イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

明日のニートとスモークサーモン

2009年03月30日 22時52分37秒 | Weblog
いかん。最近、アスリートとしての自分がどんどん失われている。足の怪我、冬の寒さ、仕事の忙しさ、心の迷い、などなど、その要因は多々存在する。まあ、僕はアスリートといってもピンキリでいえば濃霧で先がまったく見えないくらい、かなりキリの方に位置するはしくれアスリート(というか、単なる中年ジョガー?)なのだけど、なんというか、こんな末端アスリートであっても、「今、自分はアスリート」という状態と、そうでない状態っていうのがわりとはっきり認識できるものなのだ。日常的にわりと明確な目標を持って練習をしているときなんかは、心も体が「自分はアスリートです」と無言のメッセージを発しているのがわかる。それが最近、ずいぶんと走れない時期が続き、さらに仕事に忙殺されて生活リズムまで狂ってしまったおかげで、このアスリートのカラータイマーが点灯しなくなってしまった。今の自分は、アスリートというよりも、「明日ニート」である。

単にマラソンとか腕立てとか、そういうことをやるだけじゃなくて、仕事とか翻訳の勉強とか、そういう文系的な部分についても、アスリートとしての自分が失われている。燃えてる自分がいない。仕事には燃えてるんだけど(というかおしりに火がついてるだけ?)、追い込まれることでいろいろと勉強にはなるとはいえ、あまりにも実践的にすぎるのだ。全国各地を転々として遠征試合を続ける死のロードにも似て、目の前の仕事とガチンコ勝負ばっかりしていて、試合前の練習とか、ジム通いとか、そういったプラスアルファができていない。試合と並行しつつ、トレーニングも欠かさないときのあの高揚感、前向きな気持ちというのが感じられないのだ。やる気はあってもそれは今ここにあるやる気じゃなくて、いつかどこかでのやる気なんだなこれが。時間がなくてどんどん先送りしてるから、いつまでたっても燻ってるだけ。スモークサーモンが作れそうなくらいに燻り続けている。

まあ、この半年いろんな不安や迷いに悩まされながら、追い詰められ、突き上げらながら必死こいてやってきたのだから(いいことがひとつもない)、アスリートな自分が少々失われたとしてもしょうがない。ともかく、今週から気合を入れなおしてスモークサーモン作りにいそしみたい。じゃなくてアスリートな自分を復活させたい。仕事もトレーニングの一環であると認識して、ハードワークを心がけよう。っていうか毎日、頑張ろうってそればっかり言ってるような気が。

一日暮らし

2009年03月29日 22時40分55秒 | Weblog
僕が住んでいるのは西東京市と武蔵野市の境目で、住所としては西東京市なんだけど、家のすぐ前の通りの向こうは武蔵野市。ベランダから見える借景はすべて武蔵野市なのだ。たまに、国境沿いに住んでいる人たちの気持ちをなんとなく想像したりする。

図書館も西東京市と武蔵野市の両方を利用している。今日は武蔵野市の図書館に散歩がてら行ってみた。いつもは吉祥寺方面にある中央図書館にいくのだけど、今日は気分を変えたかったので、武蔵境の駅前から徒歩10分くらいのところにある図書館に行くことにした。駅前をぶらっとしてから、地元なのにほとんど歩いたことのない道を行く。こじんまりして、いい図書館だ。2Fに上がってみたら自習室があった。かなりの座席数があるけど、ほとんど埋まっていた。日曜日なのに、みんな勉強したり、仕事をしたりしているのだ。僕も頑張らなくては。仕事の資料を読んだりするときに、利用してみよう。緊張感があって、はかどるかも。貸出限度いっぱいの10冊を借りる。

駅の南口にお目当てのラーメン屋があったのだけど、準備中だった。残念。このラーメン屋さんの隣は古本屋だ。間取りと言い、本の質といい、足の踏み場もないくらいうず高く本が積まれているところといい、すごく典型的な、「ザ・古本屋」みたいな店だ。ラーメンのうっぷんを晴らすべく、店内に足を踏み入れる。とんでもなく古い本に、とんでもなく高い値段がついている。本来、古本屋というのはこうした本当に古くて価値のある本(絶版になった本とか、全集とか)を買うところなのだ。とはいえ、僕はそういうオーソドックスな古本には手が出ない。せいぜい古くて20年前の本。1冊購入。

『一日暮らし』水上勉

「たった一日でよい。あすも、あさっても生きたいと思うから、この世がめんどうになる。今日一日を何とか、人に厄介をかけず、健康ですごせたらと、そればかりの工夫なら、あてがはずれても一日のことだから、雨でも嵐でも、まあ辛抱できるというものだろう」(書き出しより)

禅の境地。今日は特に、これからの自分のことばかりを考えながら歩いていたので、逆にこの水上さんの言葉にぐっとひきつけられてしまった。今の自分の置かれた立場を思えば、明日のことを考えずにはいられない。だけど、必要以上にポジティブになろうとしたり、あれこれ悩んでもしかたないのだ。今日一日のみ、の気持ちも大切にしなければ。翻訳の仕事には納期がつきものなので、どうしても先のことを考えてしまう。でも、明日に不安を残さないためには、今日しっかり仕事をするべきなのだ。

先日発見した、オープンまもない駅前の『餃子の王将』に乗り込む。ラーメン、チャーハン、餃子のセット。店内は思っていたよりもかなり広い。店員も10人近くもいる。ものすごく繁盛している。店員の人たちも、開店したばかりだということもあるのだろう、すごい緊迫感を持って仕事をしている。次から次へと来る客をさばき、料理を作るのに必死だ。このテンションで、1日働くのは、ものすごいエネルギーを要することだろう。仕事とはかくも厳しく、真剣なものなのだ。僕も頑張らなくては、とここでも激しく思った。1ワード翻訳するのに、この店の人たちが餃子1個つくるだけのエネルギーと真心をこめるつもりで、頑張ろう。

