イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

突発的!

2008年02月29日 23時37分26秒 | ちょっとオモロイ
朝フイに降りる駅変えてみて春の街駆け抜けてみて 遅刻

朝ダラダラしていたら、家を出るのが遅れた。駅まで全力疾走すればいつもの電車に間に合うかもしれないけど、そうとうの速度で走り続けなければいけないということを想像して、諦めた。で、次の電車には間に合うかと高を括っていたら、時間を勘違いしていて、その電車も寸前で逃してしまった。結果、いつもより2本遅い電車に乗る。いつもの電車でギリギリ間に合うくらいなので、これでは明らかに遅刻だ。まあ、ちょっとくらい遅れてもとやかくいわれるようなキリキリした会社じゃないから(いい会社なのです)、別にいいといえばいいんだけど、なんとなく自分が許せない。と、苦虫を噛み締めていたら、いつものように中央線が通勤特快の待ち合わせのために三鷹で止まった。

突発的に、考えた。この中央特快に乗って新宿まで行って、西新宿の会社までダッシュすれば、丸の内線で行くより、少しは早く会社に着けるかもしれない。会社帰りに、飲みの待ち合わせの新宿にダッシュすることはある。結構早くいける。10分、かかるかかからないくらいかもしれない。朝は初めてだけど、これも賭けだ。やってみる価値はあるかもしれない。この間、数秒。気がつくと、突発的にダッシュして、扉が閉まる寸前の通勤特快に乗り込んでいだ。1年通っていて、新宿経由で会社に行くのは初めて。人生、何事も挑戦。僕の場合、挑戦することで結果的によい結果を得ることが多い。あれこれ考えているうちに、新宿の超高速ビル群が見えてきた(マンハッタンみたいでカッコいい)。電車が止まったら、ダッシュ開始だ。

人混み掻き分け走る主役気取りで

ダッシュ。ちょっと道に迷いながら、走る。ヲイヲイ、やっぱり結構遠いな。失敗したかも。そう思いながらも、いっそうスピードは加速する。たぶん今、人が見たら僕はものすごい重要な表情をして走っているのだろうけど、別に大したことない。10分やそこら会社に遅れるかどうかの違い。たぶん会社でも、誰にも気にされてない。10時から特別な用事があるわけなじゃいから、別に何にも仕事には影響ない。そもそも、今、そんなに真剣に走るくらいだったら、朝家でダラダラ~っとしてなかったらよかったのだ。と、内心思いつつ、いつのまにか刑事ドラマの主人公気取りで走っている。いつかの映画のラストシーンみたいな気分。ああ、俺って一体......。

集団で歩いているのは、都庁の職員か、大企業のサラリーマンか。よくわからないけど、そんな彼らを軽快なステップでかわして、走る。走る。僕が遅れたら、国家的プロジェクトに影響がでちゃうんだよ、みたいな顔して(アホ丸出しですな)。今日はたまたまスーツ着ていたから、知らない人が見たら、都庁の職員だと思うかもしれない、なんてことも頭をよぎる。いや僕は都庁の職員じゃないんですよ、てな顔をしつつも、意外と、都庁職員も辛いぜ、慎太郎がさ、みたいな気にもなる。妄想は止まらない。ああ、やっぱり自分がなんだかよくわかりません。

都庁職員にまぎれて朝を行く
都庁職員の顔して朝を行く
都庁職員のフリして嘆き顔
都庁職員のフリしてセレブ顔

結局、16分遅刻。丸の内線乗ったほうが、早かった? 汗ダラダラ。でも、春の気配を感じさせる新宿を走れてなかなか楽しかった。マラソンの練習にもなった。やっぱり新宿は刺激的だ。定期、新宿に買い替えようかな、ってマジで思ってるのです。うるう年のおまけみたいな日。なんだか、ヘンだ今日の僕は。

そして、突発的な言動は、まだまだこの日一日続いたのであった。でも、割愛します。恥をさらすだけだから。

突突突突突突突突突突突突突突突

『シモネッタのデカメロン』田丸公美子
『ディズニー七つの法則』トム・コラネン著/仁平和夫訳
『田中康夫のソムリエに訊け』田崎真也×田中康夫
『馬鹿な男ほど愛おしい』田口ランディ




欲しがりません、カツだけは

2008年02月28日 23時47分17秒 | ちょっとオモロイ
おかわりは君の前では一度だけ

昼休みによく行くとんかつ屋さんは、ごはん、蜆のお味噌汁、キャベツの千切りのおかわり自由がなのである。だから、お腹いっぱい食べたい、という日には勇んでこのとんかつ屋さんにいく。いつも決まってロースカツ定食を頼んで、必ずごはん、味噌汁、キャベツをおかわりする。何べんもお店の人を呼ぶのは悪いから、一度にまとめておかわりする。ものすごい充実感がある。ふだんジャンクなものばっかり食べているから、キャベツとしじみがやけに美味しく、体にずっしりと、しかしやさしく効く感じがする。しかしさすがに、ごはん二杯目のおかわりはしない。さすがにそれは大人のエチケットでしょう。カツレットでしょう。そもそも、とんかつは六、七切れくらいしかないから、三杯食べようとしたら、とんかつ約二切れでご飯一杯食べないといけない。そうすると、とんかつを味わって食べているというより、目標のご飯三杯を食べるために、どうやってとんかつ一口あたりのご飯消費率を高めるかという視点に切り替わってしまって、なんだか食事自体が味気ないものになってしまうのだ。ましてや、あの人が目の前にいるとなれば、さすがに大人な僕はさりげなくおかわりは一杯まででやめておこうと思うのである(無論、現実には「あの人」なる人は目の前にいない。彼女は、僕の妄想上の人なのである)。

ところで、おかわりは自由といわれると、逆にちょっと困る気がする。自由にして、といわれると、こっちだって心の準備をしなくちゃいけないじゃないですか。そのくせ、ウェイターはみだりに客におかわりをさせてなるものか、と思っているのかいないのか、とにかくなかなか目を合わせてくれないのだ。大声で「おかわりください」なんて呼ぶのもかっこ悪いし、かといって、おかわりするつもりですでにカツを半分残してご飯は平らげてしまっているし、このまま引き下がるわけにもいかない。どうすればいいのだろうか。しょうがないからウェイターを捕まえるまで、ご飯、味噌汁、キャベツの「シーズン1」を食べ終わり、カツだけ半分残して、じっとその場に座り続ける。

「おかわりは自由」と言ったわりにその後目を合わせてくれずウェイター

ひょっとすると、「おかわりは自由ですよ」というのは、おかわりなんてするのはお前の自由だよ、そう言うのはお前の勝手だよ、という意味だったのかとすら思ってしまう。だけど俺だって自由だよ、お互い好きにしようよ、とかなんとかいう、ものすごい自由な発想なウェイターだったのかもしれない(そんなわけないか)。それにしても、こっちの気も知らずに、奴はずいぶんと気ままじゃないか。奴は、遠くを急がしそうに行きかっている。新しい客の相手で慌しい、その多忙な奴を、俺はおかわりのために呼び寄せていいのか……俺はどうすればいいのだ。

