80分の1丁目16番地

ペーパースクラッチによる車両作りを中心に1/80、16.5ミリゲージの鉄道模型を楽しんでいます。

クハ115が回送される

2023-09-30 21:15:09 | 中央東線周辺
某リサイクルショップに眠っていた「クハ115 2100(身延色)」をゲットし、本日、無事回着しました。先日発見されたモハユニットをクモハ115 2000+モハ114 2600に改造し、これと組ませようというストーリーです。外見的には1000番台の雪切り室をなくしたのが2000番台なのでいけるはず。ハロウィンまでに完成したらおなぐさみ・・・てなノリです。



しかしこのクハは奇数向き、すなわちクモハ115と同じ向きなので3連のジャンパ栓収めが華々しく出っ張っています。ジャンパ栓そのものも含めて方転改造が必要です。にしても・・・なんかこの栓収めの台座、曲がってないですか??



別パーツならそれに越したことはないので、恐る恐る引っ張ったら取れたのはいいのですが、その裏側は予想に反して穴だらけでゲンナリ!! まあ、この台座はクモハ115の改造に活用できるのでヨシとしましょうか。



もう1点ラッキーなのは、はじめ山陽地域向けに登場したクハ115 2100番台がトイレ無しだったのに対し、こちらは「業務室」としてトイレ準備工事がなされていたため外観がトイレ付と同じだったことです。



ただ、実車がトイレ機能を持っていなかったため水タンクなどの同梱パーツはありません。幸い北陸色の475系セットを買った時のFRP水タンクの余りがあったので、スリットの中に取付足の穴を開けて取り付けられるようにしました。



トイレタンクも余りがあったので取り付けてみたのですが、待てよと思って時代考証したら案の定、身延色の時代は未設置だったようなので外しました。こちらの記事の「115系電車」の項目を読むと、「(前略)身延線車両の常駐先の富士運輸区の地上設備の完了に伴い1994年から順次取り付けが行われたものの、(後略)」と書かれており、JR東海移管後でもしばらくは未設置だったようです。



ちなみに身延色がいつまで残っていたのか明確な記述は見つかりませんでしたが、写真検索の結果を総合すると、1989年末頃までには湘南色へ塗り替えられてしまったようです。

完成の暁にはこんなつなぎになります。いちばん向こうのモハ115はすでにクモハ115化へ向けてバラシ済みとなっております。実際の編成ではこれにクモユニ143を連結したものもあったとのことなので、改造が一段落したら追加を考えます。


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115系が発見される

2023-09-28 22:34:41 | 中央東線周辺
まだ1か月も先なのに巷ではもうハロウィングッズが溢れています。

便乗するわけではありませんが、わが家ではキャスター付きストッカーの引出しの中から“カボチャ電車”こと115系が発見されました。そんな場所に入れるなよって話ですが、最近とみに車両が増えてきて置き場所不足が深刻です。

発見されたのはTOMIXのモハ114+モハ115のワンユニットで、悪いことに(笑)モーター付です走ります。



どうやら、「横軽を越えた普通電車」の一環で115系1000番台のモハユニットを2組調達したものの、知合い様より冷房準備車3両セットを譲っていただいたために余ったものだということを思い出しました。手持ちの115系との組み合わせを色々模索しているうちに沙汰止みとなってしまったんですね。もう2年前の話ですか。。



ご存じのとおり先頭車の入った基本セットを持っていないと拡張性にとぼしい増結セットのこと。しかし「とあるクハ」を1両入手できたので電卓片手に怪しいイタズラを模索中です。お菓子くれないと改造しちゃうぞ!笑




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青梅線103系(9)

2023-09-25 12:40:49 | 中央東線周辺
屋根まわりを塗装しました。屋根はタミヤの呉海軍工廠グレイ(TS-66)、ベンチレーターは同じくタミヤのロイヤルライトグレイ(TS-81)です。



窓ガラスを入れます。実はこれが大変なことに・・・。



このキットは市販の窓ガラス、いわゆる窓セルを使う前提で窓部分の外板厚が薄くなるように成形されています。なのでドア、戸袋、サッシ窓のすべてを分割して貼る必要があるのです。少しでも実感的に・・・というホビーモデルさんの愛情と、頑張らんか~い!というムチ、もとい叱咤激励を感じます。。



さらに今回はIMONの窓ガラス(t0.3ポリカ)を使ってみたのですが、他社のと違って両面に保護シールがついていて剥がす手間が倍になりました。。これも傷や指紋がつかないようにとのIMONさんの優しさ・・・と理解したのですが、今回のようにブツ切りにして貼るような場合は片面シールの製品を使うか、あらかじめ片面を剥がしてからカットすべきだなぁと反省。特急車みたいにペロッと長いまま貼れるならこちらでもいいんですけどね。