来週からまた新しい一週間が始まる。フリーになって半年。季節は春。いろんな意味で、新しい区切りをつけて、新たな一歩を踏み出すときだ。図書館、古本屋、ラーメン屋。いつもと行動パターンはまったく変わらないけど、新しいお店に入って、あらたな気持ちを自分に注入できた。小さな一歩ではあるけど、少しずつ、新しい今日、新しい明日を作り始めていこう。

限りない友情と共感でおくるミッドナイトメッセージ

2009年03月29日 00時28分47秒 | Weblog
「深夜の友は真の友と言います。こんな時間に独りで起きている貴方はいったいどんな人なんだろうと思いながらマイクに向かっています。人生は短く、夜もまた短い。今日できることは明日に延ばして、せめてこの深夜の一時を。限りない友情と共感でおくるミッドナイトメッセージ。五木寛之の夜です」

毎回このフレーズで始まるラジオ「五木寛之の夜」は、いい番組だった。小中学生のころ、よく聞いていたものだ。「今日できることは明日に延ばして」は、未だに僕の心に残っている。夜、仕事をしていて眠たくなると、このフレーズをよく思い出す。そして「五木さんも昔、ああいっていたことだし、もう寝るか」と思って寝てしまう。あまり仕事を先延ばしすぎるのもよくないとはわかっているのだけど。それにしてもこの決まり文句、素敵です。

当年もって御年77才。ますます活発な執筆活動を続けていらっしゃる五木さん。いつまでも淀むことなく、転がり続けている。年をとるほどに円熟みを増しつつ、同時に軽やかになられているような気がする。僕も彼と同じ年になるくらいまで、元気に歩き回り、人と会い、考え、訳し、何かを書き続けられたらいいな~と思う。あと40年。そう考えると、人生は長い。五木さんの10分の1でも、僕にロマンとバイタリティがあれば、年をとるのはきっと怖くないはずだ。それは、不可能ではないはずだ。歩き続けよう、考え続けよう。新しいことに挑戦し続けよう。

僕も五木さんのあのセリフと同じような気持ちで、いつもブログを書いています。今日はそろそろ眠ります。みなさま、おやすみなさい。

「深夜の友は真の友と言います。こんな時間に独りで起きている貴方はいったいどんな人なんだろうと思いながらブログを書いています。人生は短く、夜もまた短い。今日できることは明日に延ばして、せめてこの深夜の一時を。限りない友情と共感でおくるミッドナイトメッセージ。イワシの翻訳Loveです」

米を研ぎながら考える、翻訳の「ED問題」

2009年03月27日 22時44分44秒 | Weblog
家のトイレで道場六三郎さんの本を読んでいたら、Youtubeで「料理の鉄人」を見たくなった(この無意識の連鎖が怖い)。よくできた番組だ。けれん味がたっぷりあって非常にプロレス的な匂いがする。裏にどんな筋書きがあるのかわからない。だけどいいのだ。同番組はアメリカでも人気で、『Iron chef America』というアメリカ版もある。ほとんど日本版と同じ作りなのだけど、全編にヒシヒシと「アメリカナイズ」が感じられて、いい。こっちもとても面白いと思うのだが、Youtubeの向こうの人の書き込みをみると、「本家の日本版のほうが断然いい」というような意見も目にする。そんなものなのだろうか。あくせく時間に追われながら、細かい手作業をする。これは日本人の得意技なのかもしれない。それに、日本では料理人はかなり若いころから修業を積む。15で弟子入りして、30歳のときにはすでにその道15年という寿司職人だってざらにいる。だから番組に登場する料理人は相当にレベルが高い。日本に限らず、料理の世界はどこでもそうなのかもしれないけれど。

日本版では審査員に、料理のプロではないいわゆる芸能人が含まれていることも多かったように思うけど、僕の見た限りアメリカ版では料理研究家とか料理ライターとか、そういったプロばかりで審査員を構成しているようだ。この点に関しては、個人的にはアメリカ版のほうに好感を持った。日本では映画の吹き替えの声優に、声優のプロではないタレントを起用したり、スポーツ番組に芸能人が出てきたりする。僕の印象では、少なくともアメリカではテレビ等で、門外漢をプロフェッショナリズムの現場にひっぱりあげるようなことはあまりないように思える。その辺の線引きがシビアなのだ。まあ、料理については一般人がユーザーなわけだから、誰が意見したっていいわけだけど。ともかく、ここにも翻訳の生きた見本がある(テレビ番組の場合は、翻訳というより、ローカライズと言ったほうが相応しいのかもしれない)。

さらにYoutubeのリンクをたどると、外国人の料理家の人が「How to make sushi」みたいなタイトルの動画で寿司の作り方を説明していた。「米は最初にリンスすること。これが非常に重要です」と彼が言う。「米は炊く前に研ぐものである」と知っていることが、外国では大きな付加価値を持つのだ。

