いしながら、「じゃあ」みたいな感じでタクシーを出発させた。ありがとう、おっさん。カムハムサニダ。いらぬ心配かけて、ごめん。それにしても、バス停にいた、あのグレートな角刈りのおっさんは、かっこよかった。粋なオヤジだった。おせっかいなオヤジ、何かにつけて、一言多いオヤジ、気力体力がやけに充実しているオヤジ、精力がやたらと溢れてて、それだけに何かと周囲とひと悶着起こしてしまいがちなオヤジ、つまり、短気なオヤジ、だけど、人間力があるから、何が起こっても結局はそれなりに場を収めてしまうオヤジ――そんなオヤジだった。かつては、日本にもそんなオヤジが溢れていたはずだ。人間の始原のワイルドネス、原始の欲望、エネルギーと、高度成長を遂げつつある文明の利便性が最高度に交わるところに位置するようなオヤジが。

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ソウルタワーを出発したバスは、もうすぐソウルを代表する名所、李氏朝鮮時代の宮殿、昌徳宮に到着しようとしていた。良くも悪くも、そろそろ旅のメインディッシュが近づいてきているようだ。もともと、何かの建造物を見たり、どこかの名所を訪れたりすることが、韓国旅行のクライマックスになるとは思っていなかった。だけど、なんとなく、そしていやおうなく、旅は僕たちをいわゆるひとつの観光名所に連れて行き、そしてそこでなんとなくそれなりに旅行しにきたね~という納得感を与えようとしているのかもしれない。旅という奴は、なんて予定調和な野郎なんだ。といいつつ、そういったありきたりの演出を求めているのは、ほかならない浅ましいこの自分の心だったりするわけなのだが.......。

異国にて出会う子猫の無垢なりき瞳 この子に「国境」必要だろうか

マッコリ・イン・トランスレーション ~オモビニを探してソウルフルな旅~ 10

2008年07月13日 23時14分26秒 | 旅行記
Huge city!

小さな男の子を抱え上げた父親が、眼下に広がるソウルの街並みを見渡しながら、そうつぶやいた。おそらくはアメリカ人らしいこの親子から見ても、ここソウルタワーから見下ろすこの都市の広大さは驚嘆に値するものなのだろう。もちろん、日本人である僕から見ても、この街は大きい。たしかに、紛れもなくソウルは巨大都市なのだけど、外国人の目に映る異国の地は実物よりもさらに大きなものとして感じられるのかも知れない、そんなことを思ったりする。

ソウルの中心部には南山と呼ばれる標高265メートルの山があり、その頂上に立っているのがこのソウルタワーだ。文字通りソウルのランドマークであり、この都市を象徴する建造物になっている。あえて言うまでもないけど、ここは東京にとっての東京タワー、京都にとっての京都タワー(ちなみに僕が住んでいる西東京市にも、田無タワーがあります)であり、さらに南山という山の上に聳えているところが、より迫力があるというか、科学特捜隊の基地っぽいというか、たわわなタワーという存在感があるのだった。南山なる山が都市の中心部にあるということは、恥ずかしながらソウルにくるまで知らなかった。それで思い出したのだけど、昔、京都にいたときに働いていた映画館のすぐ近くに「南山」という名前の焼肉屋さんがあって、何年間も毎日のようにその看板に書いてある南山という文字を目にしていた。それがこの山を指していたのだということが、遅まきながら初めてわかり、百年の誤読じゃないけれど、二十年の無知みたいな心境になってしまって、申し訳ないというか何というか、あの南山のマスターが遠く日本で感じていたであろう郷愁がぐっと胸に迫ってきたのだった。つまり、あの焼肉屋『南山』は、たとえばメキシコシティにある寿司屋『Fuji』みたいなものだったのだなということが、ソウルに来て南山を見上げた瞬間に、僕の脳裏を駆け巡ったのである(蛇足だけど、ソウルの焼肉屋には『名所』という名のお店があった。笑った。焼肉の名所...)

