第5章「28年目のグッドバイ」
眠りから覚めたら、目の前に三原順子がいた。そうだ、ここはエイコちゃんの家なのだ。携帯電話で時間を確認したら、九時を少し過ぎていた。慌てて服を着替え一階に降りる。お母さんが朝ご飯の準備をしてくれていた。お早うございます。昨日は本当にお世話になりました。大騒ぎしてすみません。お母さんは優しく笑ってうなずいてくれた。すでに起きていたエイコちゃんが、こっちゃんシャワー浴びんさい、と言ってくれたので、昨日、汗と酒と涙でドロドロになった身体をお湯で洗い流した。それにしても、女子の実家でお風呂に入るのって、なんだか不思議だ。緊張してしまう。
再び二階に戻って荷物をまとめ下に降りると、居間の食卓のうえにエイコママが作った美味しそうな朝ご飯の用意ができていた。お母さんは後で食事をされるのか、すでに済ませておられたのかわからないけど、エイコちゃんと僕の分だけが用意されていた。お母さんに見守られながら、ありがたく、遠慮なく、そして恐縮しながらいただいた。隣に座っているお母さんが、まるで食いしん坊万歳に出てくる料亭の女将さんに見える。山下真司な気分で黙々と箸を進めた。お母さんに、ブログの話を訊かれた。エイコちゃんから伝わっているのだろうけど、やっぱり恥ずかしい。ご飯がなくなると、エイコちゃんがおかわりをよそってくれた。お父さんが部屋から出てきて、別の部屋で新聞を読み始めた。お父さん、昨日はありがとうございました、と言うと、いやいや構わんよ、といった顔でうなずいてくれた。
温かいもてなしを受けて、とても嬉しい。しかし緊張する。エイコちゃん一家に囲まれて迎える朝。お父さんもお母さんも、娘の知り合いの男子がひとり家に来て泊まり、朝ご飯を食べているというのはなんとなく心中穏やかではないだろう。僕も落ち着かない。なんだかまるで、あらたまってご両親に挨拶に来たみたいな気持ちになってしまう。わずかでも沈黙が訪れてしまうと、次にどう口を開けばいいのかがわからくなる。なぜだか「お父さんお母さん、娘さんを僕に…」と思わず切り出してしまいそうな気分になってしまうのをぐっとこらえながら、おなか一杯ご飯をいただいた。お母さん、ご馳走さまでした。
今日はもう、午後に浜田を去ること以外は何も予定がない。「散歩にいこう」とエイコちゃんに誘われ、喜んで十時頃に家を出た。行くあてもなくブラブラしようということになった。
ヒロシ君の家の前を通り、元左君の家の前を通った。花岡君の家も近くだ。コマッキーの実家もこの辺り。エイコちゃんはマキちゃんの家の方に向かおうとしたのだけど、突然訪問したらせっかくの休日の朝にみなさんに気を使わせてしまうからええよ、と僕は言った。歩いていると、記憶が蘇ってくる。エイコちゃんの住む熱田という地域は、僕が住んでいた長浜とは学校を挟んで反対側の方角にあり、子供の足では放課後に気軽に来られるような距離ではなかったが、それでも気合いを入れて何度も遊びに来たものだ。土地勘はないけど、目に入る光景のなかに、かつてここにいた自分の姿を描くことができる。
「イットマン」こと伊藤君が住んでいた家の前にきた。イットマンのお父さんは自動車関係の仕事をしていて、その大きな施設のなかに彼の家はあった。今はもう、当時とは建物の感じも変わってしまっていたけど、施設内に足を踏み入れたとたんに懐かしさが込み上げてくる。ここでよく野球をやった。切り崩された丘の側面を固めているコンクリート。この壁に、ボールをぶつけたんだ。大型トラックが何台も停められていた、公園でもグラウンドでもない固いコンクリートのうえでの遊びには緊張感がともない、障害物の多い場所で野球をしていると、ホームランや特大のファールを打ったらボールの行方がわからなくなってしまうこともあった。しかしそんな危険さが、たまらないスリルでもあった。傍目からみたら、こんなところで子供が遊ぶなんて危ないと思われていたかもしれない。もし僕が、ここがイットマンたちとよく遊んだ場所だということを覚えていなければ、目の前にあるのは単なる自動車関連の施設だと思うだろう。だが、ここは夢のような遊び場だった。あの頃の僕たちは、大人たちが普段出入りし仕事をしている場所を自分たちも同じように使えることに喜びを感じていた。