同じrinseでも、「研ぐ」とするか「リンス」とするかでは、ものすごいギャップがあるな――、夕食のしたくで米を研ぎながら、そんなことを考えた。それから、つい最近とある人から無洗米をすすめられたことを思い出した。個人的になんとなく抵抗があって無洗米は使ったことはない。甘栗を剥いた状態で売っているのとか、野菜を切った状態で売っているのに感じるのと同じような、過保護さと不自然さがあんまり好きではないのだ。自分の手や頭を少し使えばできることを放棄してまで、便利さにすがりたくはない。なんて、普段は相当にいろんな便利なモノやサービルにお世話になっているくせに、あることに対しては妙にそんな風に気構えてしまう。若いころは、旅行に行くならパック旅行じゃなくて、自分でスケジュールを組んで行きたいと思っていたのだけど、少し大げさにいえば、そんな感じだ(とはいえ、旅行に関してはパックの良さがわかるようになったので、今度どこかに行くならビッシビシのパックにするだろう)。あんまり環境にもよくないんじゃないかと思っていたのだけど、意外にも、無洗米は水を使わずに洗浄されており、家庭用の排水にとぎ汁を流してしまうこともなく、水の消費量も少なくなるので、エコロジーの観点からみるとむしろ通常の米よりも優れているのだそうだ。

ところで、「無洗米」という言葉は市民権を得ているのであまり疑問には感じていなかったのだけど、よく考えてみると変な日本語だ。「洗わずに済む」、「すでに洗ってある」ことを表すのに、「無」を用いるのは微妙ではないだろうか。「無」では「洗っていない米」という意味にもとれる。これはちょっとおかしい。つまり、たとえば「無洗米」の無と同じ原理を「無農薬の野菜」に適用してみれば、それは「既に誰かが農薬をたっぷりと浴びせかけた野菜」ということになるし、「無神経な私」は「既に誰かに神経を十分に使いすぎたので、もう誰にも神経は使いたくないの私」という意味になるのではないのか。

疑問に思ったので、Wikipediaで調べてみると、やはり名称について問題視する声があるらしい。

*****
「無洗米」という名称について、NHK総合テレビの『お元気ですか日本列島』および同ラジオ第1の『ラジオほっとタイム』内のコーナー『気になることば』2008年2月27日の放送にて「『既洗米』と呼んだ方がいいのではないか」との意見が紹介された[6]。だが上で述べたように無洗米は研米されて作られるもので、製法により異なるが最も普及しているBG無洗米は水で洗ってあるわけではない。また同番組内では食品関係での接頭辞「無」の用法に着目し、「無着色=生産者が着色を行っていない」、「無農薬=生産者が農薬を使用していない」であることから、「無洗米」は 「生産者が米を洗っていない」といった意味になるのではないかと指摘している。しかし「無」と同様に否定を表す接頭辞「非」や「不」では「非洗米」「不洗米」と印象があまり良くないことなどから、「洗う必要がない」ことを端的に表す表現の難しさも挙げている。
*****

なるほど。たしかに、「非洗米」、「不洗米」では食欲をそがれる。「不戦敗」と混同される恐れもある(そんなわけないか)。そして、

>「洗う必要がない」ことを端的に表す表現の難しさも挙げている

にも激しく同感する。

翻訳でも、customized ~とか、integrated ~とか、「すでに~された」ということを表す語は、なかなか訳すのが難しい。言いたいことははっきりしてるんだけど、それをぴったり表す言葉がなかなか見つからないのだ。「カスタマイズされた」、「統合された」、とやるのもおかしくはないけど、いかにも翻訳調だから、できれば避けたい。ちょっとモタモタした感じになるし、同じ表現が頻出するようだとうるさく聞こえてしまう。なので、なんとかビシッと名詞で表さなければと、いろいろと工夫しなければならないのだ。こういうとき、訳語として使える「無洗米」みたいな表現がすでにあったら便利なのにと思うわけなのだが、そういうものはめったに存在していておらず、自分で「米を研ぐ」しかないパターンが多い。英語では~edと簡単に表現できる言葉も、日本語に翻訳するのは一筋縄ではいかないのだ。これを、翻訳の「ED問題」と名づけよう。

しかしまあ、米を研ぐというのは不便なようでいて、気分転換にもなるし、手を動かすことでボケ防止にもなる(←みたいなことをいうのはオヤジになった証拠?)。翻訳においても、スマートになれるところは素直にスマートになりつつも、こうした手仕事的な部分も大切にしなければならないとも思う。

そんなわけで、無洗米もいいけど、やっぱり米を研ぐことは人としてとても大切な基本ではないかと、オヤジな私は思ってしまうのである。

ちなみに、この問題についてものすごく深い議論が交わされているページも発見した。いや~勉強になります。よろしければどうぞ

蚊が降りてきた

2009年03月26日 23時30分58秒 | Weblog
仕事は夕方、無事納品しました! 祭りでした。ほぼ徹でした。追い込まれて、アドレナリンがかなり分泌されました。ちょっとした修羅場でしたが、なんともいえない充実感。やればできるじゃないか! この集中力をコンスタントに出していかなくては。

イチローは「神が降りてきた」と言いました。僕の場合は「蚊が降りてきた」くらいのレベルではありますが、深夜ひたすら作業をしていたら、やはり何かが降りてきたような気がしました。あきらめずに頑張ってよかったです。僕もひとつ、壁を乗り越えられたかな? とはいえ、ありがたいことにまだまだ仕事はたくさん残っています。この調子で明日からもがんばります。

ここ2日ほどあまり寝ていなかったのですが、アドレナリンを分泌しすぎたせいか、目がさえて眠れません。なので、夜になってから駅前にぶらっと行ってみました。衝動的にラーメン屋さんに入ってチャーシュー麺を注文してしまいました。それから、驚くべきことに、武蔵境の商店街に「餃子の王将」がオープンしていました。別の店でラーメンと食べたばかりだったので、残念ながら入店はできませんでした。しかし、ものすごい人だかりでした。あたり一帯が、興奮の渦につつまれていました。WBCの決勝戦を彷彿とさせるような高揚した空気が店から発せられていました。最初、「何事か?」と思いましたが、王将がオープンしたことを知ると、周りの人以上に驚きを感じてしまいました。それにしても、王将がオープンしたことがこれほどまでに住民に喜びと動揺を与えるなんて、武蔵境はすごいところです。この町に住んでいて本当によかった。

