イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

私のハートは若干ハイバネーション

2008年10月31日 23時49分13秒 | Weblog
断食は無事終了。断食といっても、初日は朝ごはんを食べたし、三日目の今日も復食として軽めの食事を摂った。だからまったく固形物を食べなかったのは二日目の昨日だけだ(そういうメニューなのです)。

でも、やはり昨日は辛かった。酵素のおかげか空腹感はあまりなかったが、断食をすると消化にエネルギーが取られることがなくなり、またある種の危機状態に陥った体が目覚め、体から老廃物を排出しようとし、同時に日ごろ押し隠されているからだのさまざまな不調が前面に出てくる。熱っぽく、節々が痛く、ものすごい睡魔に襲われた。ここのところの無理や心労?がたたって、心身は相当疲れていたみたいだ。でも、そんなときに断食をしようと思ったあたり、僕の野生本能はまだかろうじて正常に機能しているらしい。犬でも猫でも、調子が悪いときは何も食べずにじっとして、ひたすらに体の快復を待つ。答えは自分の体がすべて知っているということなのだ。

やはり体は軽くなった。余分な荷物を一つ減らしたような気になる。この3日間で、普段の約1日分の量しか体に入れていないのに、普通に生きている。今はもうすっかり元気になって、さっきはジョギングもした。ということは、普段はやはり必要以上のものを摂取して、消化のために逆に体に負担をかけているのかもしれない。

今日は玄米を炊き、あまりものの野菜(大根、玉葱、さつまいも)でお味噌汁を作って食べた。これがやたらと美味しかった。特にお味噌汁を口に含んだとたん、塩気が舌全体に拡がり、そのまま全身に染み入っていくようだった。断食すると味覚が敏感になるというけれど、逆に言えば普段の食生活で味覚を麻痺させてしまっていることがわかる。

普段やたらとコーヒーを飲んでいるのだけど、断食中は三日目に紅茶を少し飲んだだけ。カフェイン禁断症状の頭痛もした。もちろんアルコールは飲んでない。カフェインもアルコールも、もともとはなくてもよいもののはずだから、それを一定時間摂らないことが我慢できないということは、やっぱりどこかおかしいに違いない。体に何も入れない状態でしばらく過ごすことによって、真の心身の状態と向き合える。ずいぶんと苦労はさせているけど、自分はやっぱり植物のように、ゆっくりとじっくりと、まっすぐに生きようとする生命力に支えられているのだ。

と、ちょっと断食したくらいでさっそく偉そうに能書きをたれているわけだが、ともかく、思っていた以上によい効果があったような気がする。断食は定期的にやることで効果が高まるというので、月一程度で今後もやってみたいと思った。なんとなく、冬眠に似ている。何も食べずに、じっとして春を待つ。コンディショニングはこれからの自分にとって、とても大切だ。

400mハードルの為末大さんの著書『日本人の足を速くする』を昨日一気読みしたのだけど、彼はコーチをつけずに自分ですべて練習メニューを組み立てているのだそうだ。やらされている練習ではなく、主体的にやる練習の方が効果があるという考えを持っているからということらしいが、フリー翻訳者も同じだと思った。コーチはいない。自分で自分をコントロールしていかなくてはならない。ただし為末さんはそれがとても好きらしく、自分でメニューを考えたり、長期的な計画を立てたりするのが楽しくてたまらないのだという。それを人に渡すのがもったいなくてしょうがないのだと。確かに誰かが決めたとおりに練習や試合をすることよりも、苦労は多いだろうけど、自分ですべて考え行動することは楽しいだろう。自分も見習わなくてはと思った。



取り入れた洗濯物のなきあとのベランダに吹く風今宵冷たき

I am losing it

2008年10月30日 23時19分55秒 | Weblog
下手な翻訳とかけて「強欲さ」とときます。

そのこころは、


  どちらも目の前のものを自分に都合よく解釈します


なんだか精神論めいてきますが、奪うようにではなく与えるように、何か得ようとするのではなく捧げるような気持ちで訳をしないといけない、などと唐突に思ったりします。それはきっと、日々の暮らしのなかでも同じなのです。自分ばっかり可愛がって、自分勝手に生きていたら、いい加減に生きていたら、それはやっぱりselfishな訳文になって表れるのだと思います。いわば訳文は自分の化身なのですから。

断食二日目で頭がボーっとしています。
毒素の秋じゃなくて読書の秋。思い立って久しぶりに地元のBOに行ってきました。


『集中力』谷川浩司
『世界の日本人ジョーク集』早坂隆
『天才になる』荒木経惟
『日本人の足を速くする』為末大
『板前修業』下田徹
『インストール』綿矢リサ
『でっかい旅なのだ』椎名誠編集長
『真実のゴルフ』坂田信弘
『シリコンバレー精神』梅田望夫

など気がつけば計31冊も購入。



体重と一緒に僕は大切な何かも失いつつあり酵素断食


彼はまだ戦い続けている

2008年10月29日 23時29分47秒 | Weblog
ボクシング、辰吉丈一郎選手の5年ぶりの復帰戦が話題になった。周囲に引退を勧告されながらも、タイ・バンコクのラジャダムナン・スタジアムで再起をかけた戦い。彼のことは、この20年来というもの何かと気になる存在だ。生年月日が一日違いだし(彼が1970年5月15日、僕が16日)、僕もほんの一時期だけボクシングをやっていたことがあるからだ。

ドクターや協会の指示に従わず、自らの身体を危険にさらしてまでリングに上がろうとすることには賛否両論あると思う。僕自身、彼に対しては、素直に応援する気持ちと、家族のためにももうこれ以上無理はしないで欲しいという、複雑な思いが同居している。

