イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

何をやっても同じ人

2007年12月02日 22時38分37秒 | 翻訳について
どんな役をやっても、観ている側には同じ人物像しか浮かんでこない俳優というものがいる。観る側の主観が思いっきり入っていることを差し引かなくてはならないが。そういう役者を見るたび、「この人何やっても同じだな」とテレビに突っ込みを入れてしまう親父な私である。もちろん、それはある意味ほめ言葉でもある。それだけ個性的なものを持っているのだし、演技が安定しているということもできるからだ。だが、どんなに役柄が変わっていても、どんなに演技のスタイルを変えたとしても、どんなに髪型や衣装を変えても、どうみても同じ人物にしか見えない役者というのは、なんとも味気ない。フィクションのリアリティーが軽くなるのである。

逆に、作品によって同じ役者に思えないほどイメージが変わる俳優もいる。監督によって作品というのは大きく変わるし、年月によって、役者自身の肉体や精神にも物理的な変容が発生することもあるだろう。しかし、そういう環境因子が多数あることは前提としても、まるっきり別人になってしまえる役者というのは、やっぱり才能があるのだと思う。あるいは、人間として元々多面的で多層的な心理を抱えているのではないかと思う。だからこそ、状況に応じて様々なペルソナを使い分ける術を心得ているに違いない。やはり役者たるもの、そういう内面を感じさせてくれる人に僕は魅力を感じる。

翻訳者も同じだろう、訳す対象によって、文体を変え、トーンを変え、語の選び方を変える。条件は多様に変化する。マニュアルなのか、ホワイトペーパーなのか、プレゼン資料なのか、雑誌記事なのか、フィクションなのか、ノンフィクションなのか、堅めのほうがよいのか、やわらかめのほうがよいのか、などなど。

これらはあくまでも外部的な要因である。でも、訳者自身だっていつも「同じ自分」ではない。調子がよいとき悪いとき、覚醒しているとき眠たいとき、時間があるときないとき、原文に興味があるときないとき、お金をたくさんもらえるときともらえないとき、気持ちがハイのときと落ち込んでいるとき、最近読んだ本の文体に影響されているときとされてないとき、551の蓬莱があるときないとき、などなど、数え上げればきりがない。そして、こうした状態の変化により、生まれてくる訳文にも様々な変化が発生すると思うのだ。

所詮同じ一人の人間。どんな文章を書いても、抜けきらないクセやリズムのようなものはあるだろう。しかし、訳者は役者、という。毎回様々な役割を求められるのなら、その都度、いい意味で期待を裏切れるような文章を作れればよいと思う。たとえば、同じ人が訳した二つの異なった文を見比べて、とても同じ人がやったものと思えない、と誰かが感じたとすれば、そしてそれが、それぞれ求められる仕事の条件に適して「意図的」に作られた訳文であるならば、その訳者には芸がある。仕事によって、自分と言う色を消し、役の色に染まることができているからだ。

自分の場合はどちらかというと芸が安定していないがために、仕事によってムラが出てしまっていて、結果的に別人化することがあるかもしれない、というのが現状である。ともかく、様々な文章に挑戦することで訳者としての幅を広げられればいいと思う。だから、安定した型を作ることも大切だが、それでマンネリ化してしまわないように、絶えず新しい何かを探して生きたいとも考えている。そうしなければ、成長の余地が少なくなってしまうと思うからだ。