お腹がいっぱいになったので、書店を2件はしごしました。最後に入った店で、

『最終弁護』スコット・プラット/田村義進訳
『タイタンの幼女』カート・ヴォネガットジュニア/浅倉久志訳

を購入。『最終弁護』は去年から今年にかけて、田村先生のクラスで課題だった思い出深い1冊です。楽しみに読みます。『タイタンの幼女』は未読だったので、これも楽しみです。

そして駅前の古本屋に行き、以下を購入。

『プロレス 至近距離の真実 ~レフェリーだけが知っている表と裏』ミスター高橋
『プロレス 影の仕掛人 ~レスラーの生かし方と殺し方』ミスター高橋
『旅で眠りたい』蔵前仁一

ミスター高橋の本は、おそらく数年前に読んでますが、2冊並んでいたので思わず衝動買いしてしまいました。アドレナリンの分泌がおさまっていなかったようです。

しかしこれまでの僕の傾向からして、たくさん本を買ったとき、真っ先に読んでしまうのは「本命」の本じゃなくて、おまけで買った本なんですよね。ミスター高橋さん(「さん」とつけるのはヘン?)には「おまけ」といったら失礼ですが、今回はかなりの確率で、ミスター高橋の2冊を一気読みしてしまいそうな予感がします...

ichiro がcome through!

2009年03月25日 22時33分03秒 | Weblog
昨日のWBCの余韻も冷めやらぬまま、僕のWBCは今宵も継続中です(涙)。必要なのは、気力、体力、アドレナリン。これから朝まで全力でラストスパートです。大丈夫かな? 最近生活リズムが崩れて自家製時差ボケ状態だったので、明日夕方の納品時間を上手く利用して、早寝早起き生活に戻りたいと思っています。野球の逆転勝ちはいいものですが、生活リズムが朝夜逆転してはいけませんよね。せめて、この逆境を活かさなくては!

ところで「全力で走る」と言えば、僕の毎日の生活に欠かせないスポニチのサイトにあるWBCのコーナーで、試合ダイジェストの動画のBGMのBGMでかかっていた曲がとても気になっていました(文章が長い)。調べてみると、フジファブリックというバンドの『sugar!』という曲でした。いい曲です。

全力で走れ 全力で走れ 滑走路用意できてるぜ♪
上空で光れ 上空で光れ 遠くまで♪

滑走路が「用意できてるぜ」の部分の表現が面白くていいですね。毎日この曲を聴いていたので、ランニングをしていてもつい全力疾走したくなってしまいます。ちなみに、人間、窮地に追い込まれると、アドレナリン全開になって「戦うか、逃げるか」の状態になるそうですね。もちろん今夜の僕には、「逃走する」という選択肢はありません。全力疾走して、闘争したいと思います。

それから、イチローの決勝打のESPNの英語実況放送版の動画を見つけました。雰囲気がたっぷり出てて、いいですね~。すべて理解できるわけではないのですが、英語のスポーツ実況の持つ言葉のリズム、表現がとても好きです。イギリスのサッカー中継も、アメリカのプロレス、ボクシングなどで登場するリングアナウンサーの選手紹介のしかたなどもとても好きで、ついついyoutube探索してしまいます。だから仕事が進まないんですよね。でもまあ、今回のWBCは特別!

君のセンター前を忘れない 

2009年03月24日 22時14分07秒 | Weblog

いや~、WBCの決勝にはしびれました。決勝打となった、イチローの見事なセンター前ヒット。素晴らしすぎます。イチローは今大会ここまで相当の不調。本人も途中で「心が折れそうになった」とコメントしていましたが、僕もずっとハラハラしながらイチローを見守っていました。イチローほどの選手になっても、不調になれば人には言えないほどの苦しい思いをするのだということが伝わってきて、少なからず驚きもしました。人間、誰しも辛い思いをすることがあるのは、当たり前かもしれないけれど。

過去20年近くにわたって、日米でこれ以上ない実績を積み上げてきたイチローですら、数試合、結果が出なければ周りから冷ややかな目でみられてしまう。プロの世界は、人生は、なんと厳しいのでしょう。少しでもイチローを批判してしまった日本のファンは、今日、きっとこころのなかで「ごめん、イチロー」と呟いたはずです。

しかし、イチローを信じて一番打者として使い続けた原監督。素晴らしいじゃないですか。彼も内心は、ハラハラしていたに違いありません。しかし、「男は黙ってサッポロビール」のエートスに従い、原さんはいくらイチローが打たなくても、下手を打とうとはしなかった。イチローを責めることもなく、イチローをスタメンから外すことなど考えてもいないとばかりに、黙ってベンチにたたずんでいた。そして、ホテルに帰ってサッポロビールを飲み続けたのです。イチローは、どれほど原さんの気持ちをありがたく受けとっていたことでしょう。

「センター前ヒットならいつでも打てる」。自他共にそれだけの実力を認められていたイチローも、いったんスランプに陥ってしまえば、その当たり前のセンター前が、打てなくなってしまう。しかし、彼は苦しみ、心が折れそうになりそうだと言いながらも、決して本当に心を折ることはなかった。その結果が、あのセンター前だったと思います。

今日はサッポロビールで乾杯したいところなのですが、実は今こうしてブログを書いているどころではないほど非常に追い込まれているので、祝杯は当分おあずけです。ともかく、日本チームのみなさん、優勝おめでとう!そして参加したすべてのチームのみなさん、すばらしい戦いをありがとう!

