今朝もまた、会社の営業担当者に同行して、都内某所の某大手企業に直行。産業用機器を作っているメーカーなのだけど、なんだかとってもいい会社だった。守衛の方、受付の方、相手をしてくれた担当者の方、会社の中を行きかう方々。みんなみんな、幸せそうだった。ちょうど会社を出るころ、お昼どきだったので、みんな食堂に向かって楽しそうに歩き出しているような雰囲気だったのだけど、天気もよくて、なんというかいじらしいというか、もう「幸せなら手を叩こう」を思わず歌いだしてしまいそうな気持ちになってしまい、とうとう営業のエイチさんと一緒に、「幸せなら態度で示そうよほらみんなで弊社に発注してね♪」と歌いながら会社の構内をスキップして走り回ってしまった。というのは嘘なのだけど、実際問題、こういう会社に勤めて真面目に働いてたら、人生、幸せなのかもしれないな~、などと思ってしまった。日本はこういう優良企業に支えられてるのだな~と、しみじみする。まあ、人の表面的なところだけみて「幸せそうだな」なんていうのは、本当に表面的なものの見方であって、内部的にはいろいろとしがらみがあったりこがらしが吹いたりシラミがいたり小林が遅刻したりなんだかんだあるんだと思う。でも、そうはいってもやっぱり表面にはいろんなものが現れるのであって、ぱっと見ただけで、結構ものごとの本質っていうのはわかってしまうものだと思うのだ。ああ、この人って素敵だな、と第一印象で思ったら、その後でなんだかんだ、すったもんだがあったとしても、やっぱり結局はその人って素敵な人なんだと思う。
とかなんとか思いつつ、じゃあそういう会社で作業服着て実直に機器を作ったり売ったりしている人生を送っていない自分に対して不満だったり後悔だったりするのかと言われれば、昔だったらそう思ったかもしれないけど、もううらやましいとか、道を間違ったとか、そういうことは思わない。ちょっとは思うけど。イワシにはイワシの人生(魚生)というものがあって、今は自分が選んだ道、あるいはこれから歩もうとしている道について、後悔もしていないし、不安も感じていないのだ。いや、正直、不安はある。だけど、それはこの道を間違ったのかな、という不安ではなくて、道は間違っていないのだけど、途中でヘビに噛まれたりしないかな、とか、熊に襲われたりしないかな、とか、肥溜めに落ちたりしないかな、とかいう不安なのであって、もうこの道を歩き始めていることについては諦めの境地というか、満足というか、ともかく引き返そうとは思っていないのである。まあ、この道はどうみても高速道路ではなくって、もう細々としたけものみちなのだけど、道端には小さなお花なんかも咲いていて、空気も美味しいし、景色も絶景というほどではないけど、そこそこ趣があって、まあ、なかなかよいところだな~、なんて思ったりしているのである(何が言いたいのかよくわかりませんが)。ともかく、実際に道を間違った、と思ってしまっても、もう年も年なので、これから引き返してたら、それだけで人生が終わってしまうかも知れないのだから、前に進むしかないのです。ハッハッハッ。
とかなんとか思いつつ、帰り道、乗換駅が巣鴨だったので、生まれてこの方いちども巣鴨に行ったことのない僕は、営業のエイチさんに「巣鴨で飯でも食って帰りましょうか、そうしましょうか」と持ちかけたのであった。で、ついでなのでとちゃっかりとげぬき地蔵にも行って、お祈りしてしまった。何を? さあ、なんでしょう。自分でもよくわかりません。とにかく、最近神社でよく祈ってます。手を合わせて目を瞑ると、そのとき初めて今の自分のいろんな思いがあらためて見えてくるというか、映像化されるというか、本当に大切なものが、そのわずか数秒の間に立ち現れてくるというか、そんな気持ちになる。日常というざわめきのなかにあって、それまでそこらを浮遊していた想念が、手を合わせ、祈り始めた瞬間に、音も無く静かに沈殿していくような、そんな気持ちだ。というわけで、おばあちゃんの原宿といわれる巣鴨で、僕とエイチさんは茶蕎麦の昼食をとったのだった。
ちなみに、週末テレビを観ていたら、「今日から大型連休です」みたいなことをいけしゃあしゃあとアナウンサーがのたまっていたのだが、そうなのでしょうか? 世間の人たちは、本当にこの前の土曜日からもう連休モードなの? そんな、ナボナ、じゃなくてアホな。どれだけ休みやっちゅーねん。だって、本来今週は火曜日しか休みじゃないでしょう? どんだけ便乗しとんねん! といいたくなります。が、まあ人間、休むのは大切だから、休める人は休んだらいい。でも、本当にこんなに休むのが好きなんだったら、国民の総力を結集して、もっと休日を増やすようにしたらいいのにね。なぜ、そんなに休みが好きなら、もっと休みを増やすために努力しないのキミタチは? ちなみに、もし僕が総理大臣だったら、必ず実現させてやろうと思っていることがあって、それはズバリ、週休三日制の導入である! どうです? いいでしょう。これが実現したら、きっと世界中から、日本はいい国だといってもらえるようになると思うのですが、いかがでしょうか?
ところで、話は突然また変わるのですが、ドーナツの穴っていうのは、ドーナツの穴が「ある」のか、それとも、穴のところにあるべきドーナツが「ない」のか、一体、どっちだと解釈すればいいのでしょう?