彼を見ていていつも感じるのは、競技に対する「思い」の強さだ。ボクシングが好きで好きで、他の道には目もくれず、朝から晩までボクシングのことを考え続け、今も猛練習をこなす。辰吉選手が脚光を浴び始めたのは僕がへなちょこボクサーだった今から20年近く前のことだ。当時からずっと、彼は同じことを繰り返している。

彼は、ひとつのことを20年以上もやり続けた。それは本当にすごいと思う。僕は今でこそ翻訳Loveとか偉そうなことをのたまっているが、ボクシング道からはとっくの昔に挫折し逃げ出した男だ。それからさらに紆余曲折を経て、翻訳の道を目指そうと思ったのが10年ちょっと前。しかも半分で駆け抜けてこれたはずの道のりを、ずいぶんと道草をしながら辿ってきた。彼とは比べるまでもない。

残念ながら、競技者としての彼の寿命には限りがあるし、そう遠くない将来に彼はリングを降りることになるだろう。選手としてではなく、トレーナーやその他の立場でボクシングと関わっていくことはできる。ただ、同じ元ボクサー(彼は月で、僕はスッポンだったわけだが)、今トランスレーター(ここでも僕はスッポンなわけだが)の同い年の男として、彼に申し訳なく思ってしまうのは、僕はこうしてまだ翻訳という現役選手をこれから何年も続けることが可能な立場にいて、そして20年間その道一筋にやってきた彼は、もはや紛れもない選手としての晩年にいて、いずれは引退する日を迎えなくてはならないということだ。職業の違いといってしまえばそれまでなのだけれど。まあ、ボクシングに限らずスポーツ選手はそこが辛いところだ。もちろん、彼にはリングを降りても素晴らしい人生が待っているだろう。そして僕には茨の道が待っているだろう。それでもやっぱり、彼を差し置いて未だに現役でいられ続ける立場にある自分が、なんだか申し訳ない気がしてしまうのだ。

学生のときの一人旅で訪れたバンコクで、今回彼が戦ったラジャダムナン・スタジアムに行ったことがある。ムエタイというタイ式キックボクシングの試合を観るためだ。格闘技ファンの僕には当然、タイに行くことイコール、ムエタイの試合を生観戦することだった。薄暗い試合会場で、若い男たちが激しく殴りあい、蹴りあいを続けていた。とてつもなく厳しい世界だと思った。


あれから20年。同い年の辰吉は、まだあのリングで戦っている。なんてすごいことだろう。


ともかく、僕は自分のこの恵まれた立場に感謝し、頑張っていくしかない。向こうはこっちのことなど微塵も知るはずはないが、願わくば彼の分まで頑張れたらいいと思う。翻訳というリングのなかで、僕は相当に殴られまくっている気がするが、まだKOされるわけにはいかない。そもそも、まだ第一ラウンドが始まったばかりなのだから。


当時の減量を思い出したわけじゃないけど、3日間断食をはじめた。そうとう体が疲れていたので――つまり、早くもボディブローが効いてきたので――、内臓を休息させなければと思ったのだ。詳しい友人にいろいろ教えてもらい、酵素を飲みながらのファスティングを開始した。というわけで、今、38年分の毒を解毒中。訳文からも一緒にいろんな毒が抜けてくれることを祈りつつ(こっちの解毒もかなり難しそうです...)。




君残し一冊湯船で読みふける三百ページの置手紙のよう


How と What

2008年10月28日 23時15分54秒 | 翻訳について
オンサイトでチェックの仕事をして、その後翻訳学校。久しぶりの外出でかなりリフレッシュできた。静止したこの部屋を出ると、世界がたしかに回っていると感じる。電車にも上手く乗れた。とっても嬉しいこともあった。やっぱり家に閉じこもってばかりでは駄目なのだ。

翻訳学校の課題では、顔から火が吹き出そうな誤訳を連発。もう穴があったら入りたい。というか、実際、ホールインワン級の誤訳だった。情けない。

常々思っているのだけど、翻訳にはHowとWhatの部分があって、自分はWhatの部分、つまり原文の正しい意味を伝えるという点がとても弱い。どうしても文章そのものの方に意識が向いてしまう。文体とかリズムとか、そっちに気をとられてしまって、事実を徹底的に突き止めようとする部分をおざなりにしてしまう。このふたつは表裏一体、どちらが欠けても翻訳は不完全なものになる。原文の意味としっかりと捉えていても、表現がいまひとつでは読み物として面白くないし、いくら文章がそれなりであっても、事実を正しく伝えていなければ意味がない。このままではいけない。原文を深く読み込む力を徹底的に鍛えなくては駄目だ。月一の勉強会ではいつも「量」をこなすことが自分の課題だと感じるのだが、Tゼミでは「質」の重要さをいつも痛感させられる。とはいえ、その質も、量をこなすことで初めて見えてくる部分もあると思うし、質を意識しない量にも真の価値は無い。HowとWhatは、どちらも大切なのだ。


ありがとう。


また明日から頑張ろう。ともかくそれしか頭に浮かばない。頑張ろう。



新しい一年がまた僕を待ってる「2009年 柴犬カレンダー」

あなたも出版翻訳家になれて、産業翻訳の仕事も獲得できる

2008年10月27日 23時49分57秒 | Weblog
6日間の山篭りが終了。少々根を詰めすぎてしまった。疲れてるし、体がだるい。眼がショボショボする。明日は久しぶりに外出するのでちょっと緊張。電車に上手く乗れるだろうか。


『あなたも出版翻訳家になれる』イカロス出版 
『産業翻訳の仕事を獲得する本2008-2009』イカロス出版
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It doesn't translate well

