イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

28年ぶりの島根県浜田市再訪記 ~君の唄が聴こえる~ その13

2009年08月31日 19時25分12秒 | 旅行記
ホームの階段を上った。改札口が見える。「無事、浜田に到着できた」それだけで、自分が大きなことを成し遂げたような気がしてしまう。まるで十才の子どもだ。東京を出る前は、白馬に乗った王子様として颯爽とかっこよく浜田駅に登場するはずだった。でも今の自分は、もうヨレヨレだった。雪山で遭難し救助された登山客みたいだった。安否を気遣っていた身内が、駅に出迎えに来てくれているのだ。「よく来たね!」というより「よくたどり着けたね!」と思われているに違いない。

ロボットみたいにぎこちなく前に進む。意識がだんだんスローモーションの世界に入っていく。ブライアン・デ・パルマの映画の、ラストシーンみたいに(そんなにかっこよくないか)。すでに清君とエイコちゃんは、僕の姿を見つけて呼びかけてくれているのかもしれない。でも、駅の喧噪と胸の鼓動が混じり合って、自分の耳が何を聴いているのかがよくわからない。視界がぼやけて、見つめた先のものしか目に写らない。改札口の駅員の姿を確認し、そこに向かいながら、入場エリアを仕切る鉄柵の方に目を向けた。3人の男女が、こちらに向かって手を振っている。何かを叫んでいる――。

清君! エイコちゃん! かぺ君もいる!

清君とかぺ君はふたりともすごく背が高い! 鉄柵越しにニッコリ笑って大きな手をあげてくれている。エイコちゃんは小柄だ。しゃがんでいるから余計に小さく見える。鉄柵の間から、笑顔で携帯のカメラをこちらに向けている。動物園の白クマになった気分だ。3人の姿はまるで、バッター清、キャッチャーエイコ、審判かぺ、みたいだ。

改札を抜けた。上の空で、駅員に新幹線の切符を渡した――(後日談:緊張していたためか間違えて帰りのチケットを渡していた。駅員もなぜかそのまま通してくれた。おかげで帰り道も大変だった)。

3人が近づいてきた。会う前は、お互いの顔を認識できるかどうかちょっと不安もあった。だけどそれは、まったくの杞憂だった。清君、かぺ君、エイコちゃん、みんなすごく面影が残っていて、見た瞬間にすぐにわかった。清君と、かぺ君と、エイコちゃんが28年すくすくと育ったら、こんな風に立派な大人になりました! という感じだ。喜びと驚き、興奮で何を喋っていいのかわからない。こっちゃん、よくきたね、清君、かぺ君、エイコちゃん、ひさしぶりだね、たぶんそんなことを言って、とにかく握手した。離ればなれになっていたコジマが、みんなとつながった瞬間。

清君もかぺ君も身長が180センチ以上はある。がたいもよくて、すごく元気そうだ。かぺ君は僕以上に日に焼けている。浜田で生きているたくましさのようなものが、浜田という土地の風土が、ふたりの表情に表れている。迫力のある、立派な顔をした男たちだ。なんだか僕だけ子どものままのように感じて、都会のもやしっ子のように感じて、気後れしてしまう。ふたりも僕と同じく何を言っていいのかわからない様子ではあったが、「まあまあまあ」という風に僕の荷物を取り上げるようにして持ってくれた。4人は、近くに停めてあるかぺ君の車の方に向かって歩き出した。今日は清君の家に泊めてもらうことになっている。かぺ君の愛車で清君の家に行き、清君の奥さんの靖子さんが作った夕食をご馳走になるのだ。何をどう言えばいいのかわからない、口をついて出る言葉がもどかしい、ともかく前に進んだ。

この懐かしさは簡単には言い表せない。ともかく、新山事件はたいへんだったね、本当に久しぶりだね~、と、そんなことを話しながら、興奮気味にかぺ号のところまで歩いて行く。エイコちゃんとはいったんここでさようならだ。当時から小さかったエイコちゃんはあの頃と同じように小柄で可愛らしく、ヒラヒラと蝶のように僕たち3人の周りを舞いながら、ニコニコと男子の再会を見学していたような感じだった。エイコちゃんに、新山口駅で買ったおみやげの宇部かまぼこを渡した。エイコちゃんも、まさか28年ぶりに再会した白馬の王子様から、宇部かまぼこを渡されるとは思っていなかっただろう。でもいいのだ。「うちはええのに~、でもありがと」と言ったエイコちゃんの言葉づかいが、なんともいえず懐かしかった。明日はマキちゃんと由美ちゃんと学校で再会だね、またね! 興奮したまま手を振った。

28年ぶりに会ったのに、まるで夏休み明けに会ったくらいの感覚で、やあ、しばらくぶりだね、みたいな言葉を交わしている。そんな気持ちになれることが嬉しい。本当に仲がよかった友達だからこそ、あの日が昨日のことのように思えるのかもしれない。下手をしたら一生会うことができなかったかもしれないのに、本当に今、僕たちは同じ場所にいる。4分の1世紀も相手に見せることのなかった姿をお互いに見せ合うのはちょっと恥ずかしかったけど、たしかに今、僕は清君とかぺ君と一緒に歩いている。夢を見ているようだ。

かぺ君の車に乗って、浜田駅から10分ほどのところにある清邸に向かう。あのかぺ君が、車を運転している! 漁師の子で、木の箱にいっぱいの魚を抱えて、僕の家に持ってきてくれたかぺ君。左利きのかぺ君。当時から群を抜いて背が高かったけど、やっぱり今も背が高い。髪型も、当時を思い起こさせるようなさっぱりとした短髪だ。清君も当時と本当に変わっていない。姿勢が良くて、運動神経が抜群によかった。景山クラスの大将だった。笑うととっても無邪気な顔になるところは、昔とまったく変わっていない。

僕は1、2年生のときはかぺ君と、3、4年のときは清君とクラスが同じで、それぞれとっても仲が良かった。当時は、かぺ君と清君はクラスも違ったしあまり一緒に遊んだりはしていなかった。ところが5、6年でクラスが一緒になってから、ふたりはすごく仲がよくなり、中学、高校も一緒で、大人になってからもずっとつきあいが続いているのだそうだ。ふたりとも僕と仲がよかったから、今回の僕の浜田への帰省をとても喜んでくれた。ふたりが親友であることを知るのは、本当に嬉しい驚きだった。

年始めに由美ちゃんがブログを見つけてくれてから、春にエイコちゃんからのメールがあり、マキちゃんともメールするようになり、エイコ&マキがGWに先生を訪ねてくれたり、夏の段取りをしてくれた。そして清君、かぺ君からのブログを通じての連絡、靖子さんとのメールのやりとりがあって、ひょうたんから駒みたいな話が、あれよあれよという間にトントン拍子でここまできた。すごい展開だったよなぁ、それにしても色々、びっくりだよね、懐かしいなぁ~、奇跡みたいだ。そんな話をしながら、かぺ君が慣れた手つきでハンドルを操る。「いつものように」といった雰囲気を漂わせながら、スーパーかぺ号がトンネルを抜けていく。ここ浜田でのふたりの日常の息吹が伝わってくる。ふたりはずっと、浜田を身近に感じながら生きてきたのだ。あれから28年。僕もそれなりに人生を生きてきた。だけど、久しぶりに浜田の空気を吸い、流れゆく外の景色を眺めていると、なんだかあの後の僕の人生はすべて嘘であったかのように思えてくる。十才のとき雪山で遭難し、氷漬けになってずっと冬眠していた男が発見され、今、清邸に搬送されている。そんな気がしてならない。こっちゃんは結婚してるの? いや実は1年前に離婚したんだよ。ああ、やっぱり独身だったのか、ブログ見てたらそんな気がしてたんだけど、ネットで結婚してるって情報を見たような気がしてたんだ。うん、それは昔のデータだね。でも今は辛さもだいぶ薄れてきたんだ。そんな時期に昔の友達と会えてよかったよ。天のお導きかもしれないと思ってるんだ。そうか、うん、人生いろいろだよ。ともかくよかった、今日は呑もうよ、靖子が料理を作って待ってるから。ニンニクのナマ焼きも用意しておこうかって冗談言ってたんだよ。笑った。そして、三人で笑えることがとっても嬉しかった。

車が清君の家の前に到着した。立派な一軒家! うわぁ~、すごい豪邸だね! 清君はニッコリ笑って何も言わずに荷物を持ってくれた。かぺ君も荷物を持って、まるで自分の家みたいに中に入る。広い家だ。暗くてよく見えないけど、ひっそりとした山間にある、とても空気のよいところだ。

「ここがこっちゃんの"控え室"だよ」と、清君が部屋に案内してくれた。旅館の一室みたいな綺麗な和室だ。布団も用意してくれている。嬉しさで胸がいっぱいになる。

リビングに入ると、テーブルの上に、この世のものとは思えない豪華な料理が並んでいた。そしてキッチンには、とびきり可愛らしい女性の姿が――。靖子さんだ! 

こっちに来る前、清君の代わりに何度もメールで連絡をもらい、至れり尽くせりの気遣いで、浜田への旅の準備をサポートしてくれた靖子さん。嫌いな食べ物はないですか、駅への迎えは何時ごろがいいですか、どうぞ泊まっていってください、かぺ兄も入れて食事をしましょう、チンしたニンニクはお好きですか、などなど、などなど。寝るところは畳一畳のスペースがあれば大丈夫です、森永オットットと蠣以外は何でも食べます、昆虫も食べますが、食事もどうぞお気遣いなく、ニンニクは念入りにチンしてください、なるべく気をつかわせないようにと、そう書いていたにもかかわらず、はやくもここは竜宮城かと思うようなもてなしを受けようとしていることがはっきりとわかった。でもやっぱりすごく嬉しい。

7時半過ぎ、宴が始まった。最高に懐かしく、楽しい一夜が幕を開けた。

(続く)

※エイコちゃんが浜田駅で写した写真は上手くとれておらず、使用できなかったので、想像図で代用しました。

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28年ぶりの島根県浜田市再訪記 ~君の唄が聴こえる~ その12

2009年08月30日 23時28分14秒 | 旅行記
「スーパー」の名は伊達ではなかった。友との再会を前に、ゆっくりと心の準備をしたいというこちらの落ち着かない心持ちをあざ笑うかのように、スーパーおきは軽快に山口本線を東に進んでゆく。あれだけ待たせておいて、いざ走り始めたら速い。ええい、わびさびのわからん奴め。1分、5分、10分。腕時計を眺めるたびに、あっという間に時間が過ぎていく。車窓には、延々と続く田畑が映っている。昭和から時間がとまったかのようなたたずまいの風情ある農村。そして、驚くほどに豊かな、山々の青い緑。

「おき」の車内の乗客を見回す。帰省客っぽい人が多い。若い人も目立つ。ファッションといい髪型といい、東京で見るのと変わらない、今風の人たちだ。浜田で降りる人もいるに違いない。おかしい。僕が浜田にいたときは、みんな昭和50年代な人たちだったのに、みんな平成21年8月の人な顔をしている。いや、おかしいのは僕の方だ。この電車に乗っているはずなのは、あのころの服装をした、昭和な浜田の住民たちじゃないのかと、感じてしまうこの僕の頭がおかしいのだ。反対側の座席にいる今時風な男性客が携帯電話でしゃべっているのが、しゃくに触る。僕は、浜田は浜田のままで、昭和は昭和のままであってほしいと思っているのだ。どうせ電話でしゃべるなら、赤電話を使いなさい。いかん、オレは全然、過去を消化していない。時計が止まったままだ。電車に乗っているこの2時間ちょっとの間で、少しでも自分を現代に適応させなければ。そもそも、お前自身が平成を生きているのに、周りだけ昭和のままでいてほしいなんて、ムシのいい話だ。