「おかわりは自由ですよ」と言い残し俺を置き去る自由なウェイター

ともかく、なんとかおかわりを頼んだ。うん、美味しい。でも、やっぱり「おかわりは自由」っていい言葉ですね。ものすごく優しい言葉ですね。なんというか、懐が深いというか、気前がいいというか、無償の愛という感じがしますね。そもそも、おかわりは自由って、いろんなことを意味している言葉のような気もします。あの人にもし「おかわりは自由よ」って言われたら、どうしたらいいのでしょう。

「おかわりは自由」その台詞今夜君の口からもう一度聞かせて

しかし、とんかつだけはさすがにおかわりはさせてくれない。そこが商売。それは肝。さすがに客である僕たちも、とんかつおかわりさせてよ、とは言わないし、思わない。そのあたり、商売人と客との間にしっかりとしたコンセンサスが形成されている。江戸の時代から連綿と続く、粋の文化がこれだ。ご飯も、お味噌汁も、キャベツも、食べれるだけ食べれる。それは店の優しさだ。客もそれに甘える。だけど、カツだけは譲れない。そこに、店の維持とプライドがある。伊達に、とんかつ屋の看板を掲げていない。母性と父性。懐の深さと鉄の厳しさ。この二つを同時に垣間見せてくれる店、それが僕にとっての、あのとんかつ屋さんなのだ。でも、あそこに行くと、太るンだよな~。

腕の立つ翻訳者になるために

2008年02月27日 23時41分55秒 | ちょっとオモロイ
あの人に腕立て伏せ見つけられ

仕事に疲れてくると、一日に二、三回、何気ない顔をして会社の非常階段の踊り場に行き、誰もいないその場所でこっそり腕立て伏せをする。休日は家でやる。ランニングのときも、折り返し地点の公園で、儀式的にプッシュアップする。デスクワークの身には、最高の気分転換だ。ストレッチして、骨ポキポキ鳴らせて、おもむろに腕立てする。腹筋も、背筋も、スクワットも、やるにはやるけどあんまり継続しない。なぜか腕立てが一番自分に合っているのだ。そしたら今日、腕立てをしているところを、気になるあの人に見つかってしまった。

なんていうのはウソだ。でも、腕立てなら誰かに見つかってもまだなんとなく格好がつく。これが腹筋とか背筋だったらなんというかちょっとした息抜きにしてはアスレチック過ぎるし、スクワットだとマッチョ過ぎる。ブリッジをしていたら卑猥過ぎる。とは言え、スクワットをしているところを後ろからあの人にこっそりと見られているというのもそれはそれでそそられるものがある。

あの人にスクワット見つめられ

あるいは、あの人にいつのまにかスクワットの回数を数えられていた、なんてこともあるかもしれない。席に戻ったら、「二百回連続でスクワットやるなんてすごいですね」なんてメッセンジャーが飛んでくるかもしれない。

あの人にスクワット数えられ

ちなみにあの人というのは、なんというか妄想の世界の人だ。現実には、そんなドラマチックなことはない。夏場、踊り場の扉が開いているときに、腕立てしていたら宅急便のおっさんと目が合ったことがあったけど、そんなもんです。なるべく内側からは見えないように、隅っこでやっているので、おっさんには、地面スレスレで上下する僕の顔しか見えなかったはずである。不気味に思われたかもしれない。

宅急便のおっさんに見てみぬフリされ踊り場の腕立て伏せ

腕立て伏せって奥が深い。何回やっても底が見えない。ものすごく単純な動作の中に、全身の筋肉を鍛えるためのすべてのトレーニング要素が備わっている(なんてもっともらしいこと言いつつ、実はそれほど詳しくしらない)。腕相撲とか、槍投げとか、輪投げとか、その動作自体はものすごくシンプルでも、それを極めるのはものすごく大変だと思われる競技があるけど、それと同じものを腕立て伏せに感じる。シンプルなものだからこそ、極めるのは難しいのだ。僕はそれを「腕立て伏せ道」と呼びたい。しかも、いつでもどこでもできて、タダ。これは人生の宝物です。普段はめったにマジマジと見ることのない床や地面に顔面を近づけて、大地を両手で掴んでプッシュアップ。地球を身近に感じることができる。

自分ではなく地球を持ち上げろ

たとえば一日三十回腕立てをするとする。すると、一年で約一万回。けっこうな数になることに驚く。一日十キロ走れば、一年で三千キロ。誰かを十分訪ねていける距離だ。原書を一日三十ページ読めば、一年で一万ページ。これも凄い。ぜひやりたい。なんでもできる。毎日、英単語三十個覚えてもいいし、一冊文庫本買うのでもいいし、やっぱり初心に戻ってスクワット三千回やってもいい(新日本プロレスに入団したら、そのくらいはやらされるのだ)。極めつけは、一日に三千ワード訳して一年で百万ワード翻訳。よ~し、やってやろうじゃないのさ!! ともかく、怠惰な精神と肉体に渇を入れるためにも、腕立て伏せ。頭と体の筋肉を鍛えよう。腕立て伏せをするにつけ、椅子に座ってじっと翻訳してるより、こういう風にせっせと体動かしてる方が性にあってるのかな~、なんてことをちらりと思いつつ。

腕腕腕腕腕腕腕腕腕腕腕腕腕腕

『The Informant』Kurt Eichenward
『Striptease』Carl Hiaasen
『昼顔』ケッセル著/堀口大學訳
『ミステリーの書き方』アメリカ探偵作家クラブ著/大出健訳
『わるい愛』(上下)ジョナサン・ケラーマン著/北澤和彦訳
『シャーロック・ホームズ 東洋の冒険』テッド・リカーディ著/日暮雅通訳


西新宿の滝に打たれて

2008年02月26日 21時52分55秒 | ちょっとシリアス
「新宿ナイアガラの滝」の前で立ち尽くす何でもない散歩のはずが

昼休み。ご飯を食べたらすぐ会社に帰るつもりだったのだけど、なんとなくそのまま引き返す気になれなくて、帰り道とは別な方向に進んでしまう。そのまま西新宿をぶらぶらと歩く。これまでに歩いたことのない道を歩くのが好き。だから、知らない道を選びながら行く。気がついたら新宿中央公園の近くにいた。せっかくだから公園の中に入ってみる。よく考えたら、こんなに近くあるのに、園内をゆっくりと見て回ったことはなかった。思ったより大きい。どこまで続いているのだろう。てくてくと歩いていく。いろんなことを考えながら。新宿という土地柄だけに、昼休みに公園をうろついているのは、ちょっと得たいの知れないおっさんとかサラリーマンがほとんどだ。一服したり、ぼけっと座っていたり。若い会社員風のお兄さんが、放心状態でベンチに座っている。会社、大変なんだろうな、と思う。