決勝が終わって、サムライジャパンには優勝トロフィーが残りましたが、僕には仕事がたくさん残っているようです。今夜も、僕のWBCは続きます!

W わたしは
B 馬鹿
C かも

The days go on and on... they don't end.

2009年03月23日 23時41分15秒 | Weblog
なんのコマーシャルだったかすっかり忘れてしまったのだけど、ずいぶんと昔に「オンがあるからオフがある」っていうコピーのCMがあった。ようは、オンとオフを切り替えろ、メリハリをつけろってことなのだろうけど、僕はこのオンとオフの切り替えが苦手だ。それでも、会社員のときは、一応、仕事が終わるとオフな気分を感じることができた。でも、在宅で翻訳の仕事をするようになってから、ますますこの切り替えの下手さに拍車がかかっている。

つまり、起きている間、ず~っとオン。もちろん、仕事をしていない時間帯もかなり多いし、仕事をしているつもりでもまったく生産性が上がっていない時間帯も多い。なので、「今わたしはオンです」と、声を大にして言えるほどのオンではない。そんなオンは、一日のうちでも数時間に限られる。それでも、最近はとくに忙しいこともあって、家にいる時間のほどんどをパソコンに向かっている。意識としては、ずっとオンが続いている状態だ。こうしてだらだらと仕事をしていると、逆に生産性が落ちてしまうような気がするので、「今日はオフ」、「今はオフ」とはっきりと自分のスイッチを入れたり切ったりしてあげないとよくないな~と思ってはいるのだけど、ズルズルと仕事をしてしまうのだ。

こうなってしまう原因は、仕事が遅い、効率が悪い、キャパ限界まで仕事を請ける、納期ギリギリに照準を合わせてしまう、などなどいろいろとある。つまるところ、やってもやっても仕事が終わらないのだ。しかし、いったん仕事を請けたからには、依頼してくれた方の恩に報いなくてはらない。つまり「恩があるからオンがある」なのである(なんて)。ここ数日はオンな状態がずっと続いていて、ちょっと煮詰まった。辛い。

しかし、オフが必要だといっても、オフな自分が何をすべきなのかもよくわからない。やるべき仕事をすべて納めて、特に何もすることがない状態になったとしても、仕事とちょっと関連のある読書とか、勉強とか、仕事場の改善とか、そういうことをやってみたいと思う。つまりそれは、かなりオン的な意味合いの強いオフだ。だからといって自分が真面目だとか、仕事熱心だとか、そういう風には捉えていないし、義務感でそうしなければと思っているわけでもない。単に無趣味なのかもしれないし、ワーカホリックなのかもしれない。それからやっぱり、仕事が好きなのかも。一日ずっと好きなことをしてろ、と言われたら、本を読んで、ランニングして、ブックオフ行って(オフだけに)、くらいしか思いつかない。

生きていくためには仕事をし続けるしかないのだけど、翻訳はこれだけやっても苦痛には感じない(産みの苦しみはたくさんあるけれど)。それが救いだ。でもやっぱりオフの時間を大切にすることもこれからは考えよう。仕事人である前に、僕は人間なのだから。もっと人間らしい生活をしなければ...。

少しだけ復活

2009年03月22日 18時51分53秒 | Weblog
東京マラソン、盛り上がったようでなによりです。一応私もランナーだからこの大会の話題に敏感になっているのかもしれませんが、それを差し引いても世間は「なぜそこまで?」と個人的に疑問を感じてしまうくらい、大きく注目しているような気がします。誰かに「走っている」というと、かなりの確率で「東京マラソンに出るんですか?」と訊かれます。それだけこの大会の認知度が高いということでしょう(残念ながら私は一度も参加したことはありません)。ともかく、この大会が契機になって、走ることへの関心がもっと高まってくれたらいいと思いますので、世間の注目を集めるのはいいことですよね。参加されたみなさん、お疲れさまでした。

ちなみに私は足の甲が痛くてここ数週間まったく走れなかったのですが、ついに本日、久しぶりに5キロほどジョギングをしました。少々痛みはあるものの、やはりうれしい。汗もしっかりかきました。気持ちいいです。無理しないように、徐々に復活していきたいです。

面白いもので、走っていると必ずと言っていいほど、「おっ」と思うようないいアイデアが1つか2つ自然と頭に浮かんできます。前向きで、やる気がわいてくるようなアイデアです。少々気分が高揚していると、ちょっと壮大な目標を頭に描いたりもします。冷静になったら、そんなの無理だろ~と突っ込みたくなるようなものでも、走っているときはけっこう真剣に考えていたりします。たとえば、突然、「一年のうち数か月(冬場)をハワイあたりの南国で暮らす」という壮大なアイデアにとりつかれ、かなり真面目に実現プランを考えながら走っていたことがありました。これは確かに夢としては美しいものですが、実行するとなると、相当のエネルギーと財力、その他もろもろが必要です。現時点の私にはかなわぬ夢でしょう。でも、すべてのアイデアを実行できるかどうかはともかく、人生、多少は無理したり、頑張ったりするくらいがちょうどいいのかもしれないとも思いますので、楽しいアイデアが心に浮かんだときは、せめて走っているときくらいは真面目に実現を検討してみてもいいかなと考えています。そのうち1つでも2つでも行動に移せたらいい。

