古いプレスボード車体の再生実験をされている吉野線のシェルパさんの記事を見て、ひょっとするとコイツも再生できるかも知れないと持ち出してきたのが、この小高模型製キットを組んだクモハ157です。一度塗り直しかけたものの失敗しヤケ塗りになったという経緯もあって、まあご覧のとおりすごいことになっていますが、兎にも角にも私のペーパー車両製作第1号の記念すべき車両です。
さて、今回はこの車両の再生記ではありません。もちろん、いずれ再生してみるつもりですが、今日はこの車両を作った頃の昔話を書いてみようと思います。
私の実家は東京・中野にあり、父は国鉄職員でした。その影響かどうかはわかりませんが、鉄道関係はお約束のプラレールで入門を果たし、並行して「レゴ」でもレールモノを頻繁に作って遊んでいました。昭和40年代のことです。
本格的な鉄道模型は、プロフィールのところにも書いてあるように、カツミのEB58と数両の貨車でスタートしました。すでにOゲージの時代は去っていたもののNゲージはまだ黎明期で種類はなく、16番(当時は「HO」が普通の呼び方でした)が最も一般的なサイズだったのです。
小学校の友達にも同じ模型仲間がいて、よく遊びに行きました。彼のところにはウチにはないカツミの165系や583系などがあって、その精巧な出来(当時の目で)にいつも羨望のまなざしを向けていました。私の記憶が正しければ、メーカー不詳の小田急ロマンスカーNSEのフル編成を走らせた記憶もあるので、まあ大した友達であったといえます。
一方のわが家では、ようやくカツミのクモハ103(スカイブルー)が買ってもらえた程度で、完成品のバリエーションは一向に増えません。キットメイクや自作に目覚めたのはこの頃です。
父は戦前の人間で、鉄道模型はやっていませんでしたが、その世代ではポピュラーな飛行機づくりはやっていたようです。バルサで骨組みから胴体、翼まで作って、ゴム動力で飛ばすものです。
その関係もあって、子供にもキットや素材から自作することを教えようと思ったのでしょうか、ある日1冊の本を買ってきました。赤と黒の表紙(だったと思う)で正方形をした「HO車両とレイアウトの工作」という入門書です。ご存じの方はかなりのベテランモデラーとお察ししますが、ペーパーや金属車両のキット組み立てからレイアウトづくりまでいろいろな記事が載っていて、背表紙が分解するまでむさぼり読んだものでした。
そして、ちょうど時を同じくして買ってもらったのが小高模型のクモハ157でした。
昭和40年代はまだ街中の個人模型店が元気な頃で、実家の近くにも1軒の小さな模型屋がありました。そして驚くべきことに、そんな小さな店でも、ペーパーキットはもちろん、それがちゃんと組み立てられるだけのパーツ一切が揃ったのです。
ギョロ目でゴマ塩頭にガラガラ声のおやじさん(当然、近所のワルガキ連中は一目置いていた)とおかみさんの2人で切り盛りするその店は、プラモデルや鉄道模型、飛行機や船舶の模型が所狭しと積み上げられ、まさにワンダーランドでした。
ペーパーキットを買うと、おかみさんは組立説明書を見ながらおもむろに大きな引き出しを開け、台車、床下器具は言うに及ばずカプラー、パンタグラフ、豆粒球にセレン整流器(って知ってます?)、ゴム製ホロ、窓ガラス用塩ビなどをてきぱきと出してくれました。
そして最後に「エスクマ印のマメラッカー」が添えられ、「頑張って作ってね」と店を送り出してくれたハズ、なのであります。街の模型屋は立派な「専門店」でした。こうして、わがペーパーモデル人生が始まったのです。
その後モハ、サハ、サロの3形式を作り157系は4両になりましたが、ついにもう片側のワンユニットは作られることなく、編成としての完成を見ないままお蔵入りになってしまいました。
せめて現存するクモハ、サハ、サロの3両だけでも再生してやりたい、と引っ張り出したのがこの状態です。文字通り「陽の目を見る」ことになりましたが、その行方、どうなりますことやら。
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さて、今回はこの車両の再生記ではありません。もちろん、いずれ再生してみるつもりですが、今日はこの車両を作った頃の昔話を書いてみようと思います。
私の実家は東京・中野にあり、父は国鉄職員でした。その影響かどうかはわかりませんが、鉄道関係はお約束のプラレールで入門を果たし、並行して「レゴ」でもレールモノを頻繁に作って遊んでいました。昭和40年代のことです。
本格的な鉄道模型は、プロフィールのところにも書いてあるように、カツミのEB58と数両の貨車でスタートしました。すでにOゲージの時代は去っていたもののNゲージはまだ黎明期で種類はなく、16番(当時は「HO」が普通の呼び方でした)が最も一般的なサイズだったのです。
小学校の友達にも同じ模型仲間がいて、よく遊びに行きました。彼のところにはウチにはないカツミの165系や583系などがあって、その精巧な出来(当時の目で)にいつも羨望のまなざしを向けていました。私の記憶が正しければ、メーカー不詳の小田急ロマンスカーNSEのフル編成を走らせた記憶もあるので、まあ大した友達であったといえます。
一方のわが家では、ようやくカツミのクモハ103(スカイブルー)が買ってもらえた程度で、完成品のバリエーションは一向に増えません。キットメイクや自作に目覚めたのはこの頃です。
父は戦前の人間で、鉄道模型はやっていませんでしたが、その世代ではポピュラーな飛行機づくりはやっていたようです。バルサで骨組みから胴体、翼まで作って、ゴム動力で飛ばすものです。
その関係もあって、子供にもキットや素材から自作することを教えようと思ったのでしょうか、ある日1冊の本を買ってきました。赤と黒の表紙(だったと思う)で正方形をした「HO車両とレイアウトの工作」という入門書です。ご存じの方はかなりのベテランモデラーとお察ししますが、ペーパーや金属車両のキット組み立てからレイアウトづくりまでいろいろな記事が載っていて、背表紙が分解するまでむさぼり読んだものでした。
そして、ちょうど時を同じくして買ってもらったのが小高模型のクモハ157でした。
昭和40年代はまだ街中の個人模型店が元気な頃で、実家の近くにも1軒の小さな模型屋がありました。そして驚くべきことに、そんな小さな店でも、ペーパーキットはもちろん、それがちゃんと組み立てられるだけのパーツ一切が揃ったのです。
ギョロ目でゴマ塩頭にガラガラ声のおやじさん(当然、近所のワルガキ連中は一目置いていた)とおかみさんの2人で切り盛りするその店は、プラモデルや鉄道模型、飛行機や船舶の模型が所狭しと積み上げられ、まさにワンダーランドでした。
ペーパーキットを買うと、おかみさんは組立説明書を見ながらおもむろに大きな引き出しを開け、台車、床下器具は言うに及ばずカプラー、パンタグラフ、豆粒球にセレン整流器(って知ってます?)、ゴム製ホロ、窓ガラス用塩ビなどをてきぱきと出してくれました。
そして最後に「エスクマ印のマメラッカー」が添えられ、「頑張って作ってね」と店を送り出してくれたハズ、なのであります。街の模型屋は立派な「専門店」でした。こうして、わがペーパーモデル人生が始まったのです。
その後モハ、サハ、サロの3形式を作り157系は4両になりましたが、ついにもう片側のワンユニットは作られることなく、編成としての完成を見ないままお蔵入りになってしまいました。
せめて現存するクモハ、サハ、サロの3両だけでも再生してやりたい、と引っ張り出したのがこの状態です。文字通り「陽の目を見る」ことになりましたが、その行方、どうなりますことやら。
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