突然視界が開け、人口の滝が現れた。少しだけびっくりした。こんなの、あったんだ。滝の前まで行って見る。かなり大きい。なんとなく懐かしくて、レトロで垢抜けなくて、でも水が激しく目の前を落ちていくので、本当に自然の滝の前にいるような気もする。「新宿ナイアガラの滝」というらしい。冗談とも本気ともつかない命名。周りを見渡せば、昭和な昼休みって感じがすごくする。夏場だったらもっと気持ちいいんだろう。思わず、しばし滝に見とれてその場に立ち尽くす。思うことは、たくさんある。歩きながら考えるのも好きだけど、こうしてじっと立ったまま考え事するのも、また頭の違う部分を使っているような気がして悪くない。それにしても、つい近所にご飯食べに来ただけだったのに、ずいぶん遠くまで歩いてしまった。ずいぶんと考え込んでしまった。

見上げると、都庁がある。でっかいビルだ。この建物には思い出がある。東京に出てきたばかりのころ、何かの用事で新宿まで来て、初めてこの都庁のビルを見た。そのとき、僕は無職だった。翻訳関係の仕事を探して、右往左往していたけど、なかなかよい職にありつけなくて、とても辛い日々を送っていた。それまでの人生がすべて否定されたような気がすることもあった。とんでもないミスを、過ちをしてしまったという気分もした。夢を持って東京に来たはずが、とことん打ちのめされて、すっかり自信を喪失していた。生きていること自体が辛かった。そんな自分にとって、都庁ビルはとてつもなく大きく感じられた。世の中とか、まともな人たちとか、そういったものの象徴のように思えた。こんな凄いビルのなかで、毎日仕事をしている人がいるなんて信じられなかった。そこで働く人たちが、もの凄く幸せそうに見えた。

無職の眼に都庁高く聳え

その後、なんとか翻訳業界で仕事を見つけて、僕は働き始めた。そして、今日も働いている。都庁のビルをみると、いつもあの日のことを思い出す。もう今は、あそこで働いている人たちのことを、うらやましいとは思わない。大きなビルの中で働きたいとも思わない。ただ、自分の本当にやりたいことをしたいと思う。己の道を進むだけだ。細く険しい道かもしれないけれど。

クリシェの神様

2008年02月25日 22時52分36秒 | 自薦傑作選
サッカーのゴールキーパーを一律に守護神と呼ぶな点取られるから

(解説)いつのころからか、「守護神」がゴールキーパーの枕詞になってしまった。どのチームでも、誰がキーパーでも、そこにキーバーがいれば、それは守護神。代表クラスの選手でも、ルーキーでも、とにかく守護神。前の試合で5点取られてても、トンネルしてても関係ない。なんにせよ、手袋をはめてゴールマウスの前に立っていれば、たぶん、それは守護神。今、草サッカーでも少年サッカーでも、キーパーは一律に守護神と呼ばれているはず。いっそのこと、日本語ではキーパーの正式名称を守護神にしてしまったほうがいいんじゃないかと、日本サッカー協会に提言してみたいと思ってしまうくらいだ。

最初、この言葉がサッカー中継で登場し出したときは新鮮だった。なるほど、守護神か。うまいこというじゃないか、と思った。ちょっと感動すらした。だけど、こうも毎回毎回繰り返されると、さすがに言葉は陳腐化してくる。だんだん耳にタコができてくる(陳腐な表現)。そしていまではこの言葉、僕のなかですっかり手垢のついた、新鮮味を失ったものになってしまった。本来はほめ言葉のはずが、むしろ試合前の選手紹介で「今日の日本のキーパーは守護神、誰々です」とアナウンサーが口走ったとたんに、なんとなく点取られそうな予感が倍増してしまう。縁起が悪いとすら思ってしまう。神がかりのスーパーセーブを連発するキーパーのことを賞賛して使うべきはずだった言葉が、あまりにも容易に使われてしまうようになったことで、ついにはチープなクリシェに成り下がってしまったのだ。うん、ニッポンの守護神は確かにヨシカツだ。だけど…….。

守護神と言ったとたんに点取られ

同じことが「司令塔」にもいえる。最初、これもすっごく格好いい言葉だった。それが、やっぱりずいぶんと色あせてしまった。本当にすごい選手を指して使うんだったらまだマシに響くけど、そうでもない選手に使うとき、もはや僕には司令塔なんだか管制塔なんだか金平糖なんだかよくわからない、無機質なイメージしか浮かんでこない。守護神にしても司令塔にしても、そうした何の創意工夫も見られない表現の氾濫の根底にあるのは、言葉を選ぶことに対しての怠惰な精神にほかならない。それでもアナウンサーは今日も恥ずかしげもなくクリシェを口にする。試合前、聞いているこっちが恥ずかしくなるくらいの凡庸な表現でイレブンが表現されていくとき、そこに勝利の女神の存在を感じることはできない。そこにいるのは、おそらくクリシェの女神だけだ。

ためらいもせずに「守護神」口にするアナの背後にクリシェの神様

223センチの大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントを称して、「一人民族大移動」「人間エクゾセミサイル」「現代のガリバー旅行記」と毎週オリジナリティにあふれた形容詞を連発していたプロレス実況時代の古館伊知郎がすごかったのは、毎回これまでとは違う言葉を使ってやろう、たえず新しい言葉で対象を捉え直してやろうとする鬼気迫るほどの探究心だった。自らが生み出した豊饒な言葉のワンダーランドすらからも逸脱し、逃走しようとする飽くなき言語表現への追求。当時、彼の言葉は、黄金期の只中にあってまさにまばゆいばかりに光り輝いていた、多士済々の、海千山千のレスラーたちの、さらに一歩先を行っていた。当時の言葉を拝借するならば「全国三千万人のプロレスファン」にはあえて言うまでもないことだけど、古館の実況は間違いなくあの最もプロレスが熱かった時代のプロレスを、強力に、強力に牽引していたものの1つだった。そう、言葉は時代を変えられるのだ。

藤波の掟破りの逆サソリこらえた長州バックドロップ

翻訳の世界はどうか。残念ながら、ここにもクリシェの神様がいる。彼女は、どっしりと構えている。クリシェ大明神が鎮座しておられる。守護神と司令塔がウヨウヨしている。気をつけなければ「原文がこれだったから訳文はこれ」みたいな安直クリシェ訳の嵐が吹き荒れるのだ。厳密にはこれらはクリシェとは言わないのだけども、たとえばIn factとくれば「実際」、Note thatとくれば「留意してください」、In other wordsとくれば「換言すれば」、そしてHoweverと書いてあったから「わたし迷わず『しかしながら』にしました」、みたいな訳が多すぎる。自分もそういう訳を作ってしまいがちなのだから、クリシェ的に言えば自分のことは棚に上げて、あるいは天に向かって唾吐くことになるけど、ぶっちゃけた話、そんなものヌケヌケと納品してくれるなと思う(まあ、そこまで言うことないんだけど)。