ソウルは広く、そして巨大だ。連立するビル群、遠くに見える山々。当たり前だけど、ここに住んでいる人たちにとっては、ここが世界の中心なんだ。

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タワーのある公園のバス停の前に、冷たい飲み物やお菓子を売っている「あずま屋」風の店があった(オモビニタイプのものではなく、日本にもよくある小さな駄菓子屋といったたたずまい)。店先のベンチには客とおもわしきおっさんが二人座っていて、完全にリラックスしながら、タバコを吸い、世間話をしている。ミネラルウォーターを買おうと思ってボトルを手に取り、店員を探して店の中を覗こうとすると、そのベンチのおっさん二人が同時に「兄ちゃん、ここやここや」。といった感じで何かを叫び、自らの方を手招きした。つまり、僕が客だと思っていたこのおっさんたちが店番だったのである。おっさんたちは苦笑いしながら、「兄ちゃん、目は節穴か、どこみとんのや」みたいな感じでお金を受け取ってくれたのだけど、僕は照れ笑いを浮かべつつも、心のなかで「おっさん、リラックスしすぎやで。どうみても客やないか」と突っ込みをいれずにはいられなかった。そういえば韓国のレストランとか食堂でよく見かけた風景なのだけど、通りから店内を覗くと、店員は、客がいないときにものすごくリラックスしている。客席で、テレビを観ながらまかないを食べていたりする。椅子に、体育座りというのか、片足上げて座ってたりする。そのたたずまいが、なんというか自分の家の居間にいるときそのままという雰囲気なのだ。もちろん、日本でも似たような光景はある。午後三時くらいの客のいない小さな中華料理屋とかで、店主とおかみさんがボーっとテレビ見てたり新聞読んでたりすることはある。だけど、日本だと店の人は客が来たと同時に、ちょっとだけ居住まいを正して、「いらっしゃいませ」という感じになると思うのだけど、韓国ではそのリラックスした状態のままスイッチを切り替えずに「よくきてくれました、さあどうぞ」みたいな感じで客をもてなすような気がする。つまり、店舗の「我が家度」が高いような気がするのだ。で、そんな光景が見ていてとても楽しかったのだった。こっちも肩肘を張らずにリラックスできるし、よく考えたら人の家にお邪魔してご飯をご馳走になることほど嬉しいサービスはないわけで、そうした感覚の延長戦上にある商売だと思ったら、こうした完全リラックス方式の方が、本来あるべき姿のような気がしてくるのだ。

そのあずま屋の店の前には、おっさんのほかに黒い雑種の犬がいた。とても可愛いかった。犬は暑さにまいっていて、ごろんと日陰で横になっていた。人に媚を売るわけでもなく、かといって愛想がないわけでもなく。おっさん二人と犬との関係は、お互いにとって完全に空気のようなもののように見える。まったくといっていいほどお互いが相手のリズムに合わせることなく、それでいて完全な調和の世界を作り出している。彼らは見事なくらいにあずま屋の風景と一体化していた。悔しいくらい絵になっている。こんなあずま屋のシーンから始まる映画があっても面白いかもしれない。

おっさんは、よくしゃべっている。おそらく一日中店の前のベンチに座り、タバコを吸いながら相方とおしゃべりとしているのだ。僕がそこにいたのは10分かそこらだったけど、たったそれだけの時間の間に僕に無限を感じさせてしまうほど、おっさんたちの会話には「延々」とした響きがあった。観光地だから客にもあまり困らないのだろう。客が来たらそのおしゃべりモードのままでリラックスして応対し、客がいないときは、雑談に花を咲かせる。こうして日がな一日しゃべり続ける人生というのも、わるくない。というか、うらやましい。これだけ長時間しゃべり続けていたら、きっと話題も深く細部にこだわったものになるのだろう。おそらくは脱線に次ぐ脱線。鶴瓶と上岡龍太郎がやっていたパペポTVみたいに、延々と話が話を呼んでいくのだろう。話しながら、思わぬ発見があったり、意外な事実が明るみになることもあるだろう。人間、話しても話しても、逆に話題は増えていくものだ。ソクラテスもびっくりの、森羅万象について、ただただ語り尽くす日々。二人の会話をすべて聞き起こししたら、それだけで毎日朝刊夕刊を発行できるくらいの情報量になってしまいそうだ(『ソウルタワー新聞』)。きっとこのおっさんにとって、人生ははかりしれないほど長いものであるに違いない。おっさんを見ていると、神様はきっと、人間に十分すぎるくらいたっぷりの時間を与えてくれているのだという気がしてくる。犬は、おっさんたちとは別な方向を見つめながら、じっと座っている。おっさんのすぐ近くにいながら、まったくおっさんと別世界にいる。だけど、なんというか、彼らは「ひとつ」なのだ。

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バスを待つ合間の、なんでもない旅の一コマだったのだけど、このあずま屋のことはなぜか妙に印象に残っている。今日も、あのおっさんはあのベンチに座って、あれこれと話を続けているのだろうか? そしてあの犬もあの午後と同じように、おっさんの話に耳を傾けるでもなく、アスファルトに寝そべりながら、哲学者のような顔をして、じっと遠くを見つめているのだろうか?