なんとなく少しだけ大人になったような気がしたものだ。当時の僕には、大人はすべて立派に見え、同時にうまく理解できない存在でもあった。今ここで夢中になって野球をしている子供がいるとしたら、その子供の眼に、僕はあの頃僕が見ていた大人と同じように映るのだろうか。後に転校し、今では松江に住んでいるという彼には今回会えなかったけど、この場所にはイットマンの思い出がたっぷりと詰まっている。僕が住んでいた家が僕にとって特別な場所であるように、彼にとってもここは永遠に特別な場所であり続ける。彼の言葉はなくても、僕にはそれがとてもよくわかった。目の前の国道を、何台もの車が通りすぎていく。だがその騒音がまったく気にならないほど、そこには静謐な空気が流れていた。四日間、感じ続けてきた「懐かしさ」が、最終日の今日は少しだけ今までと違う意味合いを帯びてきていることに気づいた。
そのまま歩き続けた。十前君の家の前を通りかかったら、エイコちゃんがまた、挨拶してみよか、と言って玄関のチャイムを鳴らした。もう、突然すぎて彼だって驚くだろうに、と小心者の僕はハラハラしたけど、不在だったらしくどなたも出てこなかった。何となくホッとした。彼にはまたの機会に会えたら嬉しい。エイコちゃん、ちょっと突発的すぎるで、と僕は言った。
「そうや、浜田カントリークラブに行ってみいへん? ちょっと距離はあるけけど、このまままっすぐ行ったら着くで」彼女がこっちを見た。そう言われて見上げると、目の前の丘陵には深々とした緑が広がり、遠くにそれらしき施設の一部が見える。歩いたら気持ち良さそうだ。おお、ええよ、ぜひ行こう。ちょっとした食後の散歩のつもりが、かなり本格的な散策になってきた。「今頃、清君、清君のお兄さん、かぺ君、コマツの四人がゴルフしとるはずやけ、会えるかもしれんよ」エイコちゃんが笑った。「そうやな、クラブハウスで待ち伏せしてびっくりさせたろか」僕は言った。
徐々に強まってきた陽射しの下で、なだらかな坂道をゆっくりと歩いた。人家の少ない山道に耳をつんざくようなセミの鳴き声が響き渡っている。歩を進めていくほどに、見下ろす浜田の街並みが大きく広がっていく。歩き始めてすでに、一時間半ほどが経過していた。
カントリークラブが徐々に近づいてきている。気がつけば、路上から見渡す浜田湾はますます大きなものになっている。果てしない海と、それに負けないくらい巨大な陸地。昨日までのまるで祭のような日々も終わり、これから小さな日常に帰って行かなければならない僕に対し、その雄大な光景が少しずつ距離を取り始めたようにも思えた。
「わあ、こうしてみると浜田ってこんな町やったんかちゅうことがようわかるな」エイコちゃんが眼前の景色に見とれるようにして言った。「この景色を見とると、うち思い出すことがあるんよ。小学六年のとき、友達と錦町の「アカマツ」の二階にあった「プリティ」までキキ☆ララとかマイメロのグッズを買いに行ったんよ、荷物がたくさんになったんやけど、おしゃべりに夢中で、それを全部バス停のベンチに置き忘れてしもたん。柿田のお面屋さんの前のバス停で降りたときにそれに気づいて、もうめっさ気が動転して、錦町まで相当距離があるのにダッシュして走っていったん。もう焦りまくってたから、バスに乗って戻るってこと考えつかんかったんよなあ。子供なのにあんなに遠くまで走ってったんやって、ここから見てたらわかるわ」懐かしそうに笑った。今でも小柄だが、当時はさらに小さな小学生バージョンのエイコちゃんが、忘れ物を取りに全力で浜田の街を駆け抜けていく姿が心に浮かんだ。錦町には、毎週土曜日の夜の「土曜夜市(どよよいいち)」に、家族でしょっちゅう出かけ、出店で仮面ライダーのお面を買ったり、金魚すくいをしたりした。東映の映画館で、父親と一緒に大人向けの一般映画を観たこともあった。『スターウォーズ』も観たのもここだったよな。
ちょっと気になっていたことがあった僕は、思い切ってエイコちゃんに聞いてみた。
「エイコちゃん、なんだか元気がないみたいだけど、大丈夫?」
山道を歩いていたからではない。初日と二日目はあまり気づかなかったけど、昨日あたりから、彼女がときおり疲れているような、悲しそうな表情を見せているのに気づき、どうしたのだろうと思っていたのだ。夕日パークでみんなで海を眺めていたときも、昨日のバーベキューで宴たけなわのときも、ひとりだけぽつんと寂しそうに佇んでいる風な様子がうかがえた。僕はそれを彼女に伝えた。