それにしても、清君と駅で会ったら、何を言えばいいのだろう。エイコちゃんには、どんな言葉をかければいいんだろう。気の利いたセリフなんて用意できない。そのときの自分が、自然に口から言葉を出してくれるだろう。再会できた喜びと、これまでの感謝の気持ちが、上手く伝わればよいのだけど。

清君の家にいって、かぺ君、靖子さんと、どんな話をすることになるのだろう。僕が覚えていることを、相手は覚えていないかもしれない。相手が覚えていることを、僕はすっかり忘れているかもしれない。とにかく毎日いろんな遊びをしたことだけを覚えている。その話がしたい。パッチン(めんこ)、にむし(地元独自のボールゲーム)、草野球、虫採り、ザリガニ採り、ウルトラ怪獣の消しゴムを集めたこと、猛毒作り、モグラチャンス――そんな話がしたい。彼らと昔の記憶をどこまで共有できるのかはまったく想像もつかないけど。そして、あれからお互いの人生にどんなことがあり、今に至っているのか。毎日を、どんな風に暮らしているのか。そんな話にもなるだろう。楽しみだ。でもちょっと怖い。浜田弁を、僕は覚えているか? あの頃ならともかく、28年が経過し、大人になっているふたりの親友との話は、尽きることなく続いてくれるのだろうか。次から次へといろんな想念がわき上がってきて、そわそわして落ち着かない。

山口本線を進んだ列車が津和野を過ぎ、益田駅に到着すると、そこからは山陰本線に入る。いよいよ浜田が近づいてきた。同時に、暮れ始めた景色の向こうに、綺麗な日本海が覗くようになってきた。浜田で僕が住んでいた長浜町には、海が間近にあった。大通りを一本外れると、そこはもう海岸線だし、どこにいても少し高台に上れば、浜田湾を一望できる。自分を育んでくれた日本海を眺めていると、故郷に帰ってきたのだという思いがいっそう強くなった。

日本海を見ること自体、ほとんど20年ぶりだ。この海は、極北を思わせるような冷厳さと同時に、侘びしくも優しいぬくもりを感じさせてくれる。柔らかい黄昏色の陽光に反射して、漁村の民家の屋根瓦と水面が、同じようにキラキラと光っている。この地方で育った者としては、これぞまさに日本の原風景。その圧倒的な美しさが、もう余計なことは考えるなとこちらに語りかけているような気もする。じっと窓の外を見つめた。

今でも酔っぱらってフラフラになりながらなんとか家に帰りつくときに、自分の帰巣本能に驚くことがあるけど、人間には帰巣本能がある。あらためてそう思う。僕が浜田で一番、行ってみたいところ、それは長浜小学校から当時の自宅までの通学路だ。子どもの足でも三十分くらいかかっていたような気がするから、今歩いてもかなりの距離だろう。道順やその光景ははっきりとはイメージできないが、きっと行ってみたら思い出すはずだ。そしてものすごい懐かしさを感じるはずだ。

小学校と同じ敷地内にあった幼稚園の時代を含めれば、浜田に住んでいた5年間、ほぼ毎日その道を通っていた。いくつもの近道と回り道があり、途中で友達の家をいくつも通りすぎた、あの道。細い路地のような道を、蟻が這うように抜けて行った。路地の隙間からは、真っ青な日本海が見えた。逆側には小高い山々が連なり、その全面に濃い緑が広がり、空は抜けるように青く、手を伸ばせばつかめそうなほど近くにあるように見える雲は白く、何羽ものとんびがゆっくりと上空を旋回してピーヒョロロと鳴いていた。家がすぐ近所だったかぺ君と、遊びながら、ときにはケンカしながら歩いた。ともかくその道をこの足で歩いてみたい――腹の底からわき上がってくるようなこの欲求は、相当なものだった。そのあまりの強い衝動に、我ながら驚いた。人間は、ひょっとしたら鳩以上に、元いた場所に戻りたがっている。

車で行くのではなく、自分の足で、そしてできるなら一人だけで、時間を気にせず、ゆっくり確かめながら歩いてみたい。浜田に行くことを決めてから、あの道を歩くことをずっと夢見てきた。他人にとっては、まったくと言っていいほど価値のない、ありきたりの道。でも自分にとってこれ以上、特別な想いと郷愁を感じる道はない。ただ自分が元いた場所であること、それだけで、そこにはかけがえのない価値が生まれる。その当たり前の事実に、あらためて驚いていた。だから今日も本当は15時に浜田駅について、19時に清君に駅に迎えに来てもらうまで、ひっそりと通学路を歩くつもりだったのだ。でもそれは新山事件の発生により不可能になってしまった。まあ、しょうがない。だが、明日からの3日間で、必ずこれは実現させたい。そう固く心に誓った。

ウソみたいだけど、時計の針が19時に近づいている。でももう、あれこれ思い悩んでもしかたない。考えてもしょうがない。鳩が巣に戻るように、犬が飼い主の住む家に戻るように、僕は浜田を目指している。そのことに、特別な理由なんてないはずだ。僕は鳩であり、犬であり、魚であり、そして人間なのだ。みんな、故郷を目指してただ突き進むのだ。

いよいよ浜田が近づいてきた。スーパーおきが、三保三隅駅を過ぎる。懐かしい駅名だ。スーパーおきはますます加速しているように思える。ヲイヲイ、オレはもうちょっと情緒を味わいたいのに、速すぎるよ君は。「スーパーはや」に名前を変えなさい。あっという間に、周布駅を過ぎる。いかん、このままだと、ホンマに浜田に着いてしまう。やばい。僕はうろたえはじめた。しゃれにならん、このままだと、ホンマに浜田についてしまうやん!

次は西浜田駅。長浜はこの区間に当たる。僕は雨の日のモリアオガエルのように指の吸盤を使って窓に張りつき、ハゲタカのような皿の眼で夜の長浜の家並みを眺めた。僕たち家族が住んでいた町を、おきが容赦のないスピードで通り抜ける。懐かしい町並みが、目に飛び込んできた。うめづ君の家の前を、いま通り過ぎた。あっ、清君の実家だ! そしてその直後、長浜小の校舎が! 昭和56年の春、列車で過ぎゆく僕たちを清君たちが見送ってくれたあの校庭、オレは戻ってきたけん! 来た、来た、キタ━━━(゜∀゜)━( ゜∀)━(  ゜)━(  )━(゜  )━(∀゜ )━(゜∀゜)━━━!!!!

興奮は最高潮に達した。スーパーおきは走り続ける、浜田市の光景から目が離せない。子どもだったから、市の中心地や、駅前のあたりのことはよく覚えていない。それでも、必死に街並みを見つめた。たしかにここは浜田なのだ。ああ、オレはホンマに浜田に…。ホンマに浜田に…。

19時02分。スーパーおきが、浜田駅に停車した。駅の構内のどこかに、清君とエイコちゃんが待っているのだ(かぺ君も来ていてくれたのだけど、そのとき僕はそれを知らなかったのだ)。僕はおきから下車した。ここは確かに浜田だ。間違いない。だけど、ここは昭和ではなかった。平成の身なりをした地元の住民らしき客が、足早にホームに向かっていく。僕はゆっくりと、ぎこちなく荷物を引きながら、改札口へと向かった。

(続く)


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28年ぶりの島根県浜田市再訪記 ~君の唄が聴こえる~ その11

2009年08月29日 11時42分14秒 | 旅行記
「新山口におるんやってね! どうしたん?」
「いや~、予定してた新幹線に乗り遅れてしまってでも広島まではわりといい感じで来てたんだけど新山口まで来たらスーパーおきが全然走ってなくて3時間も待たされちゃって大変だったよ、かくかくじかじか、しどろもどろ」
「あら~、広島から高速バスでとるんしらんかったんやね! たいへんやったね」
「うんでもまあしょうがないよ。で、浜田駅に19時02分着の電車に乗っていくから。清君が駅まで迎えに来てくれることになってるんだ」
「そうなんや。じゃあ、うちもちょうどその時間帯に浜田駅の近くにいけるから、見学しにいくわ」
「わかった。じゃあまた後で」

興奮気味に早口でしゃべり、電話を切った。

「28年ぶりだね、懐かしいよ、元気そうで何よりだね! 変わってないねあの頃と!」

みたいな会話になるのかと思っていたのだけど、お互いに緊張していたのか、そういう風に感動を味わうようなセリフはまったくないまま、いきなり話は「新山口駅事件の真相」の報告になってしまった。でも、言葉にはしなかったけど、お互いドキドキしたはずだ。声を聞くことで、メールでやりとりしていたときとは違った何かを感じていたはずだ。グッと距離が短くなったのを実感したはずだ。
エイコちゃんの声は、昔の彼女を彷彿とさせるものだった。想像していたとおりだ。浜田弁と大阪弁が混じったような、独特のしゃべり方。いつものメールの文章がそのまま音声になったみたいな、不思議な気持ちになった。

電話を切った後も、胸の高鳴りはなかなか治まらなかった。駅には清君だけではなく、エイコちゃんも迎え(エイコちゃん曰く「見学」)に来てくれる。すっかり新山口駅で待たされてしまったとはいえ、あときっかり3時間後には、ついにみんなとご対面だ。ワクワクする。だけど緊張する。親しい人とは、28日ぶりに会っても、久しぶり!ってなる。2年8ヶ月ぶりに会うときは、かなりのご無沙汰、懐かしいね!となる。それが、28年ぶりだ。想像を絶する。10才のときにバイバイして、39才でコンニチワだ。人間、こんなとき、どういう気持ちになるのだろうか。

エイコちゃんに電話した勢いで、清君にも電話をしていい?とメールを打ったら、すぐに清君から電話がかかってきた。

エイコちゃんのときと同じく、「懐かしいね」という話は照れくさいためかできず、いきなり「新山口事件の解明」で28年ぶりの会話はスタートした。

「新山口までいったんやね! こっちゃんがいた頃はなかったんだけど、今は浜田自動車道っちゅうのが通っとてね。みんな広島から高速バスで来るんよ」

28年ぶりの清君は、とってもしっかりとした口調で説明をしてくれた。子どもだった清君が、すごく頼もしい大人になっていることがすぐにわかった。それが嬉しかった。そしてびっくりした。しかし、そんな清君の大人ぶり、成長ぶりに対して、いきなり事件を発生させてしまっている自分が情けなく、事情を説明しながら、ちょっとしどろもどろになってしまった。

「バスがあるって教えてあげてればよかったね。わるかったなぁ」

19時02分のスーパーおきで浜田駅に到着することを告げた。エイコちゃんも浜田駅に来ることを伝えた。清君はそうか、と快く承諾してくれた。親分肌の清君だったけど、すごくさっぱりして、男らしいところは当時のままだ。簡単に会話を終わらせて、電話を切った。