2008年10月26日 23時26分57秒 | 翻訳について
もうこれはあたりまえだのクラッシャー・リソワスキーなことなのであるのだけれど、翻訳をしていると、すらっと訳せるところと、訳せないところがある(訳者の翻訳能力が低いということは棚に上げといて)。「上手く訳せないところ」だと訳者に感じさせてしまう原因は、もうそれはさまざまなものがあるのだと思うけど、たとえばそれは英語独特の言い回しだったり、あるいは「この語には普通ならこの日本語を当てるべきなんだろうけど、そうすると上手くニュアンスを表せない」といった風に感じてしまうところなんかが挙げられる。辞書に載っているいくつかの定義をみても、原文の語が用いられている文脈から鑑みるに、どうにも訳文には収まらない。ポーカーで配られたカードの手がよくなくて、いくら考えても「この作戦でいこう」というひらめきを感じさせてくれないような感覚。つまり、「これは上手く日本語にならへんな~」と思ってしまう。ジョーカー引いちゃった、みたいな気分。

英語のネイティブスピーカーは、日本語を英語で表したいのに適切な表現が見当たらない場合に、よく「It doesn't translate well」と言う。たとえばそれは、「一本締め」だったりする。とあるラジオを聴いていたら、ネイティブはそれを"one clap ending"と訳しながらも「やっぱりこれはit doesn't translate wellなんですよね~」とぼやいていた。さもありなん。それは英語圏の文化にはないものだろうから、上手く訳せなくても当然。というか、それは「訳す」というよりも、「ある文化に固有の概念を伝える」という作業に近い。だから、「これは上手く翻訳できない」と感じるのは理にかなっている。

It doesn't translate wellという表現には、異なる文化の間には当然「カルチャーギャップ」なるものが現前と横たわっていて、その溝は決して埋めることなどできない、つまり「訳せないもんは訳せんのだ」、という西欧ロゴス的な客観性を感じる。そこには文化や言語を俯瞰的、相対的に見つめる視点があって、さすがに異文化の扱いになれた欧米、その割り切り方に歴史の重みを感じてしまうのである。ある文化に存在する概念が、別の文化にすべて存在するわけなどありはしない、という大人な潔い見切り方がなんとも心地よいのである。

ところで、It doesn't translate wellというポリシーの下にtranslateされた訳が、やっぱりおざなりな訳になっているかといえば、実はそうではない。初めから、翻訳は無理だと思っているからこそ、自国の文化の概念に合わせた大胆な訳が可能になるのだ。それは決して、異文化なるものにおびえ、腰が引けたままの「こんなんでましたけど」みたいな訳語ではない。だから、たとえば豆腐はズバリbean curdになる。もちろん今ではTofuも立派な英語として定着しているわけなのだけど、そういう具合に豆腐の持つオリジナリティをそのままcommunicate(この動詞もit doesn't...のひとつ)しようと向こうの人が思ってくれるのは本当に稀なケースであって、豆腐は客観的に見れば、やっぱりbean curdでしかありえないかもしれないのだ。先の例で言えば、「一本締め」はやっぱりone clap endingと表現するしかないかもしれないのだし、むしろそのone clap endingによって表される意味内容というものの方が、グローバルな視点では、一本締めの本質を――つまり、日本文化という「ユニークな」オブラートに包まれているがために日本人にとってもそれがなんだかよくわからなくなっているものを――、的確に表しているかもしれないのだ。

たしかに、一本締めには日本に生まれ育って、子供心に「なんだかよくわからないけど大人ってある局面においてはどうやら一本締めなるものをしてるのだな」、と思っていて、やがて大人になったら自然にそれに倣い、気がつけば飲み会の最後に自ら音頭を取って「じゃあ、一本締めいきましょう!」みたいなことを口走っている終電間際の池袋みたいなケースは珍しくないのかもしれないけど、一本締めのある意味宗教的な行為の深遠さには敬意を払いつつ、やっぱりそれは異文化からみれば、たんなるいわゆるひとつの拍手にすぎないということを、図らずもこの直接的なone clap endingという訳は表していたりするのである。

で、話を元に戻すと、それでもやっぱりそのようなit doesn't translate wellのような局面に直面してこそ、翻訳者の手腕が、存在意義が問われるのであって、上手い人はそこを何とも上手く訳すと思うのだ。野球で言えば、ギリギリ内野安打になるかどうかという打球が飛んできたときにこそ、その遊撃手の力量が初めて問われる。そこで「ああ、この人は上手い」と思われるか、上手く球を捌けなくて馬脚を現すかは、その人次第なのだけど、ともかくそこに翻訳のエッセンスが詰まっているような気がしてしょうがない。

といいつつ、やっぱり僕は来たタマを上手く処理できなくて、エラー、暴投、ファンブルを繰り返し、申し訳ないという顔をして、困り顔のピッチャーが待つマウンドに気まずく重い足どりで近づいているというのが紛れもない現実なのであるのだけど、このit doesn't translate wellという打球が飛んできたときにこそ、気合を入れてボールを取りにいかなくてはいけない、と感じている今日この頃なのでした。



会えないということはつまり君のいく今をまったく知りえないこと

二十過ぎてもジーニアス

2008年10月25日 23時51分16秒 | 翻訳について
君は、辞書をまるまる一冊読んだことがあるだろうか? 僕は、ある(自慢)。ジーニアスの英和は二回も読んだし(和英は途中で挫折した)、ホライズンも一回読んだ(ニューベリーハウスの英英は残りわずかなところで挫折した。新明解の国語辞典もかなり序盤で挫折した。でもまた読んでみたい)。