ところでWBCの大会方式についてですが、決勝トーナメントだけが敗者復活のない一発勝負というのは、腑に落ちません。せっかく強豪同士の戦いが行われるわけですから、決勝ラウンドもこれまでと同じようにダブルエリミネーションでやってほしかった。日程的に余裕がないのなら、1次、2次ラウンドで実施した1位2位決定戦を削って、決勝トーナメントの日程を確保してほしかったですね。それから今日の朝刊にも出ていましたが、1次ラウンドの勝者2チームが2次ラウンドの同組に入るのは、やっぱりよくない。韓国との5度目の対戦が現実味を帯びてきただけに、余計にそう感じます。もし日本と韓国が決勝で対戦することになったら、さすがに次大会では2次ラウンドの組み合わせルールが変更されるかもしれません。そのためにも、ぜひ日本には明日アメリカに勝ってほしいものです。

これとは別に、寝る前にはいろいろと新しいWBCの大会方式を考えています。しかし相変わらずかなり複雑で現実味のないものなので、私個人の秘かな楽しみとして試行錯誤を続けたいと思います。しかし、もっと有意義なことを考えなくてはいけないですよね。私の人生は、どこに向かっているのでしょうか。

仕事はこれからしばらくずっと忙しくなりそうで、まだまだゴールが見えません。極度の追い込まれ状態にならないように気をつけます。走れるようになった喜びと、WBCの興奮を糧にして、がんばりたいと思います。最近、スポーツネタばっかりですみません。

ベーブ・ルース物語

2009年03月20日 23時24分03秒 | Weblog
WBCの話の続きですが、さきほど、以下のようなニュースを目にしました。引用させていただきます。


米国戦に思い入れあり 原監督
 原監督は、準決勝で米国との対戦が決まり「尊敬できる米国野球に挑戦できる。大変、興奮している」と話した。
 メジャーリーガーとの対決には思い入れがあるようで「わたし自身、メジャーに追い付け、追い越せの中で教育されてきた」と明かす。
 小学生の時に図書館で最初に読んだのが『ベーブ・ルース物語』だそうで「その本を読んで(大リーグに)興味を持った」。長い間あこがれていた戦いが現実になった。(共同)

[ 共同通信社 2009年3月20日 18:58 ]


いい話ではありませんか。数十年前、原少年が読んだ『ベーブ・ルース物語』(このストレートなタイトルが素晴らしい。昭和を感じます)。今、世界の表舞台で日本チームを率いている原監督の心の中に残っている、1冊の本。タイトルまでだして話題にするところに、原監督がいかにこの本から受けた感銘を大切にしているかが感じられます。素晴らしいです。「図書館で最初に読んだ」というのも、それだけ忘れられない強い印象につながっているのでしょうね(それはさておき、「『ベーブ・ルース物語』だそうで」の「だそうで」っていうのは、共同通信社の言葉使いとしては、ちょっと口語的すぎるというか、軽くないですかね(^^;)

Amazonで調べてみると、ひょっとしたらこの本ではないかと思わしき1冊が見つかりました。予想通りといいますか、翻訳本です。もちろん、この本ではないことも十二分に考えられますが、もしこの本でなかっとしても、それが翻訳本、あるいは翻訳された情報をもとにして書かれた本である可能性はかなり高いわけです。翻訳は、ひそかにこんなところでも役にたっているのですね。うれしい限りです。今頃、図書館に眠る『ベーブ・ルース物語』は本冥利につきると思っているでしょうし、その本のなかにある訳文も、翻訳されてよかったな~と思っているに違いありません。

そもそも、日本の野球もベースボールが翻訳されて日本に入ってきたわけです。つまり原監督は、まさに翻訳に青春をささげた、翻訳Loveな人生を過ごしてきたのだったといっても過言ではありません(いや、ちょっと過言ですかね)。「少年時代に読んだ1冊の本が、後の人生に大きな影響を与える」そんな絵にかいたような心温まるエピソードに触れて、わたしも翻訳者のはしくれとして、そして野球と本を愛するものとして、胸に熱いものがこみ上げてくるのを抑えきれません。これからも、少年の記憶に残るようなよい翻訳本がたくさん出版されることを祈りつつ、原監督にエールを送りたいと思います。

スモール イズ ビューティフル

2009年03月20日 19時15分52秒 | Weblog
とてもありがたいことに、最近仕事の打診をいただく頻度が高まってきました。残念ながら引き受けられるボリュームには限度があるので、スケジュールが詰まっていたら、せっかくお話をいただいても断らざるを得ないわけです。

よく言われることですが、翻訳は作り置きができません。大量生産が可能ならば、在庫品として商品を持っていれば、注文が増えれば増えるほど売上もあがるわけですが、翻訳の場合はそれができません。あるいは、たとえばカスタムメイドの楽器とか家具とか、同じく大量生産ができない類の仕事であっても、「数ヶ月待ってもいいからこの人にお願いしたい」、と依頼側から思っていただけるのなら、注文が来たらその分、先のスケジュールに追加すればよいわけですが、翻訳の場合は常に納期がギリギリなので、待ってもらえることはほとんどありません。ですので、いくら今週、瞬間風速的に忙しさが増して打診を断るような状況になったとしても、来週は閑古鳥が鳴いているという可能性だってあるわけです。それだけに、仕事をお断りするのは非常につらいものがあります。

売上を上げるためには単価を上げればよいのではないか、という考えも脳裏をかすめますが、翻訳の場合、仕事の難易度や翻訳者の技量に応じて単価に差をつけるのが難しい側面が多々あります(この問題はまじめに考えると長文になりそうなので今回はスルーします)。もちろん、翻訳者としては単価は高いほうがいいとは思いますが、同時に、個人的に「うまい、はやい、やすい」のサービスを依頼側に提供したい、というポリシーもあります。「まずい、おそい、たかい」と依頼者に思われるようではせっかくこの仕事をやっている意味がありませんし、仕事もリピートで発注してもらえないでしょう。ですので、単価については依頼側の相場で妥当と思われる額を提示いただければ、それに従うつもりでいます。それがあまりにも安いと思えば、別の依頼者からの仕事を優先的に受けるようにすればよいわけです。