エイコちゃんとも清君とも、28年ぶりにしゃべることのとてつもないすごさを、懐かしさを、あえてお互いに言葉にすることはなかった。たまたま僕が事件を引き起こしたから、その話題に終始してしまったこともある。でも、よけいな挨拶は抜きにして、いきなり実務的な話をしてくれたことが逆に、よそよそしい社交辞令なんかしなくても、もう僕のことを受け入れてくれているような、そんな彼らの暖かさをも感じた。困っている僕を、助けてあげよう、助けてあげたかった、という彼らの気持ちが直に伝わってくるようだった。やっぱり浜っ子はええ人やなぁ。そしてやっぱり、僕と同じように、エイコちゃんも清君もちょっと緊張していたんだと思う。ともかく、いよいよだ。泣いても笑ってもあと3時間後にはみんなと顔を合わせているのだ。

新山口駅の待合室で、持ってきた本をずっと読んでいたのだけど、頭に入ってこなかった。ダメだ。本をあきらめて、駅の構内をいったりきたり。お土産は東京駅では時間がなくてありきたりのものしか買えなかったので、せめてと思って新山口でいくつか購入した。怪我の功名だ。清酒「山頭火」というのもあったので、これも清夫妻へのお土産に追加した。キャスター付きの荷物を手で引きながら、動物園の白クマみたいに同じところを何度も何度もいったりきたりした。僕は、すっかり新山口駅の構内を堪能した。

とうとう16:48「スーパーおき6号」の発車時刻が近づいてきた。僕は改札を抜け、1番ホームに向かった。列車はすでにホームに停車していた。列車に乗り込むと、なかはかなり空いていた。なかなかおしゃれでいい感じの電車だ。気に入った。僕は左側の一番後ろの窓側の席を陣取った。左側からは、大好きな日本海を見ることができる。夕日の沈む日本海はきっととても綺麗に違いない。子どものころは、この山陰線に乗って、よく山口にあった母方の祖父母の家や、福岡市にあった父方の実家に行ったものだ。何十年ぶりかになる、懐かしい景色をもう一度見てみたい。

16:48分、時刻通りに、ついにスーパーおき6号が動き始めた。1日に3本しか運行せず、ほぼ4時間「おき」に一本しか走らない、通称「おきすぎ」特急、スーパーおきが発車した。

車窓を流れいく、はっきりとは覚えていないものの、それでいてたしかに懐かしい光景を眺めていると、たちまち心を奪われた。黒っぽい車体に鮮やかな黄色のこの少々古めかしいデザインの列車が、まるで過去から現在を駆け抜けていく銀河鉄道の列車みたいだと思った。

浜田駅の1つ手前の西浜田駅の付近で、長浜小の校舎と校庭が見えるはずだ。28年前、あの校庭で手を振って、列車に乗った僕たち一家を見送ってくれた清君が、その先の浜田駅で待ってくれている。

(続く)


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28年ぶりの島根県浜田市再訪記 ~君の唄が聴こえる~ その10

2009年08月28日 22時24分11秒 | 旅行記
タクシーの運転手は、僕の其中庵に行く決意が固いことがわかると、もう他のところをすすめたりしなかった。営業的な理由もちょっとはあったのかもしれないけど、純粋に、彼が言うところの「何もない」其中庵で僕が退屈するのを心配してくれていたようでもある。彼は、始めは僕のことをかなり若いと思っていたようで、いろいろ話した後で、ようやく「じゃあ、学生さんじゃないんだね」と言った。いくら僕に貫禄がないといっても、学生に見えるのだろうか? ともかく、そんなこともあって「若者が」山頭火に興味を持つのが意外だと思ったのだろう。

彼の山口弁がとても心地よい。僕の母は山口県出身だからこの地方の言葉にはとても馴染みがあるし、僕も浜田に住んでいたときはしっかり山陰弁をしゃべっていたはずだ。ごく短い間だったけど、彼との会話は思いがけず弾んだ。なんだか故郷に帰ってきたみたいな安心感がある。そういえば、小郡には親戚も住んでいる。ここは僕にとって縁のある場所だ(と、間違えて新山口に迷い込んだ自分を正当化する)。運転手は、ここにはトイレもあるし、別館の資料室もあるし、楽しんでね、帰りはこの道を通って、駅まで歩いて30分はかからないよ。みたいなことを言って、僕を降ろしてくれた。とてもいい人だった。

其中庵は人里から少しだけ離れた山の中腹にあった。本当に何もなかった。小さな庵と、別館。入場無料。誰もいない。30分くらいそこで過ごしたのだけど、その間ずっと客は僕以外いなかったし、管理の人にも会わなかった。入り口にある石碑に、こう記されていた。

母よ
うどんそなへて
わたくしも
いただきます

幼い頃に母を無くした山頭火が、母を想ってうどんをそなえた後で、ひとり麺をすする姿が浮かんできた。まさに山頭火の世界。いいところに来たじゃないか。新山口で3時間待たされることになった自分の不甲斐なさを、少しだけ忘れることができた。

静かで何もなく、誰もいない場所で、山頭火が暮らした庵にひとり。それにしても「庵を結ぶ」っていい言葉だ。「借りる」のでもなく「建てる」のではなく「結ぶ」。自分の意志で生きる場所を選択している感じ、生きるために住居は必要最低限のものでいいことを認めている感じがしていい。現代人もこの"結ぶ"を使ってみたらいいかもしれない。「埼玉のはずれに一戸建てを"結び"ました」。「駅から徒歩25分のところにある木造アパートを"結び"ました」。

こじんまりとした庵のなかに足を踏み入れる。必要最低限のスペースに、必要最低限の生活用品が置かれている。山頭火はここで暮らしていたんだなぁ。朝は自然とともに起き、水を飲み、飯を炊き、山菜や野菜や少量の魚を食べ、歌を詠み、書をものす。夜は酒を呑んで、日が暮れるのと同時に眠りにつく。そんな毎日だったのだろう。

句を愛し、旅を愛し、酒を愛し、孤独を愛した山頭火。定型にとらわれない、自由律俳句。その自由律の精神は、まさに彼の生き方そのものだったのかもしれない。


雨だれの音も年とった

ほろりと抜けた歯ではある

うれしいこともかなしいことも草しげる

後ろ姿のしぐれてゆくか

また見ることもない山が遠ざかる


別館のなかに入ってみた。別館といっても、10畳くらいのスペースに、若干の展示物があるだけだ。室内の電気も、入る人がつけ、出るときに消す。でもこのひそやかな空気こそが、山頭火そのものだ。

山頭火は挫折も多く、社会的には決して成功した人生だったとは言い難い。十才の時に母親を無くした。若くして文学的才能を認められ、家業も順調であったが、弟の縊死や事業の失敗などを機に酒におぼれるようになり、妻からも離縁される。酔っぱらって市内電車の前に立ちはだかり、電車停止で大騒ぎとなるが、これを機に禅門に入る。その後、何度も行乞をしながらの旅に出て、句を読み続けた。晩年にも若い頃の人間らしさはそのままに、泥酔して他人に迷惑をかけることもあった。自殺未遂もあった。享年58才。

流浪の人であり、よく歩き、 酒を飲み、歌を作り続けた山頭火。彼の人生に、句に、僕は共感を覚える。彼に比べると相当にスケールは小さいけれど、僕も歩くこと、酒を飲むこと、言葉を作ることが好きだ。そしてときどき大きな失敗をする。

別館には、山頭火の年表があった。まったく知らなかったのだけど、29才の頃、ツルゲーネフの『初恋』を訳して文芸誌に発表したことがあったのだそうだ。すごい、山頭火も翻訳Loveな人だったのか! と思って嬉しくなる。しかも『初恋』というところがいい。なんとなく、今回の旅のテーマを彷彿とさせてくれるような、甘酸っぱい小説じゃないか。40才になろうかとする主人公が、初恋の話を語るところから始まるロシア文学の短編だ。

僕は其中庵と山頭火を堪能した。こんな展開になるとはまったく予想していなかったけど、来てよかった。回り道することも、人生。そう、オレの人生そのものが、回り道じゃないか(涙)。


*****************************************


ゆっくり歩いて新山口の駅に戻った。まだ時間はたっぷりある。

これまで、エイコちゃん、マキちゃん、清君&靖子さん、カペ君たちとメールやブログを通じてやりとりをしてきたけど、実はまだ誰とも電話で話をしたことがなかった。シャイな自分がちょっとばかり情けなかったけど、メールを書くのと、声を出してしゃべることには、ちょっとした壁があったのだ。行く直前には、さすがに電話しておこうかなとも思ったのだけど、なんとなく気が引けた。ひょっとしたら、浜っ子たちも同じことを感じていたのかもしれない。

しゃべってしまった瞬間に、なんだか今まで溜めていたものがこぼれてしまいそうな、そんな気もして、感動は直接会ったときに残しておきたいような気もして、文字だけのやりとりのまま、新山口まで来てしまった。

でも、ここまで来て、それもなんだか水くさいよなぁ。エイコちゃんと清君にメールで「新山口にいます」と書いて送ったら、ふたりともめっさ驚いていた。普通はみんな、広島から高速バスに乗って浜田に行く。1時間に1本、バスは運行されている。1時間半で着く。JR広島駅の新幹線口と浜田駅前をバスは走ってくれている。


格言「東日本方面からJR浜田駅を目指す人は、広島駅から便利な高速バスをご利用ください。決して新山口経由で山陰線を使って行こうとはしないでください」


エイコちゃんからは、以前から浜田についたらメールちょうだい、と言われていた。清君にも駅まで迎えに来てもらうのだから、状況をきちんと伝えておかなくてはならない。そして僕はいま時間をもてあましている。緊張したけど、電話してみることにした。携帯から、エイコちゃんにメールを送信した。

-----------------------------
件名:あの
送信時刻:08/13 16:00

今電話してもいいですか?
-----------------------------

すぐに、電話OKとの返事がきた。

もう逃げ場がなくなった。僕はこれからエイコちゃんに電話しようとしている。28年ぶりに誰かと話すなんて生まれて初めてだ。緊張した。緊張の夏、日本の夏。頭のなかで、打ち上げ花火が炸裂した。これが本当の「山頭火」だ(なんて)。

タイムマシンに乗ってるみたいな気分だった。エイコちゃんの番号を選択して、発信ボタンを押した。2回ほどコール音が鳴り、電話口から女性の声がした。もちろんそれは、エイコちゃんだった。

(続く)


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28年ぶりの島根県浜田市再訪記 ~君の唄が聴こえる~ その9

2009年08月27日 15時37分59秒 | 旅行記
第2章  浜田へ

「"そちゅうあん?" "そちゅうあん"じゃなくて、"ごちゅうあん"でしょ? いや、まいったな~。お客さんが"そちゅうあん"なんていうから、何のことかと思いましたよ~」
と、タクシーの運転手は、まるで突然、空から大量のジャイアントコーンが降ってきたとでもいわんばかりのオーバーな驚き方をした。

流浪の俳人、種田山頭火が晩年に結んだ庵、「其中庵」。新山口駅の周辺で、僕が時間をつぶせそうな場所はそこくらいしかなかった。「其中庵」をなんて読むかなんてわからない。地元の人じゃないからそんなのわからない。知らないからこそ、観に行くんじゃないか。「そ」と「ご」が違うくらいで、そんなに驚かなくてもいいのに。