なぜそんなことをしたのかというと、ほかでもない、若き日の僕はあまりにも英語力がなくてさらに言えばアホだったので、単語力を身につけるためには、とにかく辞書を読まなくてはならないと思いこんでいたのだ。単語集とかその手のものもいくつかやったけど、究極的には辞書が最強の単語集にちがいないと確信し、行き帰りの電車のなかでひたすらに辞書を読み続けたのだった。1冊読みきるまでに、2ヶ月ほどかかった。そのころから、何事につけ無謀なことをやろうとする性格は変わっていないのだ。今、そのほとんどが記憶に残っていないことを考えると、思えばずいぶんと無駄なことをしたもんだという気もするが、それでも何にもやらなかったよりはたぶんきっとマシだろう。今でも、さっぱり意味がわからない単語を目にすると、一度はきっと目にしたことがあるはずだというささやかな自信を感じる自分がいる(同時に、それを微塵も覚えていない記憶力の悪さに自己嫌悪も感じる)。ともかく、ときにそんな過去の日々に思いを馳せながら、今日も僕は辞書を引き続けているのである。

今日、翻訳仲間が電子辞書を買うというので、何かいいのがないかと訊かれたのだけど、実は、僕は電子辞書を持っていない。なので、何の効果的なアドバイスもできなかった。紙の辞書なら50冊以上持っている(自慢)が、電子辞書は買ったことがないのだ。だが、その紙の辞書も、今はあまり使うことはない。僕の辞書遍歴は、紙の辞書→電子辞書(CD-ROM、PC用)→ネット辞書(+Google)へと進化し、数年間前からそこで止まっている。便利だと思うのはネット辞書だけど、やっぱり紙の辞書への偏愛がある。だからというか、なんとなく電子辞書には触手が伸びないのだ。そもそも、PCで作業をしている以上、電子辞書は特に必要ないように思うし、外に辞書を携帯しなければならないときでも、紙の辞書を荷物と感じることはない。常日頃、何十冊という本を持ち歩くことも多いからだ(特に、ブックオフに寄った日の帰路)。でも、翻訳学校とかで、クラスメートが電子辞書をちゃっちゃっと引いてスマートに語を調べているのをみると、うらやましく感じるときもある。おそらく、相当に便利なんだろう。だけど、特に今はまだ欲しいとは思わない。

紙の辞書は、使いこんでいくうちにボロボロになっていくあの感触がたまらない。英語を勉強し始めた頃は、ボロボロになっていくのが嬉しくて、わざと荒々しく扱ったり、思い切りマーカーで線を引いたりしていた。わざとコーヒーちょっとこぼしてみたりもした。夏の暑い日は、辞書で汗拭いてみたりした。乾いたら、パリパリになった。僕の愛するジーニアス英和の初代の一冊は、たぶん大学受験のときに買った。それはそんな僕の若気のいたり的な使われ方にもよく耐えてくれたのだが、いつの日かさすがに寿命をまっとうして、天国に旅立っていった。版が変わったから買ったということもあるのだけど、今使っているもので、もう四冊目だ。さすがに四代目は、なかなかボロボロにはなってくれない。だけど、なんだかそんな四代目に対して、なんとなく申しわけないような気もしてしまうのである。「なんでもっとかまってくれないの」、と言われているような気がするのだ。

今はまだ時間がなくて実現できていないのだけど、これからは毎日少しでもいいから、ボキャビルの時間を作りたいと思っている。読むのは、単語集とかの類ではなくて、やっぱり辞書だ。英和辞典、国語辞典、英英辞典、漢和辞典、その他各種を読み、少しでもこの貧困な語彙を増やしていきたい。そもそも、僕は辞書が好きなのだ。文字がぎっしり詰まっている、あのお得感があるところが好きなのだ。あの独特の紙質が好きなのだ、あの何ともいえない匂いが好きなのだ。匂いをクンクン嗅ぐと、恍惚とした気持ちになるのだ。

「本はマルチメディアである」、といったのは荒俣宏さんなのだけど、実際、本というのは、電気も要らないし、好きなところをすぐに開けるし、開いたページにある、調べようとしているところとは直接関係ない情報が目にたくさん飛びこんできてくれるし、自由に書き込みはできるし、メディアとしてとても優れていると思う。たとえて言えば、Amazonとリアル書店の違い。買いたい本がはっきりとしていればAmazonが便利だけど、リアル書店でブラブラと特に目的もなく歩き回る楽しみは捨てがたい。とはいえ、Amazonでも関連書籍の情報や、読者の評価なんかが掲載されているところなんか本当に便利だし、仕事中にもちょっと息抜きしていろいろ探索できるし、実際、かなり利用しているのだけど、リアル書店の楽しさというのは、おそらく僕のなかではずっとなくならないだろうな~と思うのである。そして同じように、紙の辞書のアナログさも、これからもずっと大切にしていきたいと思うのだ。