ドーナツの真ん中部分が足りないと店員呼びつけ真顔でクレーム
つまり、あるべきはずのものがないからこそ、その欠落感をここまで大きく感じてしまうのか、そもそも初めからそこにはないものだからこそ、こんなにもその存在感をずっしりと感じてしまうのか。ともかく、ドーナツには、穴がある。いや、ドーナツには、中心の部分がない。
「君がいない」と思う気持ちがありすぎて今日も頼んだチョコレートドーナツ
考えてみたのだけど、やっぱり「穴がある」んだよな。ないということが、ある。この「ある」という感覚があるからこそ、ドーナツはドーナツ足りえているのだと思う。ここにいてほしい、ここにあってほしい、そう思うものが、ない。大切なものが、ない。あるのは、空虚な空間だけだ。だけど、その何もない空間が「ある」ことによって、何かが存在しうることだって、ありうる。たとえば、チョコレートのたっぷりかかった、あのダブルチョコレートドーナツのように。「ない」ことが「ある」と思えることだって、あるのだ。
ここに君がいない理由がわからずにドーナツの穴見つめてたスタバ
とかなんとか思いつつ、じゃあそういう会社で作業服着て実直に機器を作ったり売ったりしている人生を送っていない自分に対して不満だったり後悔だったりするのかと言われれば、昔だったらそう思ったかもしれないけど、もううらやましいとか、道を間違ったとか、そういうことは思わない。ちょっとは思うけど。イワシにはイワシの人生(魚生)というものがあって、今は自分が選んだ道、あるいはこれから歩もうとしている道について、後悔もしていないし、不安も感じていないのだ。いや、正直、不安はある。だけど、それはこの道を間違ったのかな、という不安ではなくて、道は間違っていないのだけど、途中でヘビに噛まれたりしないかな、とか、熊に襲われたりしないかな、とか、肥溜めに落ちたりしないかな、とかいう不安なのであって、もうこの道を歩き始めていることについては諦めの境地というか、満足というか、ともかく引き返そうとは思っていないのである。まあ、この道はどうみても高速道路ではなくって、もう細々としたけものみちなのだけど、道端には小さなお花なんかも咲いていて、空気も美味しいし、景色も絶景というほどではないけど、そこそこ趣があって、まあ、なかなかよいところだな~、なんて思ったりしているのである(何が言いたいのかよくわかりませんが)。ともかく、実際に道を間違った、と思ってしまっても、もう年も年なので、これから引き返してたら、それだけで人生が終わってしまうかも知れないのだから、前に進むしかないのです。ハッハッハッ。
とかなんとか思いつつ、帰り道、乗換駅が巣鴨だったので、生まれてこの方いちども巣鴨に行ったことのない僕は、営業のエイチさんに「巣鴨で飯でも食って帰りましょうか、そうしましょうか」と持ちかけたのであった。で、ついでなのでとちゃっかりとげぬき地蔵にも行って、お祈りしてしまった。何を? さあ、なんでしょう。自分でもよくわかりません。とにかく、最近神社でよく祈ってます。手を合わせて目を瞑ると、そのとき初めて今の自分のいろんな思いがあらためて見えてくるというか、映像化されるというか、本当に大切なものが、そのわずか数秒の間に立ち現れてくるというか、そんな気持ちになる。日常というざわめきのなかにあって、それまでそこらを浮遊していた想念が、手を合わせ、祈り始めた瞬間に、音も無く静かに沈殿していくような、そんな気持ちだ。というわけで、おばあちゃんの原宿といわれる巣鴨で、僕とエイチさんは茶蕎麦の昼食をとったのだった。
ちなみに、週末テレビを観ていたら、「今日から大型連休です」みたいなことをいけしゃあしゃあとアナウンサーがのたまっていたのだが、そうなのでしょうか? 世間の人たちは、本当にこの前の土曜日からもう連休モードなの? そんな、ナボナ、じゃなくてアホな。どれだけ休みやっちゅーねん。だって、本来今週は火曜日しか休みじゃないでしょう? どんだけ便乗しとんねん! といいたくなります。が、まあ人間、休むのは大切だから、休める人は休んだらいい。でも、本当にこんなに休むのが好きなんだったら、国民の総力を結集して、もっと休日を増やすようにしたらいいのにね。なぜ、そんなに休みが好きなら、もっと休みを増やすために努力しないのキミタチは? ちなみに、もし僕が総理大臣だったら、必ず実現させてやろうと思っていることがあって、それはズバリ、週休三日制の導入である! どうです? いいでしょう。これが実現したら、きっと世界中から、日本はいい国だといってもらえるようになると思うのですが、いかがでしょうか?
ところで、話は突然また変わるのですが、ドーナツの穴っていうのは、ドーナツの穴が「ある」のか、それとも、穴のところにあるべきドーナツが「ない」のか、一体、どっちだと解釈すればいいのでしょう?
ドーナツの真ん中部分が足りないと店員呼びつけ真顔でクレーム
つまり、あるべきはずのものがないからこそ、その欠落感をここまで大きく感じてしまうのか、そもそも初めからそこにはないものだからこそ、こんなにもその存在感をずっしりと感じてしまうのか。ともかく、ドーナツには、穴がある。いや、ドーナツには、中心の部分がない。
「君がいない」と思う気持ちがありすぎて今日も頼んだチョコレートドーナツ
考えてみたのだけど、やっぱり「穴がある」んだよな。ないということが、ある。この「ある」という感覚があるからこそ、ドーナツはドーナツ足りえているのだと思う。ここにいてほしい、ここにあってほしい、そう思うものが、ない。大切なものが、ない。あるのは、空虚な空間だけだ。だけど、その何もない空間が「ある」ことによって、何かが存在しうることだって、ありうる。たとえば、チョコレートのたっぷりかかった、あのダブルチョコレートドーナツのように。「ない」ことが「ある」と思えることだって、あるのだ。
ここに君がいない理由がわからずにドーナツの穴見つめてたスタバ