原文に「However」と書いてあったから迷わず「しかしながら」と訳して納品

たしかに、こんな訳し方は間違いではない。むしろ、不用意に外してはいけない定石だと考えることもできる。慎重に訳すことは大事だ。自分の意見を訳文に込めすぎないのも大切だ。ヘタな意訳はケツの青い奴のやること。それはその通り。だが、大事なのは、それを破ることの許されない不文律と頭から決め込んでしまっているのか、それとも、表向きは神様の教えに従うよい子のフリをしていながらも、チャンスさえあればいつだってそこから逸脱してやると機会をうかがっている荒ぶる魂を持っているかどうかの違いなのだ。苦しみながらも、苦し紛れでもいい、守護神なんて言葉毎回使ってたまるか、他の言葉、出てこいや、と思える根性があるかどうか。そこが大事なのだ。

いつだって逸脱狙え苦し紛れでもずいぶんマシさクリシェまみれより

そしてそんな精神がない限り、おそらく凡庸なキーパーは今日も変わらず凡庸な誰かに守護神と称され、そして守護神らしからぬ失態で失点を重ね、凡庸なチームは凡庸に敗退していくことになるのだと思う。どうみたって、そこには神様はいない。神様が泣いてるよ。やっぱり、それじゃつまらない。言葉に生命を、もっと光を。本当の言葉を探しにいこうじゃないか。

守守守守守守守守守守守守守守守守守守

『B面の夏』黛まどか
『聖夜の朝』黛まどか
『フランス三昧』篠沢秀夫
『都市の遊び方』如月小春
『アメリカ合衆国』本多勝一
『好きになったら読む本』藤本義一


納得の人生、あるいは俺についてこい

2008年02月24日 09時06分58秒 | 自薦傑作選
納豆と卵で熱いご飯食べ お前と一生やっていけるかも

(解説)納豆が好きだ。ほぼ毎日食べている。納豆そのものの風味を味わいたいから、タレをつけずに食べることも多い。塩っけがまったくなくて、離乳食みたいな味がする。超スローフード。でも食べ方は超ファースト。小腹がすいたら、冷蔵庫から納豆を取り出しパックから直接食べる。冷蔵庫の前で、立ったまま食べる。カメレオンが舌を伸ばしてハエ捕まえるみたいに。混ぜもしない。混ぜた方が美味しいのだけど、混ぜない。面倒くさいのだ。正直、タレをかけないのは、タレの袋を開けるのが面倒だっていうのもある。塩分控えてるのは事実だけど。噛むのも面倒。だから、ほぼ飲み込む(人間、落ちるところまで落ちるとこうなります)。

たまに自分で弁当を作って会社に持っていく。浮いたお金を、ブックオフ代に回すためだ。おかずはあんまり上手く作れないから、ご飯だけ持っていくことも多い。そんなときは、会社の近所のスーパーで納豆を買い、それをおかずにして、真っ白な弁当を食べる。見る人が見れば哀れみの涙を誘うようなランチなのかもしれないけど、僕にとってはとてもゴージャスな昼食だ(ちなみに、隣の席の女性は、白銀の世界のように真っ白な僕の弁当のことを「シュプール弁当」と表現した)。

卵かけご飯というもの僕のソウルフードの一つだ。卵にしょうゆを垂らして、ご飯にかけて食べる。熱いご飯も美味しいけど、冷や飯だって好きだ――冷や飯を食わされることには、いろんな意味で慣れている――。で、納豆があるときは、卵と納豆のコラボレーションを実現させる。納豆に卵をかけ、あるいは卵に納豆をかけ、このときばかりは塩分も気にせずしょうゆをちょっと多めにかけ、そのまま飲み込むこともあるし、ご飯にかけて食べることもある(ちなみに牛丼にも、卵をかけて流し込むようにして食べるのが大好き)。これが、最高なのだ。何回食べても飽きない。生まれてこの方ずっと食べ続けて飽きないのだから、死ぬまで飽きないだろうという確信がある。最近、人生が残り少なくなってきたからなのか(よく噛まないから早死にするだろう)、日増しにこの確信は強まっている。もちろん、この世界に絶対はないのだけど。

何にせよ、お前となら一生やっていける、と思えるものが身の回りにあることは幸せだと思う。そんなものを、今からでもいい、小さくてもいい、ひとつでも多く見つけられたらいい。翻訳よ、お前もずっとそばにいてくれ。お前となら、死ぬまで一緒にいられるよな。そして…….。

あるいはこうも言える。一瞬で消えていくもののなかにも、――あるいは、なかにこそ――、この世界の真実があり、美しさがある、と。人生は一筋縄じゃいかないから、「いつまでも続かない」と心のどこかで思っていながらも、その対象と関わらなくてはならないときもある。むしろ、そんな一過性のものに囲まれ、翻弄され、流されていくのが人の世なのかもしれない。好きなものだけに囲まれて生きていけるとは限らない。長年人間をやっていると、たとえば不条理だったり、苦虫だったり、悔し涙だったり、そんなものたちは、いくら経験を積んで賢くなったとしても、やっぱり目の前からすべて排除することはできないものなんだということがだんだんわかってくる。もし排除できたとしたら、よっぽど人間ができているか、あるいは偽の人生を生きているかのどっちかだと思う。人は、自分に配られたカードがあまりにも貧困であっても、そうか、そうだよな、といつしか納得しながらゲームをすることを覚えていくのだ。……納得。

そして幸せなことに、ぼくは翻訳という道を選んだことに、とても納得している。翻訳よ、俺についてこい、あるいは、翻訳さん、あなたの後ろをどこまでもついていきます。

そう、納得。さあ、……納豆食おうか。

彼女牛丼運んでるとき、ホットなけんちん汁オーダーに入ってなかった

2008年02月23日 22時58分55秒 | ちょっとオモロイ
固唾のみ男ら見守る中国の彼女が運ぶ牛丼はどこへ

(解説)吉野家。店に入って、適当な場所に座る。しばらくして、普通とはちょっと空気が違うことに気づく。カウンターで働いているのは、中国人の女性だった。まだ仕事を始めたばかりなのだろう。慣れていないのか、上手く客を捌けていないのだ。カウンターにずらりと座って待っている野郎どもは、沈痛な面持ちをしている。頼んだはずの、牛丼がなかなかこない。彼女、大丈夫か? みたいな無言のメッセージが空間を飛び交っている。