電話鳴り一本の線の向こう側君見る世界に「未来」という文字

コーナー・レッター博士の「こなれた訳」研究 1

2008年10月24日 22時26分58秒 | Dr. コーナー・レッターのこなれた訳研究
「おい、君かな? ヤマメ君というのは」
「いえ、イワシです」
「おや、失礼。ではイワシ君」
「失礼ですが、どちら様ですか?」
「ワシじゃ。ワシじゃよ」
「?」
「Come on, it's me! I'm Dr. Corner Retter!」
「(フッ、下手な英語)。ん? まさか、あなたは...」
「そうじゃ、ワシじゃ。コーナー・レッター博士じゃよ」
「びっくりです! あの『こなれた訳研究』で世界的に有名な伝説の言語学者、コーナー・レッター博士! なぜここに」
「なぜって、お前が書いとるんだろうが」
「いきなり虚構の世界に現実を持ち込むのはやめてください。突然どうしたのですか?」
「ほかでもない。最近、お前の訳があんまりにもこなれとらんから、心配になってアメリカから急遽来日したのじゃよ」
「ありがとうございます。いや、でも失礼な。あなたに何がわかるというのですか」
「わかるともさ。ワシを誰だと思っとる。こなれた訳の研究一筋30年、上手い、早い、安いの三拍子揃った訳をみなさまに届け続けて50年のワシには、訳がこなれとるかどうかは一目見ればわかる。最近のお前の訳は、危ういの~。フォッフォッフォ」
「危うい? どういう意味ですか」
「ひとことで言えば、大胆さにかける。つまり、歯にモノが詰まったような訳じゃ」
「どうでもいいけど、その旧態依然としたじいさん口調はやめてください」
「もうちょっと年齢設定を若くしたほうがよかったかもしれんな。っていうか繰り返すが書いとるのはお前だろうが」
「まあ、おいおい考えます」
「で、話を戻すとだな、近頃のお前の訳はどうにも釈然としない」
「そんなの、言われなくてもわかってます」
「ひとことで言うと、『こなれ感』が足りんのじゃ」
「......」
「その『こなれ感』というのは、やはり訳文を練りに練り、熟成してこそ生まれてくるものなのじゃ」
「はい」
「で、具体的にはそれをどうやって実現するかというのは、未だに言語学の世界でも明らかにはなっておらん」
「やはりそうでしたか...。いや、ちょっと待ってください。あなたはそれをずっと研究してきたのでしょう?」
「アホ! そんなに簡単にこなれた訳文なんかが作れたら、誰も苦労せんわ!」
「そんなに簡単に匙を投げないでください。せっかく新企画が始まったばかりなのに(といいつつ、一回で打ち切りになりそうな激しい予感)」
「ごめん、そうじゃった。まあ、最近思うのだけど、やっぱりまずは原文の読み込みが大切じゃな。っていうか、お前はそれがいいたかったがために、ワシを登場させたのだろう?」
「ええ。さすが博士。すべてお見通しでしたか。ここ数日、やはり原文をしっかりきっちり何度も読み込み、喉から訳が出かかっている状態になって、初めてキーボードに触れる。そうしなければならない、と思っているのです」
「なるほど。なかなかいい心がけじゃ。何度も何度も原文を読むことで、訳を頭のなかで育てていくのじゃ。『練る子は育つ』というからの」
「一回目は意味をとり、二回目は読みながら頭のなかで訳文を作ってみる。三回目はさらにその訳文を練る。調子のいいときは、特に三回目以降に、ひらめきを感じることもあります。そうすると、いざ入力をする段階になったときに、すっと訳が出てくるのです」
「まあ、あたりまえじゃ。そう。そうして、ワンパラグラフを頭のなかに叩き込んで、訳文が頭からこぼれそうになったところで、ぐわっと打ち込むのじゃ。それが上手くできたとき、その訳文は最初から日本語の流れを、息吹を携えて生まれてくる。読みながら意味をとって訳していると、どうしてもそのうねりは出てこないのじゃ。ワンパラグラフを頭のなかに叩き込んでぐわっと訳す。これを言語学の専門用語では、『ワンパラグラフを頭のなかに叩き込んでぐわっと訳す方法』と呼んでおる」
「長いですね」
「ふむ。で、最初にいった『危ぶむ』問題だが、こうやって訳文を練ることによって、大胆な言葉を使うことも可能になるのじゃ。度を越えた意訳はいかん。しかし、自分のボキャブラリーの枠から一歩もはみ出さんようでは、いつまでたっても井の中のフィリーズの井口みたいな訳しか作れないのじゃ。大胆に、豊穣な言葉を求めていくがいい。行けばわかるさ」
「はい」

「この道を行けば どうなるものか危ぶむなかれ 
危ぶめば道はなし 踏み出せばその一足が道となり 
その一足が道となる 迷わずにゆけよ ゆけばわかるさ
ありがとう~!」

「A・猪木の二番煎じじゃないですか」
「そうだ。いいものをやろう」

博士が、イワシに一冊の本を手渡す。

「これは...?」
「『翻訳の教科書』じゃ」
「翻訳の教科書?」
「そこに、翻訳についてのすべてが記されておる。この本を持っているのは、日本でも184人しかおらん。みな、翻訳の達人じゃ。お前には、例外的に渡してやることにする。苦しくなったら紐解いてみるとよい」
「ありがとうございます」
「さっそく、翻訳の教科書184ページを開き、声に出して読んでみるがいい」
「『原文を読みながら訳すのではなく、原文を何度も読み、頭のなかで訳文を作り上げ、その作り上げた文章を捕まえるように訳せ』
「ちょっと冗長な表現じゃな。ともかく、それを心がけて明日からも頑張るがよい。ワシはせっかくだからしばらく観光でも楽しんでおる。しばらくは日本におるからな」
「博士、ありがとうございました」



孤独の海冷たき夜の砂浜で拾う投壜書簡君のeメール

山篭り、独房、コンビニのヒクソン・グレイシー

2008年10月23日 23時56分09秒 | Weblog
フリーランスになったら曜日の感覚がなくなるというけれど、実際、すでにほとんどなくなっています。それどころか、さっきまで今月は11月だと思って、何人かにそれを前提としたメールを書いていました。早くも狂気が僕の背後にヒタヒタと忍び寄っています。今日も誰とも口を利いていません。メールでは、いろいろとやりとりはしています。だけどフィジカルにしゃべったのは、コンビニのお店のお方のみです。下界とのつながりは、セブンイレブンのみというわけです。

ある意味、ここは独房です。壁に「正」の字を書いて、過ぎ去っていく日を数えていかないと、今がいつなのかわからなくなりそうです。だけど、ここは素敵な独房です。大好きな翻訳をして、自由に時間が使えて、料理して、洗濯して、買い物して、ランニングして、一日が終わります。面会には、誰も来てくれません(涙)。一生このままでは寂しいですが、今はこれでいい。そう思っています。しばらくはひとりで、翻訳と自分と向き合っていたいと思います。