語れども語れども君は尽きず 何を言えばいいのだろう明日は

マッコリ・イン・トランスレーション ~オモビニを探してソウルフルな旅~ 9

2008年07月08日 23時09分15秒 | 旅行記
晩御飯は、焼肉だった。それ以外に、選択肢はなかった。エジプトを訪れた人が当然のごとくピラミッドを観にいくように、吉野家にぶらりと入った人がなんのためらいもなく牛丼を注文するように、調子のよいときのイチローがいとも簡単に綺麗なセンター前ヒットを放つように、とりあえず僕たちは焼肉屋さんに焼肉を食べに行くことにした。

日本で食べる焼肉とは、微妙に違う。はさみで肉を切るところとか、小鉢がたくさん出てきて野菜をたっぷり食べられるところとか、メニューには肉の値段しかなくて、何度でもおかわり可能なそれらの小鉢は基本的にタダなところとか(すべての店がそうなのかは知らないが)。そして予想通り、すべてがとても美味しかった。肉をレタスなどの野菜で巻いて食べるところが、とてもヘルシーな感じがしていい。ビールも旨い。なんというか、これ以上のご馳走は考えられないという気にさせられる焼肉だ。マッコリも美味しい(幸い、日本で出発前に懸念されていたように白いゲロを吐くほどまでは酔いませんでした)。こんな美味しいものばっかり食べていたら、人間が駄目になる。つまり、栄養が多すぎるのだ。贅沢すぎるのだ。こんなにたくさん食べてたら、きっと力があり余り、脂肪があふれ出し、体重計の中心でメタボと叫ばなければならなくなるだろう。ともかく、こんなの反則だ。もう、憎々しいくらい、美味しいのだ。

と、そんなこんなで韓国初日の夜は更けていったのであった(と、ここまで書くのに一ヶ月以上かかってしまいました)。

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明けて二日目。ホテルの朝食が旨い。ビュッフェ形式なのだけど、洋食、韓国食、和食など様々な料理が並べられている。欧米のホテルだと、いくら朝食が美味しくても、パンとかハムとかサラダとか、基本的には洋食なので、何日も滞在しているとだんだん飽きてくる。でもこういうときアジアのホテルだと洋食に加えて、チャーハンがあったり焼き魚があったりとバリエーションが豊富だから得した気分になる。こと食べものにおいては、アジアは文字通り二倍美味しいのだ。

今日はツーリストバスに乗って市内をウロウロしてみようということになった。昔はたまの海外旅行でも、なぜかこういうツーリストバスとかに乗る気はあまり起こらなかったのだが、最近はもう郷に入れば郷に従えというか、長いものには巻かれろというか、冥土が近づいてきたのでとりあえずは人様が見ておけというところには土産のためにも行っておきたいと素直に思えるようになったということもあって、ツアーバスがあればそれに乗ることにしていいるのだ。多くの観光都市がそうであるように、ここソウルにも名所を巡回するシティーツアーのバスが走っている。朝十時頃、南大門の近くからバスに乗り込んだ。車窓の風景を楽しみながら、気が向いたところで降りてみようという行き当たりばったり作戦だ。

ガイドの女性は、韓国語、英語、日本語をたくみに使いわけて、アナウンスをしてくれる。座席に備え付けられたイヤホンからは、日本語、英語を始め、その他の言語で名所の案内をしてくれる。ツアーのマップを見ると、名所旧跡が目白押しだ。昌徳宮、東大門、ソウルタワー、戦争記念館、国立中央博物館、などなど。さすがに、昨日みたいに適当に歩いていたらこれらをすべて観て回ることなどできない。昨日はかなり狭い範囲をグルグルしていたわけだ。まあ、それはそれでミクロな視点でとても楽しかったのだ。昨日歩き回って見つけたのは、観光スポットに比べれば特に珍しくもない、地味な街の風景や人たちの暮らしだった。お寺だったり、高級ホテルだったり、有名建築物だったり、そうしたものにも興味はある。だけど、場末のキオスクでオモニにミネラルウォーターを売ってもらったみたいな、なんでもないことの方が、案外旅の記憶には忘れがたく残るものだ。今日もそんな体験をたくさんしてみたい、なんてことを思う。