かまわない。いい人ぶるわけじゃないけど、僕はこういうの気にしないたちだ。豚丼並を頼む。彼女は必死に注文を確認して、厨房の男性にそれを伝えにいく。すぐに新しい客が入ってくる。しかも数人まとめてどかどかと。食事を終えた客は帰ろうとするし、出来上がった牛丼は持っていかなくてはならないし、こういうときに限って、持ち帰りでひとまとめに注文しにくる人もいる。彼女は、ちょっとしたパニックに陥っていた。でも大丈夫。がんばれ、慌てずにやればいい。死にはしないさ。彼女は牛丼を客側まで運んでくるのだが、果てそれを誰に渡せばいいのかわからないようだ。ウロウロして迷いながら、結局違う客のところに間違って持っていってしまい、迷惑そうに首を振られる。ようやく正しい客がわかる。その輩は、いつまで待たせるんだみたいな憤懣やるかたない顔をして牛丼を待っている。隣の客が、苦虫を噛み潰したような顔をして、「けんちん汁まだ?」とつぶやく。

中国人の女性は、汗をかきながら、右往左往している。僕が豚丼を頼んだ直後、2人ほど別な人も豚丼を頼んだ。しばらくして、彼女が豚丼を運んできた。僕たち豚丼組3人は、ちょっとハラハラする。頼んだ順番からいけば僕のところにくるはずだけど、彼女、わかってくれてるかな。飛ばして別な人に渡っちゃってもかまわないのだけど、その人だって迷惑だろうな。なんて心配をしていたのだが、見事彼女は僕のところに豚丼を持ってきてくれた。ありがとう。

僕も昔喫茶店でアルバイトしていたとき、たまたま近くでイベントがあったか何かで、客が異常に多くてパニックになったことがあった。もう頭のなかを真っ白にしながら、捌いても捌いてもゾンビのように現れてくる客と戦った。あのときはマジでトラウマになりそうなほど辛かった。豚丼を食べながら、その日のことを思い出した。彼女は遠く異国の地に来て、パニックになりながら、牛丼屋で必死に働いている。確かに彼女はプロと呼べる仕事はまだできていないのかもしれない。だけど、一杯330円の豚丼を求めて吉野屋に集う野郎どもは、ただじっと椅子に座って、彼女の一挙手一投足を見守るしかない。無力な存在なのだ。願わくば、彼女が経験したタフな時間が、彼女のこれからの人生にとって、プラスになってほしいと思う。この修羅場をくぐって、人間としてでっかくなってほしい。辛い思いをすればするだけ、人間成長できるのだから。

そう、僕も、あのカウンターの中に入って、パニックになるくらいの量の客を捌かなきゃいけない。じっとだまって牛丼が目の前に差し出されるのを待っているだけじゃだめなんだ。上手い、安い、早い翻訳を作るんだ。翻訳のソウルフードを。

KKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKK

あさま組勉強会。通訳学校ラスト2。
学んだことを、メタなレベルで昇華させなければだめ。
翻訳も通訳も、基本的に人からすべてを教わるものじゃない。学びの場は、自分の日々の努力の点検をしにいくところと心得なくては。

10月からの怒涛の半年が、収束しつつある。
次の4月からの半年は、何が起こるのか。
楽しみでもあり、怖くもある。

KKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKK
『キス』キャスリン・ハリスン著/岩本正恵訳
『巡礼者たち』エリザベス・ギルバート著/岩本正恵訳
『韓国は一個の哲学である』小倉紀蔵
『週末号泣のススメ』安原宏美
『不肖・宮嶋 踊る大取材線』宮嶋茂樹
『セックスボランティア』河合香織
『石原家の人々』石原良純

吉祥寺店に吸い込まれ、上記を購入。何冊かは、被ってる予感大。

義理と人情

2008年02月22日 23時04分32秒 | Weblog
終電の阿鼻叫喚の地獄絵に開高健をむさぼる若者

(解説)終電間際の電車に乗った。金曜の夜、そこは阿鼻叫喚の世界だ。一週間の辛い戦いを終えた人たちの、人いきれでむっとする。酔っ払いが二人(僕ではありません)、床にへたり込んでいる。もう完全に、あっちの世界にイってしまっている。かなりの泥酔だ。今にも吐きそうなので、皆一歩でも彼らから離れようとしている。だけど、電車は込んでいるし、動きたくても動けない。僕はへたり込む二人に挟まれるような位置にいる。同じ位置に、眼光の鋭い若者がいた。文庫本を熱心に読んでいる。酔っ払いが無意識に彼の体に触れる。でも彼は動じない。怖い顔をしているけど、嫌がるという風ではない。透徹したまなざしで、酔っ払いをみつめている。なかなか肝のある男だ。彼は、ちょっとしたオーラを放っている。きっと何かを大きく心に秘めている、そんな若者に違いない。そんな彼が読んでいたのは、開高健の『パニック・裸の王様』だった。いいね。ぴったりだ。東京で、どこまでも夢を追いかけろ、もっといろいろ読め、そしてもっとエグイものを見ろ。いい彼女を見つけろよ。おじさんは応援してるぞお前を。と、そんな風に年上風吹かせている僕がそのとき読んでいたのは、みのもんたの『義理と人情』だった(本の「格」ではちょっと負けているかもしれないけど、これも結構面白いぜ)。それから、酔った二人にもエールを送ろう。あんたたちは、一週間前の自分だ。生きろ、死ぬな。がんばって立ち直れ。俺も、立ち直る。人生は、義理と人情なのだ。

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『ポッカリ月が出ましたら』キョンナム
『へらへらぼっちゃん』町田康
『恋愛中毒』山本文緒
『義理と人情』みのもんた

を購入。

濃く深い領域でバリウムを呑む

2008年02月21日 23時02分01秒 | Weblog
血を抜かれバリウム飲まされ健康は二週間後に通知されたり

昼間にはバリウム飲んだ大久保で夜はやっぱりマッコリ呑みたい

(解説)大久保で健康診断。施設はとても立派だし運営もスムーズだ。いまどきの健康診断は、いつのまにか凄く進化していた。素晴らしい。身長と体重をいっぺんに計測するなんてのは序の口だ。聴力検査だけではなく、視力検査までもが自動化されていた。Cのマークがどっちに向いているか、口頭ではなくレバーを動かして答えるのだ。表示の切り替えも自動。正解の場合はCが小さくなっていくし、不正解の場合は、大きくなっていく。これ、考えたらプログラムで十分に作れるものだったんですよね。それから検尿なんかも実にスムーズですな。今はトイレの中にトレイがありますからね。普通におしっこしてるのと、ほとんど負荷は変わりません。これだったら、毎日でもできますよね。昔は尿入りのコップ持ったまま目的の場所に向かって廊下をウロウロしたりしてましたからね。ナミナミとコップに尿入れて、こぼさないように抜き足差し足でそろ~っと歩いている人もいましたからね。あれは間抜けでした。でも、あの胃の検査というんですか、あれはちょっといただけない。バリウム飲むのはまったくかまわないのですが、「仰向けになって、うつ伏せになって、左向いて、こっち向いて、お辞儀して、もうちょっと左向いて、ぐるっと回ってうつ伏せになって、ゆっくり息を吐いて、仰向けになって」というふうに延々と指示を出されているうちに、だんだん気分が萎えてくる。仰向けとうつ伏せもどっちがどっちだかわからなくなってくる。あんなにグルグル動かないとちゃんとイメージが取れないのだろうか。なんでもっとあっさりと終わらせてくれないのだろう、と思う。とにかく、待合のスペースにも雑誌が豊富にあって、検査の合間には猛烈な勢いで雑誌を読んだ充実の2時間半だった。結果は二週間後にわかるらしい。