火曜日にオンサイトで働きました。来週火曜日にまたオンサイトするまでの6日間、バーチャルな山篭りに入っています。山篭りすると、人間、感覚が研ぎ澄まされてきます。完全に山と同化した時は、10km先の相手が自分の悪口を言ったことがわかります(by ジモン)。山では、たぶんヒクソンにも勝てます。横隔膜を鍛えることが、とても重要になってきます。

ともかく、つべこべ言わずに仕事に集中しましょう。こんな僕に、仕事を依頼してくださる人がいる。こんなにありがたいことはありません。明日も、頑張ります。


冬迫る険峻の闇の中腹で浮かべし友とありき日々の声

ゴルゴ38 Part XII

2008年10月22日 23時02分35秒 | 連載企画
これまでの作業が訳文を作り上げるための「熱い」作業だったとするならば、これからの作業はその熱を冷やし、テキストを熟成させ、固くするための「冷たい」作業だと言える。ベータ版のテキストは、さまざまな人々の眼に触れられながら、この最終工程を通過することになる。

そのメンバーには誰が相応しいか、考えてみよう。

モニター:読者の視点でテキストを読む。映画で言えば、完成前のラッシュを試写して、さまざまな意見を聞く工程だ。書籍を購入してくれそうな読者多数を募り、忌憚のない意見を求める(「ちっとも面白くない」なんて言わないで欲しいものだが.......)。

テスター:この人たちの視点は「強引にバグを検出する」というものだ。つまり、あえて、アラ探しをするために、重箱の隅をつつく。眉に唾をつけて、表現におかしなものはないか、辻褄があっていないところはないか、気に食わないところはないか、意地悪な視点で調べていく。テスターの役割はとにかくエラーを見つけ出すこと。エラーが見つからなければ彼らの存在意義はなくなるのだから、ともかく力技でもこじつけなんでもいいからエラーをできるだけ多く報告していく。もちろん、結果がすべて本当のエラーである必要はない。「エラーではない」と却下されるにしても、なにしろアラを探すのだ。このような穿った視点によって、作り手が気づかないミスやエラーを見つけることが可能になる。

校正者:プロの校正者の視点で、誤字脱字や不適切な表現、言い回しがないかを確認する。出版物としてテキストを世に送り出すために欠かせない作業だ。

内部レビューアー:「熱い」工程を担当した作り手のメンバーが、しばしのクールダウン期間を経てほとぼりが冷めた後に、テキストを読み返す。「あのときはああいう風に訳したけど、今読んでみるとやっぱりこうすべきだな」みたいな視点だ。

内部レビューアー以外のメンバーは、作り手集団とは一線を画す、別集団であるのが望ましい。何のしがらみもない人たちによって、シビアに客観的にテキストを吟味する必要があるからだ。

テキストはアクセスが制限されたウェブ上にウィキ形式でアップされ、フィードバックが反映されていく。テストと反映のサイクルは、何度も行われる。つまり、いったんフィードバックを反映したテキストに対して、再度同じテスト工程が繰り返される。何度かこのサイクルを繰り返し、フィードバックが枯渇しかけた段階で(エラーが完全になくなることはありえないだろう)、テキストはついに完成した(ちなみにこのプロジェクトの正式メンバーとして関わった人数は、ずばり38人だったということにしておこう)。

その間、プロデューサー軍団は、装丁や販売戦略など、売るための作業を進めていく(ちなみに、あまりにも予算をかけすぎたため、すでに初代プロデューサーは更迭されていた)。といいつつ、この当たりの営業的な側面についてはあまり詳しくないので、割愛させていただく。

そして、1年がかりの巨大プロジェクトは、ついにフィナーレを迎えた。マーケティング的には、時間をかけすぎて販売機会を逃したのではないかという意見もあるが、今回のプロジェクトに限ってはいたしかたのないトレードオフだったと言っておこう。

訳文は練りに練った。魂を注ぎ込んだ。やるだけのことはやった。メンバーたちは、緊張の面持ちで、発売当日を迎えた。果たして、読者はこの作品をどう受けとめてくれるのだろうか.......(次回、いよいよ感動の最終回)

   ,.…‐- ..,
   f   ,.、i'三y、 
   !   {hii゛`ラ'゛、
   ゛ゞ.,,,.ヘij  zf´、__
   /ー-ニ.._` r-' |……    「だんだん疲れてきました。これ以上妄想するのは、『もうよそう』なんて.....」

一悪の砂

2008年10月20日 23時53分50秒 | 翻訳について
毎日を適当に、無為に、馬鹿なことばかりして過ごしていると思われがちな私ですが、ところがどっこい、そうはイカの問屋が金曜日までおろさない、自分でいうのもなんですが、根は体育会系で、真面目で、熱い人間なのです。実際、体温も人よりちょっと熱いらしいです。

こんなこと自慢することではありませんし、フリーランスは基本的に誰でもそうだと思うのですが、会社を辞める前も今も、朝から晩まで起きている間はずっと仕事モードです。もちろん、好きでそれをやっているので、まったく苦ではありませんし、フリーになりたての自分にとってはもうそんなの当たり前田のニールキックなことで、むしろ、いくらやってもやっても時間が足りず、一日がすぐ終わってしまって不満だらけの水泳大会です。

しかし、そんな風に頑張っているつもりでいても、ところがどっこいイカそうめんということで、思うように作業がすすまない日もあります。考えてみるに、日中3時間もジョギングしていたり、Youtubeで昔のプロレス名勝負を延々と芋づる式に見ていたり、そういった行動を取っていることも多く、さすがにそんなときは自業自得で諦めがつくのですが、しかし、ところがそうは問屋がジッパーをおろしませんのでイカが出てきません、これはイカがなものでしょうか、となんだかわかりませんが、一生懸命やっているつもりなのに、なかなか作業がはかどらないときが本当にあるのです。