「其中庵に行ったって何にもないよ。ちょっと遠くになっちゃうけど、郷土資料館があるから、そこに行ったらいろいろ見て回れるんやけんどね。其中庵には本当に何にもないよ。いいの?」

駅の構内の掲示では、結構大きく「其中庵」が名所として宣伝されていた。だけど、地元の人からみたらたいしたことないということなのかもしれない。まあいい。僕はもともと、山頭火が好きなのだ。運転手の遠回しの提案を断り、僕はそのまま其中庵に行ってくださいと言った。タクシーの窓から見渡す小郡の町並みの向こうには、山頭火の代表歌を彷彿とさせるような青々とした山々が広がっている。


分け入っても分け入っても青い山


ところで、なぜ僕は新山口にいるのか。恥ずかしい話なのだけど、説明しよう。予定では、8時10分東京発の、のぞみ11号で新山口へ(12:37分着)行き、新山口12:53分発のスーパーおき4号に乗れば、浜田駅に15:06分に着くはずだった。清君には、19:00頃に浜田駅に迎えに来てもらうことになっていた。なので、久しぶりの浜田をひとり、4時間ほどブラブラと歩いてみたいと思っていた。この4時間は本当に楽しみだった。このひとりの散歩で、自分の身体を浜田に慣らしてみたいと思っていた。ワールドカップに出場するチームが、大会直前に近隣国でミニキャンプを張って調整するみたいに、浜田の潮風に吹かれて、とうとうこの地に戻ってくることができた幸せを味わいながら、清君夫妻とカペ君との再会に備えてみたかった。

ところが、前日に受けた2000ワードの翻訳の仕事が予想以上に大変で、朝になってもまったく終わらない。信じられなかったけど、本当に終わらない。まさかの展開に自分でも驚き、笑ってみたけど、やっぱり終わらない。これがオレだ。まさにオレだ。2時間ほど仮眠を取っただけでなんとか納品を終わらせ、家を出たのが朝の7時半。もうのぞみ11号は間に合わない。せいぜい遅れても予定の1,2時間後、16時とか17時には浜田駅に到着できると思っていた。だけど甘かった。広島駅で乗り換えて新幹線で新山口駅(旧小郡駅)に。その時点で午後2時前だった。浜田でのひとりブラブラ時間は、2時間ほどか? まあしかたない。浜田行きの次の電車はいつなのかと勇んで若い駅員さんに聞いてみたら、職員さん用の専門的な時刻表をぱっと取り出し、あみだくじみたいに僕には見えないラインを指でたどって、「16:48分のスーパーおき6号ですね」と言った。

えっ?

耳を疑った。あと3時間くらいもあるじゃん。ひょっとして、新山口の駅で3時間待ちですかわたしは? 嘘だろと思って駅員さんにもう一度、聞いてみたのだけど、浜田に一番早く着く電車は、16:48分のスーパーおき6号であると念押しされた。僕の顔から血の気が引いていった。職員さんの顔には、何を往生際の悪い。ないものはないんや。お前ひとりのために電車を走らすわけにもいかんじゃろ。そのくらい待つのはこっちじゃ普通なんやけん、と書いてあるような気がした。

笑った。まさにオレだ。これがオレだ。スーパーおき6号は、浜田に19:02到着。到着と同時に、清君と再会か。ひとり浜田ぶらぶらでココロの準備をしたいとうプランは露と消えた。

その代わりに僕に与えれたもの。それは、新山口駅での素敵な自由時間。たっぷり3時間。プライスレス。

何が「スーパーおき」やねん。「スーパーおそ」やないか! 僕は必死で心を切り替えようとした。せめて新山口を堪能しよう。だけど、新山口駅周辺には本当に何もない。たとえば「新横浜」の周辺に、横浜ほど見所がないのと同じだ。山口まで電車で行こうかと思ったけど、その電車もあと30分くらい待たないといけないらしい。さっきの職員さんが教えてくれた。僕はあきらめ、こうなったら新山口駅を極めてやる! と意気込んで、何か無いかと探し、とりあえず車で5分のところにある、其中庵に行ってみようと考えたのである。ああ、この旅はいったいどうなってしまうのだろう。先が思いやられるぜ。


乗り継いでも乗り継いでも新山口


(続く)

28年ぶりの島根県浜田市再訪記 ~君の唄が聴こえる~ その8

2009年08月26日 17時47分16秒 | 旅行記
4月にネットを通じて28年ぶりに再会を果たした僕たちは、5月にはお盆の浜田で会うことを約束した。それはちょっとした興奮の日々だった。

6月に入ると、メールのやりとりはほとんどなくなった。だが、再会の日である「8月14日」は心にはっきりと刻まれている。その日のことを思うと、待ち遠しくもあり、そわそわとした落ち着かない気持ちにもなった。あと2ヶ月。長いようで短く、短いようで長い。浜っ子も同じ気持ちなのだろうか。

ふと我に返ると、お盆に浜田を訪れ、みんなと会う約束をしていることが、嘘のように思えてくるときもあった。浜田駅に到着した電車から降り、プラットフォームをこの足で踏みしめた瞬間、どんな気持ちになるのか。懐かしい友の顔を見た瞬間、お互いに何を感じ合えるのか。先生の心のなかに、僕はどんな風に映るのだろう。小学校の校舎は、僕をあのころの自分に戻してくれるのだろうか。家族と過ごしたあの家は、まだ残っているのか。港町の民家の間の路地を縫うように進んだ、あの通学路の長い道のりを、僕は覚えているのだろうか。それらのすべては、あまりにも今の僕からは遠すぎて、現実のものとして想像することができなかった。

僕は8.14を心の片隅に置いたまま、日々の仕事や、やるべきことに集中しようとした。ブログには浜っ子から、しょっちゅうコメントを書いてもらうようになっていた。まだ少し先の再会のことはひとまず脇に置いて、コメントという数行の短いやりとりを通じて、お互いがお互いの日常のなかにゆっくりと、少しずつ入り込んでいった。短い文字のなかにも、当時子どもだった友達が、今ではすっかり大人になっていることがはっきりと感じられた。これだけの年月が経てば大人になっているのは当然なのだけど、僕はその経緯を知らないから、友達が突然、大人になったみたいな印象を受ける。おそらく相手も同じことを感じていただろう。そのギャップを、僕たちはゆっくりと埋めていった。

ブログには僕の七転八倒の日々が綴られている。昔の友達に恥ずかしい暮らしぶりを知られるのはなんだか照れくさかったけど、僕の等身大の日常を知ってもらえれば、僕に対する過度な期待や妄想も低減するだろう。というか、あまりの変人ぶりに、単に戸惑いを感じているだけかもしれない。当時から破天荒なところはあったが、ここまで変人になっているとは想像していなかっただろう。ドン引きされていないだろうか。

ともかく、熱に浮かされたようなネット上での再会から、しばらく冷却期間を経ることで、夏に向けてよい心の準備ができるような気がした。たとえばもし、4月のあのメールから数日後に現実世界で再会することになっていたら、あまりにも突然過ぎてどう振る舞ってよいのかわからなかったかもしれない。逆に数年後に再会が引き延ばされていたら、気が抜けてしまって感動も薄れてしまっていたかもしれない。初球、二球目には手を出さず、じっくり、いいカウントでいいボールが来るのを待つ。金属バットの快音が響いて、快心のセンター前ヒット。そんないい流れでここまで来ている。

僕にとって、6月と、それに続く7月は楽な月ではなかった。仕事は1年前に会社をやめて翻訳者になって以来、もっともと言っていいほど忙しく、生活も不規則になり、気持ちの余裕もなくなった。天気はいつまでたってもはっきりしなかった。夏が好きな僕にとっては、晴れそうで晴れてくれない今年の天気は本当に辛かった。朝起きて、夜寝るまで、公園を数時間歩いたり走ったりする以外は、ずっと仕事を続ける日々が続いた。指、腕、肩、今まで痛みを感じたことがない身体の部分が、不気味な違和感と共にズキズキした。眼も相当疲れている。散髪もずっとしておらず、髭も伸び、中途半端に日焼けした、鏡に映る自分が、無人島でただ一人暮らす男のように見えた。

文字通り、ここは無人島だった。僕は1年前に離婚をし、同時に会社をやめて在宅で翻訳の仕事を始めた。それ以来、誰とも会わず、孤独にコンピューターの画面を見つめ続ける日々が続いた。急激な生活環境の変化もあって、精神と身体のバランスを崩し、抑鬱した気分に悩まされ、急速に自信と体力、そして人間らしい表情を失っていく自分に気づいた。人と会うことがおっくうでしかたなかった。落ち込んだ自分の姿を人に見られたくなかった。悪夢にうなされるようにして目覚めることも多かった。何かをきっかけに、少しだけ元気になったように感じるときがあり、そんなときは自分は元気を取り戻したのだと、自らに言い聞かせるように、あるいは他人にそれを伝えることでそれを自分に信じ込ませるようにして、語ることもあった。だがそうしたつかの間の元気はすぐに消え失せ、その反動としての落ち込んだ気分にさらに苦しめられることになった。

しかし、そんな荒波に揉まれ続けるような浮き沈みの季節も、ようやく、少しずつ収まりつつようにあるとは感じていた。あまり認めたくはないけれど、時間が薬になったということなのだろう。相変わらず波に洗われ続けていたとはいえ、年始めには大波に飲み込まれるように感じていたものが、春になり、夏が近づくにつれて、中波、小波に揺られているような感覚になってきた。

**************************************************************

7月も中盤から後半になると、いよいよ近づいてきたお盆を前に、ふたたび浜っ子たちとのメールのやりとりが始まった。

少し、驚いたことがあった。その間、エイコちゃん、マキちゃんのふたりも、それぞれに大変な日々を送っていたようだったのだ。原因は仕事のストレスだったり、身内のご不幸だったり、文面だけではそれがどれだけ辛かったのかはわからないけれど、おそらく相当なものだったことが感じられた。いくら元クラスメイトであっても、28年間、顔を合わせていないし声も聞いていない。そんな相手に、自分の辛い日常はなかなか打ち明けにくい。なんとなく連絡が途絶えていた期間、それぞれがそれぞれの現実に直面し、重たい気持ちを味わっていたのだ。そのちょっとした偶然に驚いた。「便りのないのはよい便り」というけれど、そうとも限らない。人生にはよいこととよくないことが半分ずつ起こる。よくないことに追い込まれているとき、沈黙してしまうことだってある。仕事に追われて非人間的な暮らしをしていたこの数ヶ月の間、僕はまたしても彼女たちが抱えていた苦しみのことを想像できなかった。そして僕が28年間、沈黙していた間にも、同じように彼女たちが、そして浜田の友達が、人生のなかで辛い思いを味わってきたことがあったのだろうと想像した。

でも、1ヶ月ぶりのメールで、彼女たちが決して楽しいことだけではない人生の側面を語ってくれたことで、ますます彼女たちに共感する気持ちが高まっていった。僕は、「辛いのは自分だけではない」というセリフを用い、他人の苦しみを利用して自分を慰めることは好きではない。だが、偶然にもほぼ同じ期間、彼女たちが辛い出来事を体験し、それを乗り越えようとしていたことを知って、すぐに内にこもり、自分だけが辛いのだと感じてしまうこの弱い心を恥ずかしく思うと同時に、もっと前向きにならなくては、元気にならなくては、と素直に思った。