大久保は、やっぱり濃く深い。ディープエリアだ。アジアをたっぷり感じさせてくれる、日本であって日本でない、でもやっぱり日本という場所。検査の後、大久保から新宿にかけてをそぞろ歩く。もし大久保で今夜飲むなら、バリウムと同じ真っ白なマッコリで乾杯したいところなんだけど、そんなことをしている場合でもなく。でも、家に帰ったら、急遽六月に韓国旅行が決まっていた。とても楽しみだ。

走ることについて語らないときに僕が思っていること

2008年02月20日 22時06分53秒 | Weblog
君にだけ見えてるような直線を 何のため走る遠く見つめて

(解説)かつてよく聞いていた某ラジオのDJは、公園とか、夜道とか、そういうところを走っている人に、「なぜ走るんですか?」とよく訊ねてみるのだ、と言っていました。いきなりの根源的な問いかけです。答えはいろいろらしいですが、こういうの、きっとなかなか明確な答えなんてないですよね。走ることに限らず、なんのために○○しているのか、なんていきなり問われても、そんなのわかるわけない。ただ、そのDJの気持ちはなんとなくわかります。走っている人を見ると、ついそう訊ねたくなるということが。なんのためにコンビニで立ち読みしてるんですか、とか、なんのためにパチスロしてるんですか、とか、そういう質問をいきなり人にすることもされることもあんまりないと思います(まあ、あるのかもしれませんが)。道を歩いていても、走っている人っていうのは、別世界にいるというか、まるでその人にしか見えない直線コースがあって、その先にはその人にしか見えない何かがあって、なんだかよくわからないけど、ゆっくり歩いてるこちらとは違う次元にいるような気がします。私は走ることが好きなので、なんとなくそういう人たち気持ちがわかりますが(走っているときは時間の経過する感覚もちがうのです)、走ることが楽しくないと思っている人からすれば、一体この人たちは何考えてんだ? みたいな気がするのでしょう。

ところで、マラソンをしているというと、東京マラソンに出るの?(あるいは出たの?)とよく訊かれるのですが、私はまだこの大会に申し込みをしたことはありません。意外に思われるのですが、この大会は人気があるので抽選で当選した人しか参加できないのです。だから、走っているといっても誰もがそうそう出場できるわけではないのです(まあ、申し込みしていないので当選するわけないのですが)。ちなみに、参加料も一万円ほどかかります。マラソン大会に出るのに参加料がかかるというと、結構驚く人がいます。私も、初めて大会に出た頃はちょっとびっくりしました。でも、マラソン大会を開催するには、交通規制をしたり、給水所の準備をしたり、記念品を配ったり、パンフレットを作ったり、いろいろと経費がかかるのです。それでも、一万円はかなり高い方だと思います。最初聞いたときは、石原さん、そりゃないぜセニョリータって思いました。大会の規模にもよりますが、普通3000円くらいが相場だと思います。ちなみに、私の知人には地元の大会に、「キセル」で参加した人がいます。なかなかすごいでしょう。皆さんも、ぜひやってみてください。もし誰かに何か言われたら、ここがいつもの自分のジョギングコースです、と答えればいいのです。ただし、私は責任取りません。ところで、一般の人にはあまり知られていないかも知れませんが、マラソン大会は東京マラソン以外にも、大小さまざまなものが、全国でたくさん開かれています。いったいいくつあるのかは私も知りませんが、RUNNET(http://runnet.jp/runtes/)という有名ランニングサイトでは、人気投票でレース百傑が毎年選ばれているくらいですから、その数は推して知るべしといったところでしょうか。私はあんまり大会に出るのは積極的ではなく、去年も2回、今年も2回しか予定してはいません。大会に出るのはそれ自体で楽しいことではありますが、やはり日ごろの練習意欲を高めるため、という理由が大きいです。大会で足が折れるほどの痛みを味わいたくないという恐怖心(逆ニンジン)によって自分を鼓舞するため、という気もします。

大会に申し込むと、人からもプレシャーを受けます。以前書いたように、3/16の荒川市民マラソンのフルの部にエントリしているのですが、フルマラソンに出る、というとちょっとした噂にもなるらしく、「出るんだって?」という風にいろんな人から訊かれます。まあ、ウソついてまで隠すことでもないので「うん」というと、「頑張ってね」といわれ、「頑張る」と答え、「お前はすごいね」という風な会話になるのですが、なんだか勝手にフルマラソンを走る人=鉄人というような美化されたイメージが作られてしまって、ちょっと困惑したりします。すごくもないのに、すごい人と思われてしまうのも、つらいものです。ご存知の通り、私は決してすごい人ではありません。まあ、いろんな意味ですごいことをしでかしてしまう人ではありますが(傷口に塩を塗るようなことはやめてください)。ましてや、鉄人なんかではありません。そんないいもんじゃありません。鉄人というよりも、原人といいうか、猿人というか、ケムール人といいますか、どちらかというと、まあ文人です。あるいはまた、自分でいうのもなんですが最近はひょっとしたら俳人かもしれませんが、泥酔事件の後は、正直、廃人でもあります。もう、勘弁してください。なんだかよくわかりませんが、とにかく、あんまりプレッシャーを感じたくないので、マラソンのことは人には黙っていたいという気もしているのです(といいつつこうやって思い切り書いてますが)。しかし、仕事以外のプライベートの話を人とするとき、走るかブックオフに行くかしか話題がないので、ついつい走ることをしゃべってしまうのです。でもまあ、こうしてしゃべることでまた自分にわざとプレシャーを与えているのかもしれません。そうでもしないと頑張らないので。そんなわけで、本番まであと一ヶ月! 心身を一から叩きなおすために改めて走ることに打ち込もうと思った次第です。で、昨日からランニング復活しました。もちろん、仕事が第一です。がんばるぞ~!