バスが勢いよく走り出す。乗客の半数以上を、外国人が占めている。観光バスから観る街の風景は、昨日路地をひた歩いていたときの風景とは少し異なる。バスのなかは「こちら側の世界」であり、バスから見える世界は「あちら側の世界」かもしれない。言ってみれば、昨日の僕はサバンナの大地を自らの足で踏みしめて歩いていた。それが、今日はサファリパークよろしく車に乗せられて、ガラス越しにこの風景を眺めている。ちょっとだけよそよそしい気持ちになる。だけどその分、ダイナミックに、もの凄い速さでバスはソウルの街を駆け抜けてくれる。たった数時間で、この広い都市の横顔を見ることができるのだろう。天気もいい。いい一日になりそうな予感がした。

光当たるところばかりに連れられて行きなるほどこれが観光かと思う

インターミッション

2008年07月06日 22時05分21秒 | Weblog


忙しさにかまけて途切れ途切れに記してきたこの韓国旅行記も、帰国からずいぶんと日がたち、終わりが見えない泥沼に突入しようとしています(笑)が、必ずや最後まで書き終えたいと思っておりますので長い目でみてください。最近、日常の出来事をまったく書いていないので、久しぶりに近況報告したいと思います。

最近の僕は忙しいというか、単にプレッシャーから逃れらない、締め切りに追われて首が回らないという「精神状態」でありまして、しかし物理的な状態としては一生懸命作業に打ち込んでいるようでいて、実は今までと同じように歩いたり走ったり(たまにですが)ビールを飲んだりしています(もちろん作業もしています)。ともかく、しばらくはこんな状態が続きそうです。

金曜日、関西に住む写真家の友人が、表参道のハナエモリビルのオープンギャラリーに作品を展示しているという連絡をくれたので、観にいってきました。とてもよい写真でした。そのあと、友人が行きたいといったのが「イワシと牛タンの店」なるお店だったのですが、彼女は僕がブログで「イワシ」を名乗っていることはまったく知らなかったそうです。すごい偶然で、ドキッとしました。イワシも美味しく、日本酒も美味しく、七年ぶりに会って話をしたその友人との会話もとても楽しく、あっという間に終電間際になってしまいました。モリハナエさんに認められたという彼女と僕とではレベルが違いますが、写真と翻訳、分野は違っても話をしていると共通することがたくさんあって、面白かったです。ありきたりですが、厳しいのはどの世界でも一緒なんだな~、なんてことをヒシヒシと感じたりしました。だけど、好きな道で生きていこうとすることの素晴らしさも改めて実感しました。なんだかんだいって、とても恵まれているし、幸せなんですよね。

昨日、テレビで横尾忠則さんが花田紀凱さんのインタビューを受ける、という番組をやっていて、思わず観てしまったのですが、横尾さんは、本をやたらと買ってしまうのだそうです。でも、買ったからといってそれらをすべて読むわけではないそうで、つまり趣味は読書ではなく「買書(ばいしょ)」なのかもしれない、とおっしゃっていました。もう膝の皿が割れるくらい膝頭をハタと打ちまくりました。いや~、私もまさにこれです。買書。これからは、ご趣味は? と訊かれたら、「バイショです」と答えることにします。買い込んだ本でいっぱいのリュックを背負うときは、「ヨイショです」と言うことにします。私も、買った本を読むなんて野暮なことは(めったに)しません。そんな品のないことはしません。横尾さんもおっしゃられていたように、本を買うという行為をしている時点で、自分のなかに鬱積したものがスーッと消えていくような気がします。買った本を本棚のなかに置いておくだけで、そこにはなんらかの磁場のようなものが生まれてくるのを感じます。釣った魚を、捌いたり焼いたりして食べたりはしません。言ってみれば、キャッチアンドリリースの精神です(ちがうか)。