実際、僕は元気をとり戻しつつあった。無理矢理自分は元気になったのだと思い込む必要も感じなかった。風邪を引いた子どもが回復するように、自然に元気になっているようだった。理由ははっきりとはわからない。だが「浜田でみんなに会える」という想いが、この元気の素になっているのは間違いない。

この時期に見つけてもらってよかったと思った。
一年前の自分なら、みんなと再会しようという気にはなれなかったかもしれない。そして、かつて経験したことがないような辛い時期を過ごしていた僕のことを浜田の友達が見つけてくれたのは、単なる偶然ではないような気がした。

日程も決まった。8月13日に浜田に入り、14日に小学校の校舎に集合。その後、先生のご自宅にお邪魔して、夜は同窓会。15日はエイコちゃん、マキちゃん、由美ちゃんたちとどこかに遊びに行く。16日の午後には浜田を去る。

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秘書・靖子さんからは、清君&靖子さん宅でご飯を食べ、夜は泊まっていってもかまいませんとのお言葉をいただいた。ちょっと図々しいかなと思って迷ったのだけど、お言葉に甘えてお邪魔することにした。13日、浜田入りした日の夜は、清君、靖子さん、そしてカペ君との会食だ! その次の日も、清邸に泊めていただくことになった。本当にありがたい。いくら昔仲がよかったとはいえ、28年ぶりに会う友達をいきなり自宅に泊めてくれるとは、やっぱり浜っ子っていい人だ。清君は懐が深い。

旅の準備を始めた。荷造りをし、電車の切符を買った。着替え、カメラを鞄に入れた。浜田でも時間があったら走ってみたい。そう思って、普段用の靴としても兼用できるような、ちょとと洒落たデザインの、オレンジのジョギングシューズも買った。もちろん、先生にもらった辞書も、持って行く。


――8月13日、僕はあの頃の自分に会いに行く。


ヒョードル戦を目の前にしたミルコ・クロコップのような心境で、僕は出発前夜を迎えた。



第1章「時空を越えたメール」 ~完~ 



(※いつのまにか第1章 笑。明日から第2章「浜田へ」と題して書きたいと思います)

(続く)

28年ぶりの島根県浜田市再訪記 ~君の唄が聴こえる~ その7

2009年08月25日 18時45分39秒 | 旅行記
エイコちゃんはお盆での景山先生との再会の約束をとりつけるべく、先生の住む場所を探した。友人の美幸さんが車を出してくれた。現在は江津市に住む先生の家を見つけるのはなかなか大変で、途中でいろんな人に助けられながら(消防署の人にも道を聞いた。みんな親身になって協力してくれ、島根の人はええ人だなぁとあらためて実感したそうだ)、ついに恩師とのご対面を果たした。事前に電話すると気を遣わせてしまうからと、突然の訪問だった。

先生は今年の7月で77才になるそうだ。お体の調子も当時と同じというわけにはいかない。再会の感動もそのままに、玄関で挨拶をし、少し話をして、数日後にあらためてマキちゃんと訪問したいとの旨を告げ、その日はそのまま帰ることにした。先生の奥さんが駐車場まで見送りに来てくれた。当時の景山学級の生徒たちが先生を今でも慕っていることを告げると、涙を浮かべて喜んでくれたそうだ。とっても素敵な奥さんで、すっかりファンになってしまったと、メールには記されていた。

数日後、今度はマキちゃんとふたりで先生宅を訪問し、懐かしい話に花を咲かせた。当時、「学級の歌」というクラスオリジナルの歌があって、それを毎朝みんなで歌っていたのだけど、その歌のことも覚えておられたそうだ。「学級の歌」を作り、歌うことを提案したのは、もちろん景山先生だったと思う。毎日みんなでその歌を口ずさむことで、クラスにものすごく大きな連帯感が生まれていたことを思い出す。帰りにはまた奥さんが駐車場まで迎えにきてくれ、そしてまた感涙を流されたのだそうだ。それをみたふたりもまた、目頭を熱くした。奥さんとは初対面なはずだけど、こんなに説得力のある涙もない。僕はその場にいなかったけど、その駐車場での小さな別れのエピソードだけをみても、28年ぶりに恩師を訪れる生徒の感激と、それを迎え入れる先生夫婦の感慨がいかに大きいかがわかるような気がした。

先生のお体のこともあるので、長浜小まで先生にきていただくことは難しい。なので、お盆の計画としては、学校を見学した後で、先生の家にお邪魔して挨拶をしにいくことになった。学校の見学ができるのは平日のみ。だから14日の昼間に校舎で集合になったけど、このプランに参加できない人も、夜はみんなで集まって飲み会をしよう。そういう段取りをすべて、エイコちゃんとマキちゃんが決めてくれた。

メールには、景山先生とマキちゃんの写真が添付されていた。マキちゃん、エイコちゃん、先生の奥さんの駐車場でのスリーショットの写真もあった。28年ぶりに拝見する先生のお姿、そしてマキちゃんとエイコちゃん。先生もお元気そうだ。マキちゃんもエイコちゃんもびっくりするくらい若い。そして面影がはっきりとわかる。メールでやりとりをしていたときとはまた別の、大きな心のざわめきを感じた。そして喜びで胸が溢れた。奥さんもとても素敵な人だ。この奥さんがいたからこそ、先生も教師生活に命を賭けることができたのだろう。

僕もお盆に先生と会える。先生がまだご健在だったことが本当に嬉しい。そして大冒険の果てに先生のご自宅を探し出し、感動の再会を果たして、お盆の約束をとりつけてくれたエイコちゃん、マキちゃんに心から感謝した。すでに奇跡的な何かが起こり始めている。

先生とマキちゃんのツーショット、マキちゃん、エイコちゃん、奥さんの写真の2枚を合成して1枚にし、コンピューターの壁紙に設定した。先生に見守られているような気がして、仕事がいっそう捗るようになった。というのはウソで、壁紙をかえてもいつもと同じようにウンウンうなりながら仕事をしていたのだけど、でもやっぱり先生と奥さん、そして美女二人に見つめられていると思うと、キーを弾く指もいつもよりいっそう快適になり、いつも以上にミスタッチを連発してしまうのだった、じゃなくて、やっぱりちょっとは仕事も捗ったのであった。

4月中旬の、あのエイコちゃんからのメールから1ヶ月あまり。ふたりの努力のおかげでお盆の再会プランがはっきりとしてきた。エイコ&マキちゃんとのメールのやりとりも落ち着きを見せ始め、夏に向けて静かに気持ちを高めていくような時期に入った。


*************すみません、まだ浜田のシーンにはなりません*************


5月8日の夜、ブログに懐かしい友達からのコメントが入った。

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こっちゃん、懐かしいです。
さきほど同級生の女性から電話をいただき、このブログを見て、コメントしてます。浜田の記事も読みました。僕はまだ浜田に住んでいます。夏にぜひ会いたいと思っています。加瀬くんも浜田にいますよ。楽しみにしています。

○○清
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清君だ!!!クラスで一番腕っ節が強くて、足が速かった清君。動物にたとえるならば、百獣の王、ライオン。あえて言うなら「ガキ大将」。それが清君。3、4年のときにとっても仲がよかった清君。毎日遊んでた清君。キタ━━━(゜∀゜)━━━!!!!

カペ君こと加瀬君のことも書いてある。家もすごく近くて、1、2年生のときに一番仲がよかったカペ君。めっさおもろいカペ君。キタ━━━(゜∀゜)━━━!!!!


マキちゃんが清君に電話してくれたのだ! 嬉しい。マキちゃんありがとう!


僕もコメントを返し、お盆での再会を約束した。感慨深いものがあった。不思議だ。昔、沼でザリガニ採ってた僕たちが、ブログのコメント欄で28年ぶりに連絡をとりあうなんて。


しばらくして、カペ君からもコメントが入った。
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やっと見つけた。
清にメールもらって探したけどなかなか発見出来なくて、先日一緒にゴルフに行って詳しく聞きました。
おひさしぶり、加瀬です。

翻訳家になってるんだね。おれは障害者の福祉施設で介護福祉士をしてます。

懐かしいなぁ。今でも色んな事を鮮明に覚えてます。こっちゃんがよく鼻血を出してた事やピアノを習ってた事、こっちゃんちの前にあった鉄棒、裏の空き地で泥水に色んな物を混ぜて「猛毒」を作ろうとしてたこと。清と3人でやった「モグラチャンス」(モグラ叩きゲームを前にモグラを一切叩くことなくハンマーを持ちモグラチャンスと言ってポーズを決める不思議な遊び)ちなみに清と二人で今でも時々意味無く「モグラチャンス」って言ってる。

元気で頑張ってる事を知ることが出来てとても幸せに感じます。
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浜田での生き生きとしたカペ君の暮らしぶり、元気な姿が目に浮かぶようだ。すごく嬉しい。カペ君とは本当にウマが合った。あの頃の楽しい思い出を、当時の雰囲気そのままに覚えていてくれているような気持ちが伝わってくるようで、感激した。それにしても、カペ君がまっさきにそれを連想するほど、僕は頻繁に鼻血を出していたのだろうか? 出していたような気がする。モグラチャンスは何だかはっきり思い出せないけど、そういうオリジナルの遊びをよくやっていたことは覚えている。ともかくワクワクする。


信じられないほど懐かしい気持ちになり、胸がいっぱいになった。


翌日、清君からはじめてメールが来た。清君らしいシンプルなメールだ。
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件名:(なし)
送信日時:2009/05/28 (木) 20:27

こんばんは

これは児島 修さんのメールアドレスでしょうか?
あっていたらうれしいです。

○○清
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清君はさっぱりした男らしい性格で、あんまり筆まめではないらしい。清君からメールをもらったのはこの一度のみで、それ以降は、代わりに清君の奥さんの靖子さんがメールをくれるようになり、「秘書 靖子」として、何度も連絡をしてもらうようになった。この靖子さんが驚くほどにとっても気のつく素晴らしい人で、そして清君夫妻にはこの旅を通じて言葉では言い表せないほど御世話になり、僕は旅を通じてふたりから本当に多くのことをを学ばせてもらうことになるのであった。

(続く)

28年ぶりの島根県浜田市再訪記 ~君の唄が聴こえる~ その6

2009年08月24日 19時43分47秒 | 旅行記
浜田を去り金沢に引っ越してから6年後、僕たち一家は京都府北部の舞鶴市に引っ越した。だけど浜田の友達はそれを知らないから、旅行や出張などで金沢を訪れたときに、あるいは「金沢」という名前を見聞きしたときに、僕のことを思い出したりしてくれていたこともあったらしい。それを聞いて、嬉しく、同時に切ない気持ちになる。そんな過去があったのか。でも、聞けてよかった。再び連絡を取れるようになったからこそ、そういう風に友達の記憶のなかに僕が生き続けていることを知ることができたのだ。いくら切ない過去であっても、それを知らないままずっと生きていくよりもよかった。無くしていたパズルのピースが見つかったみたいな気分だ。

高校を卒業して、京都市内で浪人生になった僕は、そのまま30過ぎまで京都で過ごした。僕がずっと金沢にいなかったのと同じく、浜田の人たちも、ほとんどが学校を出たら進学や就職で浜田を出ていた。十分想像できることだとはいえ、なぜか意外な気がする。紀子ちゃんはずっと京都だし、ナットミも一時期、京都にいたのだそうだ。きっとかなり近くを知らずに行き交ったこともあっただろう。

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児島君20代は京都だったんだね。
ナットミが高校卒業してすぐ京都のXXホテルに
就職して、おごっちゃるゆうから何人かで行ったのに1年目のペーぺーだからそんなハズもなく。
「パフェのウエハース本当は2枚だけど3枚にしといた」と頑張ったといわんばかりの顔でウインクしてきた思い出あるよ。
私らすごい近いとこにいてたんだね、きっと!