西荻窪の彷徨える蒸気機関車

2008年02月19日 22時41分50秒 | Weblog
模型屋の女主人に見つめられ汽車汽車シュポシュポシュポシュポシュポポ

(解説)西荻窪で中央線が止まった。八王子の方で問題が発生しているらしい。まっすぐ家に帰るつもりだったけど、このままずっと待っているのも何だなと思って、ちょっと西荻ることにした。といっても、僕には行く場所は古本屋しかない。音羽館を目指したけど、今日は休みだった。がっくりきて、あてどなく古本屋を探して彷徨っていたら、これまで行ったことがなかった東の方に、ディープな店があった。古本はかろうじて、刺身のツマのようにして売っている。だからその店が目に留まったのだが、そこは模型屋さんだった。ただの模型屋ではない、店中いたるところに模型が展示されていて、なんというか気合がすごいのだ。看板には「模型センター」と書いてある。そこに、なぜか古本のスペースがある。模型には興味がないが、せっかくなので百円の文庫本ばかり少々選んで購入する。本のセレクトもとても昭和な感じがする(セレクトしているのかどうかは不明)。五木寛之、有吉佐和子、佐野洋、などなど。洋書もいっぱいあったけど、ほとんどが戦争物というか、軍関係というか、そういうジャンルのものだったので、手は出さず。

店の人は、凛とした年配の人で、とても眼が綺麗なのが印象的だった。一見して、この人は出来る人だ、人間力の高い人だ、ということがわかった。僕が本を持っていった瞬間に、受付の電話が鳴ったので、その主人(と僕が勝手に思っているだけ)は僕にとても申し訳なさそうにしながらしばらくその電話に応対した。その間、店内をいろいろと見て回っていたのだけど、いたるところにあるプラモデルに圧倒された。尋常じゃない磁場のようなものを感じた。模型からも、お店の人からも。どこからともなく、シュッポシュッポと蒸気が沸いてくるようだ。凄い店だ。その女性はとてもにこやかで素晴らしい人だった。面白いところでしょ、年中無休なのでぜひまた遊びに来てね、と言われた。今の子供は、模型なんてあんまり作らないだろうから(ちなみに僕は昔子供がプラモデルばっかり作っていた時代に子供だったけど、プラモデルはあまり得意ではない)。時代の流れからしたら、そんなに勢いのある商売ではないのかもしれない。だけど、気丈に店を構えているその心意気に胸を打たれるものがあった。そうだ、僕もがんばらなきゃ。ホントに、がんばらなきゃいけないんだ。

西荻の「模型センター」ギザ凄い

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『黒い雨』井伏鱒二
『にぎやかな未来』筒井康隆
『開幕ベルは華やかに』有吉佐和子
『奇しくも同じ日に…』佐野洋
『裏切られたベトナム革命』友田錫
『脱走者の勲章』ロン・マーティン著/佐宗鈴夫訳



海底の回遊魚

2008年02月18日 21時38分34秒 | Weblog
泳ぐのをやめたら終わりの回遊魚も 今日は止まれ沈め海底

(解説)泥酔事件から明けて2日目。まだ心身のダメージから回復できていない。師匠のK賀山さんはじめK賀山組のみなさんからはご心配の声をいただいた。とはいえ、そろそろ本当に破門されるかもしれない。本来であれば死んでお詫びをしたいところなのだが、悔しいけどこうしていままだ生きている。Yさんいわく、普通、あそこまで泥酔するのは、文化人類学的?に30才前後で卒業するものらしい。やっぱり以前から唱えてきたように、ぼくは人の10年遅れで大人の階段を上っているのだ(というか、すでに退化が始まっているという気も)。どうやら激しく転んだらしい。顔面、膝、両手、後頭部に擦り傷がある。御大のT先生がウォンカーウァイの話をしていたのはうっすらと覚えているのだが、その後、突発的に店の外に飛び出したことと、トイレに立てこもって御仁たちを困らせてしまったこと以外は、まったく記憶にない。ああ、誰かタイムマシンに乗ってあの日の僕を歴史から抹殺してください。

なぜかN目大師匠にまでも「生きていることはそれだけで恥ずかしいことです」という旨の慰めの言葉をいただいた。人の情けが心にしみます。今ほどこの言葉が切実に身に迫ってくることはない。

海底に沈みこんでしばらくは浮上できなさそうだ。でもこの深く暗い海の中を、泳ぎださなくてはいけない。ぼくは回遊魚なのだ。止まったら死ぬのだ。でも、しばらくは水底で横たわっていたい。そんな一日がまた過ぎた。

冗談抜きで、本当にみなさんすみませんでした。

青山一丁目に死す

2008年02月17日 12時39分34秒 | Weblog
――みなさま、すみません――

記憶なくしゲロは荒野を駆け巡る


(解説)あるお方に誘われて、某会に参加させていただきました。それはもう、筆舌に尽くしがたいほどすばらしい会でした。その場に居合わせたことの幸運をかみしめながら、魅力的な方々との会話を楽しみました。

あまりにも楽しく、あまりにもお酒が美味しく、はしゃぎすぎて、数時間後、気がつけば、完全に泥酔。ええ、久しぶりにやってしまいました。ついこの間、「この一年、酔っ払ったりすることはなくなった」と書いたばかりなのに、もう激しく酔いつぶれてしまいました。私にとっての鬼門というべき、赤ワインをがぶ飲みしてしまったことも原因のひとつだと思います。二次会までは記憶があるのですが、三次会はほとんど記憶がありません。いろいろな方に心配していただいたことはおぼろげながら覚えています。三次会にいらっしゃったのは錚々たる顔ぶれの方々だったですが、間違いなく自分に対してドン引きされていたことと思います。本当に本当に申し訳ないです。本来ならば一人ひとりにメールを書いてお詫びしたいところなのですが、それすらもはばかれます。なので、ここにお詫びを書いておきます。本当に申し訳ございませんでした。

もう昨夜、あのまま死んだほうがよかったのかもしれません。これから先の自分の行く末が激しく不安になってきました。ともかく、昨夜は本当に素晴らしかったです。みなさま、ありがとうございました。

Here, there, and everywhere に狭間

2008年02月15日 22時57分06秒 | ちょっとシリアス
本分は何かと自問し鰯焼く

(解説)ずいぶんと前、何気なくテレビを観てたら、あるお笑い芸人がいいこと言った。超大物芸人の彼は、話のなりゆきでたまたま誰かに「(~さんは)本を書かないのですか?」と訊かれ、あっさりと「自分の仕事はしゃべりだから、本は書きません」とこともなげに言ったのだった。たったそれだけのことなのだけど、妙になるほど、と思った。自分の仕事、つまり本分はしゃべることだから、そのほかのことに手を出さない。彼はそれを、至極当たり前のことのように言った。しゃべり手としてのプライドのようなものを感じたし、彼の仕事に対する哲学のようなものが垣間見えたような気がした。確かに、言われてみれば彼の書いた本は見たことがない。普通、彼くらいの大物になれば、本の二、三冊は書いているものなのに。