「え? そういう風に見えとったん? やっぱりわかるんかな」エイコちゃんが言った。「心配かけたくないからあんまりみんなには言わんようにしとるんやけど、実はね」ゆっくりとしゃべり始めた。
聞けば、ここ数年ちょっと辛いことがあり、それに耐えているうちにストレスが積み重なったのか、ここのところ身体の調子があまりよくないのだという。普段はあっけらかんとして天真爛漫なところもある彼女だが、同時にものすごく繊細で優しい心も持っている。自らに我慢を強いることで、傍目かもわかってしまうくらいの辛さを抱えながら過ごしてきた彼女の大阪での日々を想像し、僕も心が痛んだ。僕は28年ぶりの再会に浮かれ、祝祭的なムードに浸るばかりに、彼女が誰もと同じように様々な日々の出来事に翻弄されながら生きているひとりの人間であることをうまく想像できず、彼女が感じていた心の痛みに気づけなかった。
「でもね、もうその辛さからは解放されたん。だけどこれまで我慢してたことがまだ心に残ってるみたいで、ここにきてどっと疲れがでてしもたみたいなんよ」深い悲しみを経験したひとがときおり見せる表情に、それを見るものにはけっしてわからない、そのひとだけが通過してきた悲しみが宿っているような気がすることがある。エイコちゃんはうちは大丈夫やよ、と言って笑ったが、鈍感な僕にそれを気づかせるくらいに大きな辛さを体験してきたのだということが、そのセリフの後ろから伝わってきた。
かつて、バス停のベンチに置き忘れたキキ☆ララの筆箱を取り戻しに少女が全力で駆け抜けた町。信じられないことに、彼女は本当にはるか先にある錦町まで走り続けた。だが、筆箱は待っていてくれなかった。どれだけ探しても、ベンチには買い物袋は見あたらなかったのだ。だがそれでも、浜田が少女時代のエイコちゃんを優しく見守り続けてきたことには疑いの余地はない。今、浜田から遠く離れた関西で、大人の女性として生きる彼女に、浜田は何を語りかけているのだろうか。あのとき失ってしまった買ったばかりのキキ☆ララの筆箱は、まだこの町のどこかにそっと隠されているのではないのか。
そして僕にも悲しみはあった。あまりに大きいので未だにその本当の大きさがわからないくらいの、人生と同じくらいに長くて不可思議で、この手と頭ではすべてを把握することができないくらいの悲しみが。だがすべては自業自得だ。誰を責めることもできないし、責めたくもない。その時々を懸命に生きてきた、そのすべての答えとしての僕が今ここにあり、それを否定するつもりはない。折に触れて流れる涙が、悲しみの底深さとともに、忘れかけていた温かい心をも目覚めさせてくれるものであることを、浜田に来る直前に、僕は実感していた。
「なあ、そんなに心配せんでも大丈夫やで、ちょっと疲れてただけやし。今回ええこともたくさんあったから、すぐまた元気になれる思うけえ」エイコちゃんがニッコリと微笑んだ。ごめん、妙にシリアスになってしまうのは僕の悪いクセなのだ。そうだよね、ちょっと疲れてただけだよね。きっとすぐにまた元気になるよ。
彼女の胸の内を聞けて、嬉しいような悲しいような気持ちになった。だが、もういたずらに過去を振り返る必要はない。浜田という原点に立ち返った今、僕たちの目の前にあるのは、今日という日と未来だけなのだ。やさしく僕たちの過去を包む浜田湾が、ただすべてを受け入れて、前に進めばいいんだと言ってくれているような気がした。明るい笑顔でこの町を駆け回っていた少女は、きっと同じ笑顔で軽やかに明日を駆け抜けていくはずだ。みんながそれを後押ししてくれるはずだ。そしてこの僕も――。
カントリークラブに到着した。すでにお昼どきになっていた。エイコちゃんと僕は、清君たちがいることを期待しながら、クラブハウスの中に突入していった。
(続く ~次回、ついに最終回!~)
始めから読みたいと思ってくださった方は、どうぞ
こちら(その1)からご覧ください~!
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