神様目線で見たら、転校→金沢→京都→そして今を
めっさ離れた!お、また近くいった!気づくか??…
あ~、わからずにすれ違ったよぉ。
みたいな感じだったのかも。
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そう考えると、実は思っている以上に近い場所で僕たちは生きてきたのだ。そもそも、浜田には東京から7~8時間くらいで行ける。広島から高速バスで1時間半で浜田駅だ(ということを知ったのは浜田についてからだったのだけど)。28年という時間と比べれば、針の先ほどの長さしかない。「めっさ」近い。だけど、問題は距離ではない。たとえ物理的には近い位置にいたとしても、心理的な距離は果てしなく遠かったのだ。互いに消息を得る手段を持たないまま生き続けることは、別の世界を生きることと等しい。いったん関係が切れてしまえば、光の速さで人と人とは離れていく。その距離は、宇宙の果てすらをも感じさせるほど大きなものなのだ。28光年の遠くにあるものなのだ。

なにより、人間は過去を美化したがる。美しいものとして記憶したがる。十才のまま浜田を去った僕はみんなの心のなかで夜空に輝く星となり(と思ってるのは僕だけかも)、僕のなかで浜田はいつまでも桃源郷で在り続ける。それはどちらも幻想だ。だが、美しい幻想としての過去の記憶を、簡単に捨てようとする人などいるのだろうか?

ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの

転校先の金沢市が生んだ詩人、室生犀星もそう歌っていた。過去は、故郷は、遠くにあるからこそ、美しいままであり続けることができる。金沢で僕は思春期を過ごし、大人になるための険しい階梯を上っていった。甘く楽しい思い出もたくさんあるけど、その通過儀礼の過程で、強烈な洗礼も嫌というほど浴びた。それは決して「美しい」の一言だけで表現できるようなものではない。窮屈そうな詰め襟の制服を着た中学生、高校生の男子が経験する青春は、生々しく、刺々しく、痛々しいものなのだ。人生の厳しさ、リアリティを突きつけられるものなのだ。それは十才の子どもが生きていた世界とは明らかに違う。もしそうした時代を経た後に浜田を去っていたのならば、僕に対する幻想も、僕が浜田に対して抱く幻想も、現時点のものとはずいぶんと違ったものになっているに違いない。

真の意味での大人には未だにまったく成りきれていない僕だとはいえ、十才のころとは様々な面で大きく変わっているだろう。浜田のみんなもすっかり大人になっているはずだ。幼少期から各地を転々とし、今は都会で孤独な暮らしをしている僕よりも、住み慣れた地元の共同体のなかで長い時間を過ごしてきた彼らのほうが、よりしっかりとした大人らしい大人になっているであろうことは容易に想像できた。

だから不安はあった。物理的な再会は可能だろう。エイコちゃんとマキちゃんが、みんなに声をかけてくれている。僕もたしかにみんなに会いたい。だが、真の意味での再会は可能なのだろうか。僕の語る言葉は、彼らに通じるのだろうか。彼らの価値観を、僕は理解できるのだろうか。僕は28年前に消えた「こっちゃん」として、みんなの前に変わらぬ姿を見せることができるのだろうか。彼らの幻想を、打ち砕いてしまうことにならないのだろうか。「こっちゃん」は遠くにありて思うもの――だったねと、思われてしまうのではないだろうか。

と、そういう風にちょっとシリアスにもなってしまう自分もいた。だが実は、「なんとかなるだろう」という気持ちの方が強かった。なんだかんだいって僕ももういい年のオッサンである。そして間違いなく、浜っ子たちも僕と同じだけ年を取っている。同い年の大人になっているのだ。いくら28年という時間が僕たちの間に大きな溝を作り上げていたとしても、住む場所や価値観が違っていたとしても、そうした差異をありのままに受け入れられるのが大人だ。恰好つけず、気負わずに、ありのままの自分の姿をさらけ出せばいいのだ。「オッサンになったな~」と思い、思われたって、構わないじゃないか。

何より、かつては日が暮れるまで同じボールを追いかけたり、鬼ごっこをしたり、虫を捕まえたりしていた仲間だ。すべてをわかり合えていた友達だ。どれだけ大人になっていても、姿形が変わっていても、あのときの気持ちをもう一度お互いの心の中によみがえらせることは可能なはずだ。会って顔をみたら、自然とそんな気持ちになるはずだ。

唯一不安なのは、元気のない自分の姿を友達に見せてしまうことだ。飾ることなく自分のありのままの姿で会いたいとは思ったけど、自分らしく振る舞えるだけの元気は持っておきたかった。僕のためにも、みんなのためにも。お盆まで4ヶ月。毎日をしっかりと生きて、元気なままでみんなと会いたい――実際、再会が具体的になってからは、毎日の生活に張りができるようになった。試合の決まったスポーツ選手みたいな感じだ。Xデーに向けてコンディションを高めていくのだ。

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GW明け、浜田への帰省を終えたエイコちゃんからメールがきた。浜田では、相方のマキちゃんと、お盆の計画をいろいろと立ててくれたと書いてあった。男子にも連絡してくれたのだそうだ。いよいよ来たか! 話の経緯的に、ここまで女子しか登場してこないけど、当時はほとんど男子としか遊んでないし話もしてない。女子とは上手く喋れなかったのだ。浜田といえば、当然のように男子の友達のことがまず浮かぶ。みんなは今頃僕の噂をしているのだろうか...

そしてもうひとつ、ビッグニュースが飛び込んできた。歴史ある長浜小学校の木造校舎は、28年前に僕が通っていた当時ですらあり得ないくらいに年季が入っていた、本当に味があって大好きな思い出の校舎だったのだが、それが来年、残念ながら建て替えられる予定にあるらしいとのことだった。つまり、当時のままの校舎を見学できるチャンスは今年しかない。そう考えると、ますます今年のお盆に浜田にいかなくてはならないという決意が固まったし、そんな年に発見されたことの幸運に驚いた。エイコちゃんは校舎の見学ができるよう学校に申し込んでくれた。申し込みにいったときの校舎の写真が送られてきた。撮影したとき、周りでは現役の長浜小生徒が遊んでいたらしい。

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昔は当たり前のように遊んだ場所なのに、「すんません」って小さくなって
歩いてしまうほど(一人では)落ち着かんかった。
でも長浜小児童はしっかりしとるよ。
ダボダボズボンにキャップの不審者にも笑顔で「こんにちは!!」って挨拶してきてくれるん。
目のキラキラした少年に「卒業生なんだけど、先生まだおるかな?」って聞いたら、
走ってみてきてくれたり…健気。
んで職員室入って学校の使用許可証ゲッツできたんだ♪
ありがとう、現役長浜小児童!
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28年ぶりの再会の場所は、懐かしい小学校の校舎に決まった。


8月14日の正午に、正門前に集合。


なんだかドラマチックすぎる展開だ。晴れてくれたら最高なのだけど。

(続く)


28年ぶりの島根県浜田市再訪記 ~君の唄が聴こえる~ その5

2009年08月23日 11時51分17秒 | 旅行記
僕がいた当時とは、呼び名(あだ名)が変わっている友達も多い。今はエイコちゃんでも消息を知らない友達もいる。浜田にいたらばったり出会うこともあるけど、最近ではめったなことがなければ集まることもなく、誰がどうしているかはなかなか把握できないのだという。たしかにそうだ。元気かなぁ、何してるのかなぁと思っても、よっぽど仲がよくなければいちいちメールしたり電話したりはしない。ずっと地元にいたって、そんなものなのだ。そういう事情を知ると、余計にリアリティを感じてしまう。

当時のクラスメイトにたまに会うと、面影ばっちりなのだそうだ。でも、みんなもう今年で39才。世間的にみれば、もう十分にオッサンだ。実際、自分も含めて外見はオッサンになっているだろう。だけど、同級生とは不思議なもので、いつまでたってもお互い子どものままでいられるところがある。お互いに年を取ることを気にしなくてもいい。同じ速度で加齢されていくから、相手の年齢も自分の年齢も気にする必要がないのだ。誰でも年は取るし、老いていく。そんな不可避の真理を、自然に受け入れることができる。親から見たらいつまでたっても子どもは子どもであり、子どもからみたらいつまでたっても親は親であるように、お兄ちゃんがいつまでたってもお兄ちゃんで、妹はいつまでたっても妹であるように、同級生はいつまでたっても同級生であり、同い年なのだ(当たり前だ)。同級生は、相手のふとしたしぐさや表情のなかに、永遠の子どもを見ている。まだ子どもだったころの相手の姿を見ている。そしてそのとき、自らもまた子どもに戻ることができるのだ。子どもの頃からまったくかわらない、年齢や身体的変化を越えた、自分の中心とともに在ることができるのだ。

ブログをみたエイコちゃんが、コメントを入れてくれた。28年前の友達からコメントをもらうなんて、ブログを始める前には想像もしていなかった。その少し前、金沢(浜田の次に住んだ場所)の中学校時代の友達もこのブログを通じて僕を発見してくれるという嬉しい出来事があり、東京に住む友人の一人とは20年ぶりの再会を果たしていた。その彼らもコメントをよく入れてくれるようになっていた。20年以上前の友達から、しかも浜田と金沢という別の場所で知り合った友達からコメントが入っているのを見るのは、嬉しくもあり、なんとも不思議な気持ちにさせられた。僕が生きているのは、現在という点の時間ではなく、昭和45年に生まれてから現在までという長い線の時間であるということが、如実に伝わってくる。

コメントを終えたエイコちゃんからメールがきた。

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件名:初コメント
送信日時:2009/04/16 (木) 0:27

(略)
ブログ読んだら切なくなりました。
私は児島君が浜田を去った日知らなかったよ。
よく覚えてるんだけど、小4の三学期終わり頃のある日放課後
マキちゃんと4-2の教室後ろで掲示物の張り替え手伝ってたん。
景山先生は教壇のとこにいてさ、どうゆうきっかけか
「児島君が金沢に転校する」って言い出して。
はぁぁぁ?? 
私はめっさ動揺。
でも意地張って出た言葉は
「やったぁ!」
確かマキちゃんもそんな事をゆったと思う。
先生になんでと聞かれ更に
「だって嫌いだったもん」と。
そこからは話がどう展開したか終わったかは覚えてないんだけど、必死に気持ちがバレないように
振舞った記憶があるんだ。

児島君のブログ見て思ったんだけど、景山先生お見送りのこと言おうとしてはったんかも…。
一緒に学級委員とかもしたしね。
つまらん嘘をついてしまったのずっと気になってたし、お見送りしたことを知って更に切なくなったよ。
その風景に私はいてないもんね。
(略)
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エイコちゃんとマキちゃんが、景山先生と友達が僕たち家族を見送ってくれたことを知らなかったように、僕もこの放課後の出来事は知らなかった。エイコちゃんはずっと「やったぁ!」と言ったことを悔やみ、申し訳ないと思っていてくれたらしい。僕はそのセリフを耳にしていないのに。