もちろん、世の中には、複数のことを器用にこなす人もいる。いろんな分野に手を広げることで、芸の幅を広げたり、新たな可能性を見出していくことだってある。様々なことにチャレンジするのはいいことだ。本に限れば、そもそも専業作家以外はすべて別な専門を持った人が書くものだから、書くことを職業にしない人が本に手を出すこと自体が悪いとはまったく思わない。正直、僕はタレント本も結構好きなのである。玉石混交だとはいえ。

ぼくが感心したのは、彼が本を書かないといったことではない。彼が自分の本分についてしっかりとした定義を持っていることに対して、そうか、と思ったのだ。彼に限って言えば、その考え方は成功していると思う。本なんぞ書いている暇があったら、少しでも面白いトークができるための努力をする、という風に考えているとしたら、それはきっと彼にとっては正しい選択で、たぶんあの面白さの秘密はそんなところにもあるに違いない。だらかこそ、いつもあれだけ面白いのだ。しゃべることだけで勝負する。そう思っているからこそ、トークに磨きがかかる。逃げ場所がないから、真剣になる。いろんなことをするのはいい、だけどやっぱり大事なのはどれだけ自分の本分をわきまえているかということなのだ。

でも、本分がなにか、なんてことは簡単にはわからない。ぼくに限って言えば、激しくわからない。翻訳しかやりたくない、と頑固に自分の幅を狭めてきたような気もするが、気がついたらあれもこれもに手を出しすぎて、ジャグリング状態になってしまっている。「翻訳」と名のつくものであれば、興味の向くままとりあえず飛びつき、足を踏み入れてきた。それは間違っていなかったと思う。でも、横断的に幅広く活動しているといえば聞こえがいいけど、気がついてみたら、会社員とフリー翻訳者の、産業翻訳と出版翻訳の狭間にいて、ヌエのように煮え切らない状態でくすぶっているというのが正直なところだ。客観的に見たら、お前は一体ナンなんだ? って思われてもしかたない。あらためて自己点検してみれば、ほかにも狭間は至るところにある。ノンフィクションとフィクションの間、IT翻訳と他分野の間、翻訳と通訳の間、そして新刊書店とブックオフの間……もう数え切れない。いろんなことをやりたいと思うのは性格的な部分も大きいし、将来的にも蛸壺式にひとつのことだけに特化したいとは思わない。思わないのだけれど、それでもやっぱり自分の本分についてそろそろ真剣に考えたほうがよさそうだと、最近とみにそういう気がしてならない。決してこれまでの道のりを否定したいわけじゃないし、すべては必然だった思うのだけど。う~ん、基本的に不器用なはずなんだけど、実は器用貧乏なのかもしれない。そんなことを考えていると、気もそぞろになって作業に集中できなくなる。いかんいかん、頑張らねば。春は、もうすぐそこまで先に来ているのだから。

ちなみに、その芸人というのはイワシならぬ明石家さんまさんです。


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秋刀魚はまだ季節じゃないから、鰯でも焼いて食べて一から出直すか。

ホームは東京

2008年02月14日 21時55分56秒 | Weblog
電車待つ位置をやたらと気にしてるホームで君は東京の人

(解説)仕事で打ち合わせがあるため、東京生まれの人と一緒に田町方面に行った。聞けば、その人が生まれたのも田町。生粋の東京っ子なのだ。東京の人と東京の街を歩いていると、普段は意識しない「よそ者の自分」を感じてしまう。考えて見れば、まだ東京に来て7年。人生というスパンでみれば東京にいなかった時間の方が圧倒的に長いのに、なんだかいつのまにか東京に住んでることが当たり前と思っている自分がいる。でも、実際のところ、いつまでたってもおのぼりさん的な感覚が抜け切っていないのだ。

電車を乗り継いであちこち移動した。ぼくの偏見かもしれないけれど、東京の人は、電車に乗るときホームの位置をやたらと気にする。つまり、降りた駅のホームで、最短距離で移動できるように。東京の人にとっては、どの位置で電車に乗るかがものすごく重大なことなのかもしれない。眉間にしわをよせて、「あっちで待とう」と早足でホームをツカツカと歩いて場所を決めてしまう。ここで待つことが、お互いにとって無条件に幸せなことなんだ、とでもいうかのように、うむをいわさずにホームを突き進む。頭の中では、目的駅のホームにある階段の位置をイメージ化しているのがわかる。で、駅についてぴったりビンゴの位置だったときは「よし」と嬉しそうな顔をするし、位置がずれていた場合は、苦虫を噛み潰したような顔をして、「しまった」という。なかには連れに、「ごめん、乗る位置ちょっと前だった」なんて謝ったりする。

その人は、田町の駅のホームの一番端までわき目も振らずに進んでいった。新宿で降りるときは、ここから乗るのがベストなんだということらしい。果たして、やっぱり新宿で降りたらそこが一番便利な場所だった。その人は満足げだったけど、正直、ぼくはそんなに嬉しくない。人生、道草したり遠回りしたりすることにも、意義があるんじゃないですかね、ってそこまで大げさな話じゃないんだけど。

もちろん、通勤のときは、毎日乗っているから僕も降りる位置を計算して乗ることがある。だけど、個人的にはどこで乗ったって一緒じゃないか、と思っている。待つ駅で歩くのか、降りた駅で歩くのかの違いで、歩いてる距離は変わらないんじゃないかと思うし、乗る位置によって歩く距離が短くなったところで、そんなに嬉しいとも思わない。むしろ、エスカレーターがあっても歩くことをデフォルトにしているくらいで、歩く距離がながければそれだけ足腰の鍛錬になるから得したと思うのだ。

TTTTTTTTTTTTTTTT

まあ、いずれにしても東京の人っていうのは、江戸っ子気質というのか、せっかちというか、合理的と言うか、生まれてからずっと電車にのってあちこち行ってると、ホームの位置のひとつも覚えたくなるのでしょうね。ちなみに、すぐに行列を作るところなんかも、東京だな~と思う。それにひきかえ僕のような田舎者は垢抜けない牧歌的なところがうまく東京のリズムと合わなくてちょっと損してるのかな、などと思ったりする。でもいつのまにか僕も東京暮らしが長くなって、こっちの水にだいぶ馴染んできた。いろんなところに住んだけど、東京は大好きだ。どの土地も大好きだったけど、自分が住む場所、って気が一番するのは東京だ。なにより、地方からたくさん人が集まっているところがいい。ぼくは地方を転々としていたので、よそ者を受け入れてくれる東京の懐の深さが居心地いいのだ。