やっぱり、自分の作業量やパフォーマンスをしっかりと把握するためには、単なる根性主義、ガンバリズムだけではいけないのです。というわけで、1週間ほど前から、以下のように作業の定量化を行っているのでした。前々から思いついたようにやってはいたことなのですが、本格的に細かく計測するようにしました。

・一時間あたりの翻訳量(あるいは見直しなど他作業の量)
・一日あたりの作業時間
・時間帯によるパフォーマンスの違い
・一日の処理量

一時間当たりのワード数を記録しながら作業すると、ゲーム感覚で仕事を楽しめるようになりました。よい記録を出そうと、普段よりも集中力を発揮することができているのを感じます。当然これは作業の進捗度合いを測るバロメーターにもなります。客観的に自分の作業量を把握できるし、モチベーションも高まります。調子のよしあしがわかるので、よいパフォーマンスを出すための日常生活の過ごし方にについても考えるようになりました。つまり、いろいろとよい影響がでてきました。こういう風に、かなり真面目なところもわたしにはあるのです。思いがけずのこのモンコウイカのない展開に、小さな喜びを禁じえません。

で、時間を計測する道具なのですが、実はずっと前から砂時計が欲しいと思っていました。小さいときから、あのサラサラと流れる砂を見ているのが好きだったのです。しかし、いろいろと探してみて気づいたのですが、そうは桑名の問屋が焼き蛤ということで、砂時計ってあんまり長い時間を計測できるものがないのでした。だいたい3分くらいのが多いのです。さすがに3分おきに砂時計ひっくり返していたら、定量化どころじゃございません。そこで、何かいいのがないかとまた探してみたのですが、びっくり下谷の広徳寺、見事1時間かっきりと計測できる、こんな巨大な砂時計もあったのですが、さすがにこれを使うのは、いやじゃ有馬の水天宮ということであきらめ、某先輩同業者のいつもながらのありがたいアドバイスによって、キッチンタイマーを使うことにしました。

で、さっそくこの前ヨーカドーで購入したもので時間を計測しているのですが、これが本当に驚き桃の木松木安太郎でございまして、かなり仕事時間ならびに生活時間にリズムが生まれてきました。この調子で頑張ってみたいと思いつつ、それでもやっぱりあちこちの問屋がちっとも肝心なものを卸してくれないようで、遅々として作業が進まないときも多く、それはたとえばこんな駄文を書いているときだったりするのでした。


たはむれにウェブを覗いてそのあまり面ろきに堕して三行訳せず

だからと言ってお前が........

2008年10月19日 23時11分49秒 | ちょっとオモロイ
お前、甘えったれんじゃないよ。たかだが誤訳くらいで。

工藤さん、あんた知ってたのか?
オヤジも、ジイサンも、誤訳が多かったんだよ。俺もおんなじ症状なんだよ。

だからと言ってお前がそうだとは限らんだろう!
もう一度、原文を読み直せ。


と、あの人にこんな風に渇を入れてもらえんもんかな~

ブルーです。

コレ、たぶん、いつか買うとは思うけど...

2008年10月17日 21時40分15秒 | ちょっとオモロイ
翻訳者の仕事はもちろん「訳すこと」なのだけど、「読むこと」でもあると思う。スポーツ選手が体を作るために「食べることも仕事のうち」と言うのと一緒。つまり翻訳者にとっての読書は、相撲取りにとってのちゃんこ鍋なのだ。読むことが好きで好きで、それが高じて、「ねえねえ、外国にこんな面白い本があったよ、日本語にしたら、こんな感じだよ」という風に、その面白さを誰かに伝えたくてたまらない、そんな気持ちで翻訳をするのが、僕の理想だ。秘かに、一日のうち、起きている時間の半分を仕事、半分は読書で過ごすパターンを確立したいという夢あるいは目標もある(これ、結構真面目に計画しています)。もちろん、その他人間らしい生活をするための諸々も当然あるわけですが......。しかし、もしその夢を叶えたとしても、長時間ずっと読書の姿勢をとっているのは辛い。なので、ずっと前から、あの大○望さんも愛用されているとかいないとかいう「アレ」がとっても気になっているのであった。

だけど、もしアレを買って、寝そべって読書するのが格段に楽になったとしても、起きてる時間の半分をこの姿勢で過ごすというのはそれはそれでなんとも微妙なものがあるんだよな~。たしかに楽だとは思うんだけど。


「書を捨てよ、街に出よう」――っていうのは、寺山さんみたいに病臥の床で万巻の書を読みつくした人だからこそ言えるセリフなのであって、まだまだ全然読み足りないといつも不満を感じている今の僕の辞書には、「書を捨てる」なんて言葉はありえない。それでも、やっぱり外(電車のなかとか、喫茶店とか)で読む本というのは格別に面白いし、街を歩き回ってワイルドネスを体で感じることも僕の基本だと思っているので、一日中家にいることに飽いてきたと思ったら、書を持ってさっそうと街に出たい。と、はやくもそんな虫がモゾモゾし始めているのでした。


ゴルゴ38 Part XI

2008年10月17日 18時23分53秒 | 連載企画
ついに翻訳作業が一通り終了する。翻訳者によってすべての章が訳され、チェッカーのチェックも終わり、データマンも調査をやり尽くした。映画で言えば、クランクアップ。撮影はすべて終了。近所のイタリアンレストランで、華やかに打ち上げが行われる。プロデューサーから、メイン翻訳者に花束が渡された。思わず、一筋の涙が翻訳者Aの頬をこぼれ落ちる。感動的なシーンだ。誰しもが、目頭にこみあげてくる熱いものを感じている。あの人もこの人も、長かった半年間の共同作業を振り返り、美酒に酔っている。よかった、本当によかった――プロデューサーも、不可能と思われたこのプロジェクトの成功を、心から喜んでいた。宴は、いつまでも続いた(「プロジェクトX」風に)。