その翌日、マキちゃんからも初めてメールが届いた。マキちゃんも、この放課後のことをずっと僕に対して謝りたいと思っていてくれたらしい。28年ぶりの連絡をくれて、そして「ずっと誤りたかった」のだと、まずそのことが書いてあった。それだけずっと心に引っかかっていたのかも知れない。僕はまったくそんなこと知らなかったのに。「やった~」と言ったことを後悔し、折りに触れて思い出していたのだそうだ。なんて優しい人なんだろう。そして、申し訳ない。僕はただ、もう友達と会えなくなることの本当の意味も知らずに、脳天気に去っていただけなのに。転校していく男子を女子が見送るなんてことは、当時まずあり得なかっただろうし。気にしなくてもいいのに。マキちゃんとエイコちゃんがそんな風に、僕に伝えられない「ごめん」を心に抱えていた28年間。その長い時間を、想いを、僕はまったく知らずに別の世界で生きてきたことを申し訳なく思った。同時に、そんな気持ちが嬉しくもあり、切なくもあった。

「小学校四年生なんて、男子と女子は表向きは仲良くしたりせず、お互いに憎まれ口を叩くものだから、どうか気にしないでください。そもそも、僕はその場にいなかったわけですから」みたいな返事を書いた(この後、マキちゃんともエイコちゃんとも何度もメールをやりとりすることになるのだけど、彼女たちがフランクに語りかけてくれるにも関わらず、いつまでも敬語が抜けない僕なのであった)。

マキちゃんのメールには、こんなことも書いてあった。

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件名:28年ぶりだけど初メール
送信日時:2009/04/17 (金) 8:01

(略)
英子ちゃんから聞いて児島君のブログを見たんだぁ。
文章を読んでいくうちに、小学校の校庭・・土手をあがるとすぐに線路があって・・そこに彼岸花が赤く咲いてて
いろんな風景を思い出したよ。
景山先生が国語辞典をプレゼントしてくれたってー、その通り 児島君は日本語、表現を大切にしている人になっているもんね。
ブログを見て、切なく懐かくとても暖かい気持ちでいっぱいになり、涙がじんわり滲みました。

私もこの生涯で尊敬している人は景山先生です。
会社の朝礼スピーチで「私が尊敬している人」というお題の時に景山先生の話をした事があります。
野外授業で捕ってきたイナゴを炒めて給食時配布し、戦時中はこんなのを食べていたんだと教えてくれたり
景山先生の自宅玄関にできた蜂の巣をとって、天然蜂蜜をこれが本当の蜂蜜なんだと教えてくれたり
生徒の良いところを引き出して、更にそれを発揮できるようにしてくれたり。
なんたって景山ジャンケンはとても盛り上がってたよね。
(略)
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胸に熱いものが込み上げてきた。

文面からは、景山先生のことを今でも尊敬しているし、慕っていることがヒシヒシと伝わってきた。本当に、素晴らしい先生だった。素晴らしい先生だったことは、当時のクラスメイトは誰でも感じていたし、今もそう思っているだろう。だけど、マキちゃんとエイコちゃんは、漠然とそう思うのではなく、自らの内側に先生を尊敬する気持ちがあることをはっきりと自覚している。大切なもののありがたみが、ちゃんとわかる人たちなのだ。ふたりのそんな律儀な気持ちに触れて、僕も先生への感謝の気持ちを改めて感じないわけにはいかなかった。そしてその気持ちを28年間、先生に伝えることができていない不義理な自分を恥ずかしく思った。マキちゃんが書いてくれたように、日本語、表現を大切にすべき仕事に、僕は今就いている。文章はさっぱり下手なままだが、それでも読書や作文が好きだった僕の特性を見抜き、将来を予見するかのように国語辞書をプレゼントしてくれた先生の先見の明には驚かざるを得ない。

先生からもらった辞書は、大切にとってある。僕は思いに耽った。

「そうだ、浜田に行こう」

これは天の思し召しに違いない。浜田に行きたい、行きます、行かざるをえない、行ってもいいかな? いいでしょう。行ってきんしゃい、行ってきます、お入りください、ありがとう。総合的に考えると、これはもう「行く」で決定だ! この夏、28年ぶりに故郷を訪れることに決めた。もうここまで来たら、行くしかない(さらに「そうだ、ついでに京都に行こう」と帰りに滋賀の実家に寄ることも計画してしまった)。

みんなと会うとなると、都会に出て働いている人たちが帰省するお盆が最適かもしれない。「お盆に浜田に行こうと思います」僕がメールでそう伝えると、ふたりはとても喜んでくれた。マキちゃんとエイコちゃんは、このゴールデンウィークに浜田に帰省するらしい。そして僕が来たときのために、いろいろと調査、準備をするつもりだと書いてくれた。まさかの急展開。俄然、浜田への再訪、そしてみんなとの再会が現実味を帯びてきた。

――そしてこのGW中に「28年ぶりに、先生にも会いに行くつもり」なのだと、そうメールには記されていたのだった。

(続く)

28年ぶりの島根県浜田市再訪記 ~君の唄が聴こえる~ その4

2009年08月22日 21時42分20秒 | 旅行記
それから数日、エイコちゃんと何度かメールをやりとりした。
みんなの近況を教えてもらう(28年ぶりの「近況」というのもヘンだけど)。
男子はけっこう浜田に残っている――清君、カペ君、梅津君、ナットミ、へっか、ゆうすけ君、水野君――名前を見ただけで懐かしい。もちろんみんな、元気にやっているとは思っていた。だけど、エイコちゃんのメールに記された旧友たちの名前見て、ただそれだけで嬉しく、胸が高鳴った。「みんな、生きてたんだ!」繰り返すけど、みんな元気でやっているとは思っていた。だけどやっぱり実際にナマの情報を教えてもらうと、その当たり前といえば当たり前の事実を妙に実感してしまう。「お前、生きてたんだ」と思われてるのは、僕の方だとは思うけど。

エイコちゃんは大阪、マキちゃんは広島、由美ちゃんは鹿児島、紀子ちゃんは京都に住んでいるらしい。みんなの仕事についても教えてくれた。コマッキーは美容師に、浜崎さんは看護婦になっているとのこと。驚きと同時に、そういえば当時から将来そういう職業につくような志向があったんだよなぁと、勝手な解釈をしては妙に感動してしまう。子どもだったみんなが、大人なって立派な職業人になっている。みんな、よう頑張ったなぁ。子どもだったのはお前も同じだろ、という声が聞こえてくるようだけど、僕のなかでは1981年の3月で時間が止まっているから、みんなが当時のままで、ずっと浜田にいるような錯覚をしてしまう部分もあるのだ。逆に、僕は僕でみんなの記憶のなかで十才のまま止まっているのかもしれないけど。

メールをやりとりするうちに、エイコちゃんの文体がだんだん口語体(言文一致)になり、そして浜田弁に近づいてきた。それがまた懐かしい。その後、小学校高学年、中学、高校と、いわゆる思春期を過ごした、その記憶が伝わってくる。僕は当然浜田ではない場所で同じような時代を過ごしたわけなのだけど、そのパラレルワールドのことをちょっとだけ想像できるような気がした。

エイコちゃんからメールが来てから二日後の4月15日、ブログにこんな文章を書いた。

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あの日から、もう28年

一昨日、小学校三、四年のときのクラスメートの方からメールをいただきました。僕は6才のときから10才(小学校の四年生)まで島根県の浜田市に住んでいたのですが、当時、同じクラスに在籍していた方です。僕の転校をきっかけに音信不通になっていたので、なんと28年ぶりです。このブログを見て、僕かもしれないと思って連絡をくださったのです。こんなに時間が経過したのに覚えていてくださったなんて、感動です。ものすごく懐かしく、そして嬉しい気持ちになりました。Tさん、本当にありがとうございます!

当時の友達とはずっと連絡をしていなかったわけですが、どうしてるのかなあ、とよく思い出していました。クラスメートの方のメールによると、いまでも地元にいる人も多いとのこと。30年近く経って再会するとなると緊張もしてしまうと思いますが、ぜひいつか遊びに行って、みんなと会ってみたいと思います。こんなに時が経つのに、仲の良かった友達のことははっきりと覚えています。みんな、本当にいいキャラクターを持っていました。

当時の恩師もまだご健在とのこと。僕が非常に尊敬していた先生です。僕たち家族が浜田市を去る日、駅まで見送りに来てくれ、国語辞書をプレゼントしてくれました。いつまでも忘れられない先生です。友達も駅まで見送りにきてくれました。さらに、汽車が駅を出て、母校の小学校の前を通り過ぎた時、何人かの友達が校庭にいて手を振ってくれていました。僕も汽車の窓から思いきり手を振りました。井上陽水の『少年時代』を聴くと、いつもあの日の光景が浮かんできます。あの日からもう28年も経ったなんて、信じられません。

浜田市はとても自然が豊かなところで、すぐ近くに海と山があり、子供が走り回って遊べるようなスペースもふんだんにありました。当時はまさに野山を駆けまわって毎日たっぷりと遊んでいたような気がします。野球もさんざんやりました。ウルトラ怪獣の消しゴムも集めました。虫もザリガニもたくさん捕まえました。あのころ、毎日くたくたになるまで遊んでいたことが、自分の原点になっているのだと思います。今の自分が、立派な大人になっているのかどうかはともかくとして、子供時代を浜田で過ごすことができた幸運に、あらためて感謝したいです。

きっかけはブログというデジタルな手段ですが、結果として果てしなく懐かしいアナログな記憶の世界が蘇りました。30年前の日々を思い出すと、土と草の匂いがします。過去は決して消え去ることはない。あらためて、多くの人たちとの出会いに恵まれて、生きてきたのだと痛感します。30年近く、僕がみんなのことをよく思い出していたように、僕のことを思い出してくれていた人たちもいた。それだけで、生きててよかったなあと思ってしまいました。あの頃の僕たちがそうだったように、これからも毎日を精一杯、元気に生きていきたいです。
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書きながら、自分にとって浜田で過ごした5年間はとても大きな意味を持っていることにあらためて気づいた。懐かしい友達、忘れがたき師。雄大な大自然。
そしてこうやって今でも僕のことを思い出してくれ、連絡してくれたエイコちゃんたち。清君やカペ君たちとも会いたい。

昔の友達から連絡をもらった。ものすごく嬉しい。ものすごく懐かしい。
でも、それだけで済ませてよい話ではないような気がした。
う~ん、やっぱりこれは、浜田に行くべきだろう。行かなきゃ男じゃない。ふだんはかなり腰の重たい僕だけど、今回ばかりはさすがにそんなことを感じ始めていた。

※写真は、景山先生が汽車の中に入って見送りをしてくれているところです。左は僕の親父。阪急の野球帽をかぶっているのが僕です。

(続く)

28年ぶりの島根県浜田市再訪記 ~君の唄が聴こえる~ その3

2009年08月21日 20時17分13秒 | 旅行記
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件名: びっくり!!
送信日時: 2009/04/13 (月) 22:50

わぁ。正解だったんだ!メールしといておかしいけど、すごいびっくりしました!!
すごい素晴らしい人になってますね!!