ということで、「仕事のクオリティーを高めつつ、いかに速度、処理量をあげるか」が、もっかのところの自分の課題であります。仕事量を増やすには、時間当たりの処理量も高めつつ、仕事に費やす時間自体も増やす必要があります。基本的な技量を高める努力をしながらも、24時間をどのようにすれば効率よく使うことができるか、生産性を上げるために心身のコンディションをどのように維持すればよいのか、ということも問題になってくるのです。

そのためにやるべきことは山のようにあるわけですが、自分の能力、生活スタイル、モチベーション、などなど、どれをとっても一朝一夕に劇的に改善できるようなものではなく、地道に小さな一歩を積み重ねていくしか道はなさそうです。明日からいきなり処理量がこれまでの倍になるなんてことは、まずありえない。なので、0.1%でもよいから、昨日の自分にくらべてよりよい自分になっているように、改善していく。自分の力は急には高まらないけれど、「無駄取り」をすることで、生産性をあげることはできる。小さな力で、大きな成果を目指すわけです。と、結論としては非常にありふれたものになってしまうわけですが、やはりこれはどの業界においても通じるセオリーだと思いますし、手堅く次の塁に走者を進めることを大切にするスモールベースボールの考えにも似て、一発のホームランを狙う大味な野球ではなく、小刻みに1点ずつ追加するような形で、決勝ラウンドに進みたいと思っています。なんだかよくわからない論旨展開ですが。

途中から野球の話になってしまいましたが、今回のWBCにはとても注目しています。日本のスモールベースボールが世界相手にどこまで通じるのか、「原々(ハラハラ)」しながら興味深く見守っています。先の話とは矛盾してしまいますが、WBCに気を取られて自分の仕事量までスモールになってはいけないと思いつつ、ネットでの試合経過の表示をみて一喜一憂している今日この頃なのでした。

タマのドライブ

2009年03月19日 09時34分33秒 | Weblog
昨日の夜8時くらいから、友達の車でドライブに行ってきました。特に目標を定めず、奥多摩方面に向かって出発! 最高到達地点は山梨県の小菅村。帰宅は午前2時でした。車があると、山梨県まで行けるのですね。車に乗っていると、世界の広さを感じます。果てしなく続く道、通り過ぎる家々。日本は広い! そして、僕の日常の行動範囲はあまりにも狭い!

車にはとんと疎い僕なのですが(車はもちろん、免許すら持っていません)、たまのドライブというのはいいものですね。車は自分の人生には縁のないものと思っているのですが、それは実家に車がなかったことが影響しているような気もします。「車のある生活」のなんたるかを知らないので、車がなくてもまったく気にならないのです。しかし、ウチの父親は意外にも50過ぎくらいに免許を取って、それ以来すっかり車派になってしまいました。僕も将来、車が不可欠な環境で暮らすことになったら、乗ることもあるかもしれません。車は電車みたいに乗っているときに本が読めないですし維持費にお金もかかりますから、まあ本当に人生に余裕ができるか(そんな日は永遠に来ないような気もしますが...)必然に迫られるまでは、残念ながら自分の人生には縁がないでしょう。自分の人生に縁があったのは、「愛車でドライブ」ではなく、「徒歩でブックオフ」。なんだかな~という気もしますが、まあ人生の縁にはさからえませんよね。

それにしても、春がかなり近くまで来ているようで、うれしい限りです。

IME 2007を賢く ~事件は会議室で起こった~

2009年03月17日 16時21分57秒 | Weblog
「使えば使うほど馬×になる」と言われていたらしいIME 2007ですが、私もIME 2007ユーザーとして、たしかにそう言いたくなる気持ちもちょっとわかります。仕事柄、一日中IMEのお世話になっているわけですが、思った通りに変換できなくて、イライラしてしまうことも少なくありません。私が遭遇したあり得ない変換の例を挙げれば、それだけで1冊の書物を書けてしまうほどですが(「それだけで1冊の書物が~」と、よく人は言いますが、実際にそれが書かれることはほとんどありません)、たとえば今日も、「かいぎしつ」と入力しようとして「快技質」と変換されるのが何度も続いたため、かなり嫌気がさしました。

訳文中にある変換ミスは、納品物の欠陥を意味するのですから、問題は重大です。もうこんな生活はイヤ! ということで、アップデートは出ていないのかとMSのサイトを調べてみたら、なんと去年の10月にリリースされていました。さっそくインストールしたところ、「会議室」は無事に変換され、IME向上委員会による定例会議も無事終了いたしました(なんて)。賢くなったIMEは今のところとても快適で、こちらの思い通りに変換してくれるその様はまさに快技と呼びたくなるほどです。

しかし、私も問題です。そんなに重要なことなら、もっとはやく調べておけと自分につっこみたくなります。賢くなかったのはIMEだけではありませんでした。

まだの方は、変換精度、学習機能を改善した修正プログラムを適用されることをお勧めします。


寝る前に、いつも考えてしまうこと

2009年03月16日 19時24分54秒 | Weblog
開催中のWBC(ワールド・ベースボール・クラッシック)に注目している。二次ラウンドに進出した日本、初戦のキューバには意外にも完勝だった。次はまた韓国が相手だ。このまま勝ち進むと、韓国とはあと3回戦う可能性がある。もしそうなったら、大会全体を通じて5度の対戦になる。それはそれでドラマチックではあるけど、いくらなんでも多すぎないだろうかという気もする。それをさけるためにも、一次ラウンドの勝者2チームは、二次ラウンドで別の組に入ればいいのにと思う。会場があらかじめわかるように、運営面を優先させているのかもしれない。