翌朝、著者はボストンへと帰っていった(二度と日本には来ないことを固く決意して)。マーク・○ーターセン氏も、リービ○雄氏も、再び大学で教鞭を取りはじめた(このプロジェクトのために、半年間、休職していたのだった)。翻訳者も、チェッカーも、データマンも、それぞれの仕事場に戻っていった。楽しかった祝祭の日々はあっという間に過ぎ去り、またいつもの日常が始まる。

だが、まだプロジェクトは終わりではない。むしろ、ここからがこのプロジェクトの真骨頂なのかもしれない。映画でいうところの編集作業の始まりだ。ベータ版を最終的なリリース版にするためのテスト工程、つまり訳文を練り上げ、熟成させるための作業が残っている。言うなれば、これまでは半年かけて「夜中に夢中で書いたラブレター」を作ったのだ(例え方が古い)。それを冷静な朝の眼で読み直す作業が、これからさらに半年かけて行われるのだった(続く)。

   ,.…‐- ..,
   f   ,.、i'三y、 
   !   {hii゛`ラ'゛、
   ゛ゞ.,,,.ヘij  zf´、__
   /ー-ニ.._` r-' |……    「風呂敷広げすぎて、オチをどうするか難しくなってきたよ(笑)......」

訳文の整理整頓

2008年10月17日 00時06分00秒 | 翻訳について
片づけが昔から苦手だ。だが、これから家で仕事をしていくに当たり、いつまでも雑然とした状態いるわけにはいかない、仕事の基本は整理整頓だ、と思って少しずつ仕事場兼書斎の片づけを始めている(母もこの部屋にはいっさい手を出さなかった)。

仕事の合間に細々としたモノを整理しているのだけど、なかなかすっきりしない。モノが異常に多いということもあるけど、片づけた後のモノたちの様子を見ても、確かにきれいに並び替えられてはいるものの、釈然としない。いつまでたってもごちゃごちゃしている。そして、その釈然としないモノたちは、「どうせ俺たちまたすぐにごちゃごちゃになるんだろ?」という負け犬根性丸出しの視線で僕を見つめている。たしかにモノに罪はなく、散らかしてるのは僕なのでモノを責めるわけにはいかないのだが.....。ともかく、片づけたわりにはあんまりすっきりしないという虚しさに包まれて、「なんでいつもこうなんだ......」って思いましたね。

原因はわかっている。考えてみると、スペースを占拠しているのは、ほとんど使わないもの(未読の本を含め)ばかりなのだ。性格的にモノを捨てることができなくて、ついつい何でもとっておいてしまうのだが、やっぱり思い切って使わないものは捨てるか、押入れにしまい込むか、誰かに譲るか、そのほか何らかの手を打たなければならない。頻繁に使うモノ、必要なモノだけに囲まれてすっきりと暮らす。少なくとも仕事場はそうする。そうしなければよい仕事はできない。妙にそんな気分が高まっている(といいつつ、昨日買って今日速攻で読み終えた、『佐藤可士和の超整理術』に影響されてるだけだったりして....)。

たとえばペン類。今日、一箇所にすべて集めてみようと思って、さまざまな場所からペンたちをかき集め、整理し、分類して、机の上のペン立て数個にまとめてみた。ペンが好きなので、ボールペンを筆頭にやたらとたくさんある。マーカー、シャーペン&えんぴつ、万年筆など、全部あわせたら3百本近くもある。少々時間をかけて律儀に分類してみたのだが、よく考えたらいつも使うものが数本と、予備にいくつかあればそれで当分は事足りるのだ。その他大勢のめったに使わないペンたちのために、わざわざ机のスペースを常時与えておく必要はない(そして貴重な時間を整理に使う必要もない)。だから数本を残して後はバックヤードにリタイヤしてもらうことにしよう。あるいは、ここは思い切ってあまり活躍していないペンたちとはサヨナラするという手もある。でもやっぱりまだ使える物を捨てるなんてもったいない。とはいえ、ふだんはまったくといっていいほど使わないシャーペンや鉛筆を何百本も持っていても、いつまで経っても消耗されないではないか。シャーペンなんて、ボールペン派の僕はいつ使うんだ? しかも、シャーペンってなかなか消耗しないぞ(芯替えるから)、高校生でもない限り。う~ん......

と、そんなことを思いながら翻訳を再開したのだけど、よく考えたら、無駄な物を捨てれないこういう優柔不断な自分の性格は、訳文にも表れていることに気づいた。つまり、無駄な表現や言い回しが多い。ボールペン1本あれば事足りるところを、2本にしてしまう。最近やたらとそういうのが気になるのだ。見直しのときに少しでもまどろっこしいところを見つけると、もう刈り込まずにはおられない。すっきり五分刈りにしないと気持ちがわるい。これはいい兆候かもしれない。それだけ細かいところに眼がいくようになってきたのかもしれないからだ。ただし、あんまり淡白な表現も好きではないので、「ふくらませどころ」では、文章ならではの味わいを出してみたいとは思っているが。

無駄なもの、なくてもいいものを見つけたら小まめに片づける。その小さな気づきがないと、部屋全体が雑然としてしまう。翻訳も同じで、なんでもかんでも詰め込んだり、きちんと整理していないと、必要な表現とそうでないものが混在してしまう。だから、そうだ、翻訳は整理整頓なのだ、日常生活で小まめに片づけをすることは、よい訳文を作ることにつながるのではないか、などと思いながら、まるっきり片づいていない部屋のなかで今日も作業を進めていたのだった。