経緯はですね…去年秋に調べものがあって久しぶりにパソコン開いたんです。
んでせっかく開けたんで調子に乗って色々検索してみてて、何個か目で【児島修】と入力してみると
翻訳関係でいっぱいありました。
まさかと思ってると1970年生まれと出てたとこがあって「もしかっ!!」と。
翌日早速xxxxxちゃん(マキちゃん)にメールしましたよ。

児島くん、翻訳の仕事しとるかもしれん!!と。

(以下省略)
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エイコちゃんとマキちゃんは当時からとても仲がよかった。活発で、ふたりが行くところ常に賑やかで笑いが絶えなかった。クラスでも中心的な存在だった。そのふたりが僕のことを覚えていてくれていて、「どうしてるのかなぁ」と話題にしてくれていたことがあったのだそうだ。そんなこともあって、上にも書いてあるとおり、去年の秋にエイコちゃんがなにげに僕の名前でググってそれらしき人物を見つけ、どうやら「こっちゃん(当時の僕のあだ名)が翻訳をしとるかもしれん」という話になった。それが同じくクラスメイトでクラス一の才女だった由美ちゃんに伝わり、彼女がこのイワシブログを見つけてくれたということだった。それで、エイコちゃんがこのブログのプロフィールに書いてあるアドレス宛に連絡してきてくれたというわけだ。

昔の友達の名前でネット検索することは、僕にだってある。今はもう連絡先もわからない友達のことが、ひょっとしたら見つかるかもしれないと思って、ネットを彷徨う。特に、僕みたいな転勤族の家庭で育った人間の場合は、引っ越しによって過去が断絶されてしまうことがあるから、すごく昔のことが懐かしくなったり、気になることがある。だから妙にセンチメンタルになって、昔のいろんな友達の消息を求めてひたすらにググり続ける午前2時なんて時間を過ごすことも珍しくない。

たまたま僕は翻訳の仕事をしていたから、訳者プロフィールみたいな情報がネットに掲載されていた。だからエイコちゃんに見つけてもらえた。本当にラッキーだ。Googleもよく出来たもので、僕の名前で検索すると、基本的には匿名で書いているはずのこのブログが検索結果の上位にランクされる。だから僕の名前で検索した人が、このブログを見つけることはそう難しいことではない。だから、エイコちゃんから最初にメールが来たとき、おそらくそういう経路をたどってきたのではないかとは想像できた。いずれにしても、Googleに感謝だし、いつもくだらないことを下手な文章で書き散らし、生き恥をさらし続けることがテーマとなっているようなこのイワシブログにもこのときばかりは感謝した。インターネットがここまで普及する時代じゃなかったら、今回の再会もなかったわけだから(エイコちゃんの「すごい素晴らしい人になってますね!!」というのは明らかな誤解だけど)。

それにしても、28年も経って僕の名前で検索してくれたことが何よりも嬉しい。浜田の友達の心のなかに、僕が生き続けていたことが嬉しい。僕だってみんなこととはいつも思い出していた。28年もの間、その思いだけが相手に届くことなく空中を行き来していたのだ。よくこんな僕のことを覚えていてくれたものだ。イットマン(伊藤君)の誕生会なのに、主役気取りで中央を陣取り、シャツは丸出し社会の窓は全開だったような僕のことを(写真参照。他2名はコマッキーと元佐君)。

ちなみに、由美ちゃんが見つけてくれたこのブログは、最初「イワシの日記」という名前で他に伝わったらしい。たまたまその名前で、関西に住む鉄道マニアの方が書いているブログがあった。なので、「児島君は関西にいて、鉄道マニアになっとるらしい」という憶測も乱れ飛んだようだ。でも当時の僕を知る人は、僕が将来どこに住んでどんな仕事をしているかなんてまったく想像もできないだろうから、鉄道マニアであれ、翻訳者であれ、プロレスラーであれ、どんな仕事をしていると知っても、同じくらい意外な印象を受けたはずだ。

景山先生のことも書いてあった。先生はまだご健在だそうだ。エイコちゃんはずっと年賀状をやりとりしていたらしい。素晴らしいことだ。先生が当時いったい何才だったのかはわからない。でも今では相当ご高齢になっているはずだ。

僕も引っ越してからしばらくは友達や先生と年賀状を交換していた。清君からはクワガタの角を送ってもらったりした。だけど数年したら、書くこともなくなって、いつのまにか関係が途絶えてしまった。引っ越してから一年くらい経って、仲の良かった梅津君と電話で話したこともある。でも、なんだか照れくさくて昔みたいに上手にしゃべれなかった。子どもだったからいつのまにか音信不通になることはしょうがないのかもしれないけど、なんだかみんなに申し訳ないことをしてしまっているみたいな気持ちがずっと心に引っかかっていた。

小学校時代の恩師に28年間、連絡を絶やさなかった彼女。老いていく先生。それを知り、封印していたはずの記憶の箱のフタが開いて、当時の仲間たちのことが急にリアリティを持って迫ってきた。

僕があれから28年間、いろんなことを経験してきたのと同じ時間を、みんなも生きてきたんだ――そんな当たり前のことが、ジンジンと心に響いた。

(続く)

28年ぶりの島根県浜田市再訪記 ~君の唄が聴こえる~ その2

2009年08月20日 19時02分45秒 | 旅行記
十才は、子どもが一番、子どもらしくいられるときかもしれない。まだ大人じゃない。まだ「大人の始まり」でもない。子どもが全面的に子どもでいられるとき。子どもが子どもとしての完成形を迎えるとき。山本山の海苔が、上から読んでも下から読んでも「山本山」であるのと同じように、身体も心も頭のなかも、どこから見ても子どもなとき。

十才の僕たちは、大人の世界の入り口のすぐ近くにいながら、自分たちがこれから大人になろうとしていることを実感できないまま、あるいはそんなことなどまるで考えてもいないかのように、子どもだけの世界をひたすらに駆け回っていた。十才は、子どもであることの天才(十才だけに、テンサイ)なのだ。

小学生も高学年になると、やがてみんな大人の世界に入り始める。子どもという幼虫の時代を終えて、大人になるための長い「さなぎ」の時代に入っていく。子どもであることを止め、大人になろうとする。自我に目覚め、性に目覚め、社会に目覚め、その他もろもろに目覚める。音楽を聴く、煙草を吸う、化粧をする、夜更かししてラジオを聴く。目覚まし時計が鳴っても起きられなくなる。何もかもが面倒くさくなる。そうして大人になっていく。それはワクワクするけど、辛いことでもある。だが、十才の子どもには、大人になることへの不安を感じるヒマはない。子ども稼業が忙しすぎるのだ。

純粋に子どもでいることができた時代の終わり、子どもであることを名残惜しみ、残りすくない「子ども時間」を燃やし尽くすかのように、僕たちは毎日を生きていた。学校が終わると、ランドセルを家に置いてすぐに外に飛び出し、日が暮れるまで遊んだ。授業中も同じだった。とにかくよくしゃべり、動き、本能のままに行動し、笑った。勉強と遊びの区別はあまりなかった。

そして、誰にとっても特別な十才という年齢をさらに特別なものにしてくれたのが、4年2組の仲間であり、景山先生だった――。振り返ると、それがいかに幸福な出会いだったのかがよくわかる。今でもこれだけ大きな思い出として残っているのは、単に僕が十才だったからだけではない。十才という特別な時間を、さらに特別なものとして生きることができたからだ。

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返事を出してから44分後、エイコちゃんからまたメールが来た。なぜ僕にメールを出したのかという経緯が、23行にもわたって記されていた。28年分の時間が圧縮された、zipファイルみたいなメールだった。

※前から二列目左から二人目が僕です(なぜかしかめっ面)。

(続く)

28年ぶりの島根県浜田市再訪記 ~君の唄が聴こえる~ その1

2009年08月19日 18時53分14秒 | 旅行記
特別な出来事は、ありきたりの顔をしてやってくる。

始まりは、一通の電子メールだった。


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件名:こんにちは
送信日時:2009/04/13 (月) 20:52

人違いだったらごめんなさい。
長浜小だった児島修くんですか??
3,4年一緒だったxxxです。
もしそうならメールした経緯を改めて書きますね。
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思わず息を呑んだ。
たった4行の文が、真っ白い画面に浮かんでいる。その白がどんどんと広がり、目の前すべてが真っ白になっていく。時間が止まった。

28年ぶりの、クラスメイトからの連絡。このありふれた日常とは別の、どこか違う世界から送られてきたメールみたいだ。瞬きもせずに、コンピューターの白いスクリーンを見つめた。あの頃の記憶が、少しずつよみがえってくる。

人違いじゃないことはすぐにわかった。僕は長浜小だった児島修くんだし(よく鼻血を出していた)、3,4年一緒だったxxxさん(エイコちゃん)のこともよく覚えている。間違いない。突然の、たった一通のメールで、約30年という気の遠くなるほど長い時間の壁が、一気に乗り越えられようとしている。

島根県浜田市立長浜小学校。3、4年生のとき、僕たちは2組のクラスメイトだった。担任は、忘れもしない景山博先生。あの最高に楽しかった2年間のことは、今でも心に深く刻まれている。僕は4年生の終わり、昭和56年の春に父親の仕事の都合で石川県の金沢市に転校することになり、5年間過ごした浜田を去った。それ以来、当時の友達とは会っていない。

すぐに返事ができなかった。頭の中はエイコちゃんからのメールのことで一杯だったけど、そのまま仕事を続けた。1時間くらいたって、返信した。何をどう書いていいのかわからなくて、たった5行で返すのが精一杯だった。小学校4年生が書いたみたいな、なんとも間抜けな内容だ。


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件名:RE:こんにちは
送信日時:2009/04/13 (月) 22:06

xxxさん

こんばんは。
ご連絡ありがとうございます。

はい、浜田市の長浜小学校でご一緒させていただいていた児島です(^^)
景山先生が担任でしたよね。

懐かしいです!
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だけど、どうやらこの時点ですべては定められていたのかもしれない。そしてすでに僕は、決意していたのかもしれない。この夏、28年ぶりに浜田を訪れようとしていることを。すべてが懐かしい、あの友たちとの再会を果たそうとしていることを。

(続く)

帰りました!

2009年08月18日 17時30分52秒 | Weblog


先ほど、合計6日間の島根県浜田市~滋賀の実家の旅を終えて帰宅しました。浜田の皆さん、本当に御世話になりました。最高の思い出をありがとう! 感動でまだ胸がいっぱいです。浜田を出てからずっと鼻血が止まりません。余韻醒めやらずといったところですが、今日からまたここでいつものように毎日を過ごしていきます。今回の素晴らしい旅のことは、これから少しずつ書いていきたいと思います。ではでは~

行ってきます!

2009年08月13日 01時03分33秒 | Weblog
明日から数日間、島根県浜田市に行ってきます。
6~10歳のときまで5年間暮らした思い出の町です。
28年ぶりに再会する友達が待ってくれています。
明日はとても仲のよかった友達夫妻の家に泊めていただくことになりました。
とても楽しみです。
そして土曜日のお昼に、当時のままの小学校に仲間が集合。
ドキドキします。

というわけで多分ブログはこれから数日更新できません。
帰ってきたら、旅のレポートを書いてみたいと思います。乞うご期待!

28年前の世界にタイムスリップしてきます!