と、そんなことを半ば冗談で思いつつも、やっぱり本当は本を読みたいのです。浴びるほどに読みたいのです。洞窟のなかに入っていって、しばらくは誰とも会わずに、ずっと本を読んでいたい。じゃあ読めばいいじゃないか、と言われれば確かにその通りです。誰からも「読むな」なんて言われてはいません。すべては言いわけにすぎません。だけど、やっぱりなぜか忙しくて読めない。そして読みたい。仕事をしているとそんなことばっかり頭に浮かんできて、切なくなったり、悲しくなったり、脳みそが爆発しそうになったりします。でも頑張ります。いよいよ夏本番。待ちに待った季節の到来とともに、更なる加速度をもって、前に進みたいと思っています。というわけで、そんな、わけのわからない近況報告でした。

いつになるかわかりませんが、また旅行記を継続したいと思います。みなさま、暑いですが体調を崩されないよう、ご自愛くださいませ。

マッコリ・イン・トランスレーション ~オモビニを探してソウルフルな旅~ 8

2008年07月02日 09時01分24秒 | 旅行記
ホテルから程近いところにある、ソウル市庁前にたどり着いた。ここは文字通りに市の中心部にあり、市民の集会場のような役目を果たしている。2002年のワールドカップのときに赤いTシャツを着たサッカーファンで埋め尽くされ、日本でも有名になったところだ。思っていたより広くはないものの、市庁舎前という象徴的な場所にこれだけの広場があれば(いい感じで芝生が生えている)、なるほど人が集まりやすいのかなと思う。考えてみると、日本には、こういう「何かあったときに人が集まる決定的な場所」というのがないような気がする。たしかに代々木公園は集会のメッカだけど、ここが国の中心地、というイメージではない。どちらかというと反体制的フォークソング的な世界の中心という感じがする。つまり、国のど真ん中からは微妙にずれている。逆に皇居はこの国の中心地なのかもしれないけど、政治やスポーツで盛り上がった国民が自然に集まってくるような場としては機能していない。スポーツの試合で応援するチームが勝ち喜びを爆発させたいとき、渋谷のスクランブル交差点に繰り出してすれ違い様にハイタッチしたり、道頓堀川に飛び込んだり、カーネルサンダースを胴上げしたり、そういうことをすることはあるけど、いくら本人たちが「世界の中心でヨッシャー!!と叫ぶ」と思っていても、やはりそれは社会的には世界の周縁で行われているマージナルな逸脱行為として捉えられてしまうだろう。その点、このソウル市庁前なんかは便利である。ポジティブな集会であれネガティブな集会であれ、それをニュートラルにパブリックな場でできるのだから。なんらかの目的や主張を持って人がそこに集合すれば、それだけで清く正しい民主主義的な意識を共有できそうだ。日本にもこういうパブリックな集会場があれば、たとえば阪神タイガースが優勝したときに阪神ファンとカーネルサンダースがそこに集合してどんちゃん騒ぎをしたとしても、なんだかそれはそれでまっとうな行為として国民の目には映るのではないだろうか、という気がする。逆に言えば、国からしたら何かあるたびに国民がのこのこと集合する場所がないだけ、上手く国民感情を「散らす」ことができるのだから便利だと思っているのかもしれない。

今、韓国では米国産牛肉の輸入規制問題などを端緒としたイ・ミョンバク政権への抗議デモが熱い。その日の市庁舎前にもたくさんの人が集まり、ワイワイとやっていた。一角にはステージが作られ、そこでマイクを持ったデモの運動家が入れ替わりたち代わり立ち、大声でアジっている。残念ながら何を言っているのかはよくわからないのだけど、まあ、間違いなくイ・ミョンバク政策の批判をしているのだろう。「イ・ミョンバク」と何度も繰り返しているのがわかる。集まっている人たちは、それほど深刻な顔をしているわけではない(もちろんなかにはそういう人もたくさんいるのだろうけど)、どちらかというとむしろこうしたデモや集会を楽しんでいるという空気を感じる。屋台もたくさん出ていて、一見、音楽のコンサートのような雰囲気すらある。でも、舞台の上にいるのはバンドではなく、抗議演説をしている人だ。ピリピリした空気も随所に感じられる。さすがに、その場に紛れ込んでいるとちょっと緊張する。関係ない部外者が、旅行者が、地元の生活者や労働者が真剣なデモ集会をしているのを、面白半分に見物していると思われてしまうかもしれない。シュプレヒコールが鳴り響く。

韓国の人はデモ好きなのだそうだ。そういえば、この市庁前以外でも街頭でなにかを訴えている人たちがいた。熱く、ストレートに自分の意見を主張するデモのスタイルが、国民気質にあっているのかもしれない。