これだけ同チームの対戦が多くなるのは、大会で採用されているダブルエリミネーション方式の結果だ。前述したようにグループ分けの関係で同じ組み合わせが頻発しやすいという気になる点はあるものの、それを差し引いても、僕はこの方式がとても気に入っている。単純に説明すると敗者復活制で、4チームでトーナメントを行い、2回負けた時点で脱落するというもの。さらに次ラウンドに進んだ2チームの間でも順位決定戦があるからちょっと複雑だ。なにより、このダブルエリミネーション方式だと、消化試合がひとつもない。これはなかなか画期的である。

これが4チームによる総当たり戦だった場合、勝ち抜きが決まったチーム、または敗退が決まってしまったチームも試合をせざるを得ず、モチベーション的なバランスや公平生がうまく保てない。僕は、サッカーのワールドカップ本大会の予選グループなんかにも、いつもこの不条理を感じていた。いきなり決勝トーナメントが一発勝負になるところも腑に落ちないし。

実は、僕は小さい頃からスポーツやゲームのトーナメント方式のしくみを考えるのがとても好きで、もうかれこれ何年になるのかわからないけど、夜、蒲団に入ってから眠りに落ちる寸前まで、架空のスポーツの大会をどのような方式で開催すればもっとも面白くなるか、ということを考えるのが習慣になっている。眠れない人が、羊を数えるみたいな感じだ。たぶん小さいころに好きだったプロレスの大会や高校野球、それから『ドカベン』なんかの影響だと思う。強い者同士が一回戦で当たってしまったりという、トーナメント方式が持つダイナミズムと不公平の美学に魅了されつつ、「この不条理をなんとか是正しなくては、そしてもっと面白い大会にしなければ」と思ったのが原点になっているような気がする。そういえば、Jリーグの大会方式については、数年前、自分が考案した方式を採用すべきだといって、ネットであちこちにアピールしていたこともあった。もちろん、採用されなかった。当時の僕は、K渕チェアマンはわかってないとかなり激しい憤りを感じていたのである。

というわけで、夜、目を閉じてからはいつも、いろいろな大会を夢想している。ワールドカップの予選方式を根本から変えることももうしばらく考えているし、まったく現実味はないけど、欧州各国vs.欧州以外の各国のサッカーの対抗戦についても相当考え続けている。たいていは途中で眠りについてしまうので、なかなか最終案が完成しないし、一応これでいいかなと思っても、すぐにつまらなくなってまた新しい条件を追加したりするので、この作業には終わりがない。たまに眠れなくなると、電気をつけてノートを開き、実際にトーナメント案の図を書いてみたりする。何やってんでしょうか私は。それから、サッカー以外にも、野球や格闘技の大会を想像することもある(ところで、どんな人にも、寝入りばなにいつも夢想することってあるのだろうか?)。

寝る間際のほんの少しの時間とはいえ、もうちょっと実生活に役立つことを考えたいとは思うのだけど、この大会方式を考える時が一番楽しく、眠りに落ちやすいので、結局いつもほとんど同じようなことについてあれこれと想像を働かせているのである。なんという無駄な人生であろうか。とはいえ、1つとても出来のいい未発表のワールドカップ大会方式案があって、自分のなかにしまっておくのはもったいないから、いつか発表しなければ、と思いつつ、かれこれ20年くらい虎の子の案を温め続けている。温めすぎだ。

それだけに、今回のWBCでのダブルエリミネーション方式が持つ無駄のなさには、かなり惚れこんでしまった。なんという美しさ。誰が考えたのかは知らないのだけど、その人にとても大きな共感を覚える。4チーム総当たり制が持つ不条理さが許せなかったその人が、この数年間、寝る前にずっと新たな案を考え続けてきた結果、編み出した方式なのではないだろうか。


父より荷物来りなば、春遠からじ

2009年03月15日 19時11分23秒 | Weblog
父親から荷物が送られてきた。

手紙とお菓子。雑誌と書籍が合わせて10冊ちょっと。Jリーグの今年の選手名鑑、元日本サッカー協会会長の長沼健さんの著作。料理の本、ランニングの本、ビジネス関係の雑誌が数冊。金原瑞人さんの新しいエッセイ『翻訳のさじかげん』もある。手紙には、元気な暮らしぶりが伝えられている。元旦からずっと早朝の琵琶湖周辺散歩を続けているそうだ。よかった。僕も父親のように、勤勉かつ健康に頑張らなくては。それにしても、大量に本を買い込む、その買いっぷりに自分とすごく近いものを感じる。やはり僕は父親の血を引いているのだ。小さい頃から、いつもたくさん本を買ってくれた。父親がおみやげに買ってきてくれた本をもらうとき、とても嬉しかった。そのおかげで、僕は本が好きになり、こうして言葉に関係する仕事をさせていただいているのだ。あらためてそのことに気づく。感謝をしなければ。

先日出版された、僕が翻訳を担当させていただいた本を1冊送ったら、さっそく5冊買ったと書いてあった。無理して買わなくてもいいと何度もいったのに。それから、今日がマラソン当日だと知って、気にしてくれていたようだ。残念ながら今回はレースは不参加にしたのだけど、10月にとある大会に参加するつもりだから、その時こそ、元気に完走してそれを報告してあげたい。親というものは、どうしてここまで際限のない愛情を子供に与えてくれるものなのだろう。受け取った愛情は、返さなくてはいけない。返したい。つくづくそう思う。

今日は天気がよかった。父親の手紙にも書いてあったけど、暑さ寒さも彼岸まで。もうすぐ春分の日なのだ。父親が働くお惣菜屋さんでは、母親が書いた桜のイラスト入りのPOPが、満開だそうだ。