ということで、やっと1両貼り終えたクモハ103。おほほ~良き良き。



パンタはストックしてあったカツミだかエンドウだかのPS16銀。エンドウの直流3段碍子でサンドイッチ止めしたらゴツすぎたので2.5段ぐらいにカットしました。配管は当初は塗り分ける気まんまんでしたが、窓ガラス入れで体力消耗したので、今後気力体力が回復したら塗りたいと思います。



クモハ103というと、管理人が幼少の頃、ねだりにねだって買ってもらったカツミのクモハ103が思い出されます。昭和40年代の話。当時デパートの鉄道模型売場へ行くと色とりどりの「国電」が並んでいて魅了されました。根っこが生えたように動かない息子に親は閉口し1両だけ買い与えたようです。エメラルドグリーンに塗られたこのボディ、当初は今回製作したのと同じスカイブルーでしたが、のちに改造ネタになって今ではこのあり様。親が泣きます。。



なんでこんな姿になってしまったのか。当時のモデルは妻面に窓がなく、ここにドリルではなくキリで穴を開けようとしたのが転落の発端。ブリキの車体にそんな方法で穴を開けるのはどだい無理な話であえなくとん挫。その後AU75を載せて冷房化したり、DT21の流用だった台車のブレーキシューを折り取ってDT33モドキにしたりして「実感的」にするはずが、思いとは裏腹にジャンク化は止まらず、ついにはジャンクどうしを集めて常磐線モドキ編成にしようとした末路がこれであります。前回投稿で出したアリイの103系もその仲間というわけ。



スカイブルーのクモハ103にはこうしたホロ苦い思い出が詰まっています。あともうひと息。再びレールの上を快走するスカイブルーのクモハ103を手に入れるのだ~!♪

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創意工夫待ったなし!

2023-09-23 01:19:24 | 中央東線方面
マイクロエースから1/80の103系プラキットが復刻再生産されることがアナウンスされています。古くはアリイブランド(その前はナカセイ=中村精密時代があった?)のプラモデルとして人気を博し、少し前にネコ・パブリッシングから「創意工夫キット」として復刻発売されたもののリニューアル版ということのようです。

近年流行りのプラキットですが、こちらは元々がプラモデル出身ということで実はあまり食指が動かず、先日のJAMでもチラ見しただけで写真も撮らずスルーしていました。

しかし先日、ひょんなことからカツミのジャンクの485系・583系からはずしたDT32(エンドウの刻印あり)をいじっていたらブレーキシリンダがついていないことに気付き、むむ、これはもしかして「103系ボディ」+「ブレーキシリンダの無いDT32」=「走っちゃえばわからない営団東西線直通301系タイプ」が爆誕するのではないか!?と、一気に風向きが変わったのであります。



気になるのはプラキットの「出来」がどの程度かですが、大昔に1両プラモを買ったことを思い出し、家探しの末に無事発見したのがこちらです。パンタ台や配管を削ってクハ化してあり、確か製品にはなかったエメラルドグリーンの常磐線仕様になっていました。



さっそくブレーキシリンダの無いDT32と組み合わせてみると、目を細めなくても301系の姿に見えてくるではありませんか。



301系は、営団地下鉄東西線乗り入れ用に国鉄が初の量産アルミカーとして製作した意欲作です。しかし、窓・ドア寸法は103系そのものと言ってよく、あまりカチッとしていない(失礼)車体は改造ネタにはうってつけなのです。



各部をチェックしてみます。ユニットサッシの枠は301系のそれと少し違い、301系はもっと薄くて上辺と下辺の幅が太いのが特徴ですが、幅はともかく厚みは削ればなんとかなりそうです。サッシがモールドされた窓ガラス自体はどうもプラモ然としたもののようなので、オリジナルで作り変えた方がいいかも知れません。



ドアはなぜか縁に2段のスジが出ていますが、これを埋めれば逆に太い45°の縁取りが表現できそうです。併せてHゴムを削ればヨシ!この時点で「製作意欲メーター」の針が50%ぐらいまで振れたことを実感しました。笑



いかんいかん、冷静にならねば。。マイクロエースの発表によれば4両セットと中間車2両セットが発売予定とか。今手にしている1両を加えれば7連・・・これはまさに301系の登場時編成にぴったりです。メーターの針が75%まで振れてしまいました。

何はともあれ、このプラモ103系を「テツモ(鉄模)301系」に化かすことができるか検証する必要があります。失敗すれば登場時7両編成の夢が崩れてしまうリスクはありますが、そうならないことを祈りつつテストピースになってもらいます。ドアの周囲にパテを盛り、行先表示窓のフチを削り(この後窓埋めも)、雨樋を削ります。



雨樋を削ったのは、機械洗車を確実に行うために雨樋の位置が高められているからです。実際、どのくらいの高さに取り付けられているのか詳細図で確かめてみました。図中に屋根カーブの開始点から「床面上まで2,100mm」と書かれています。逆に雨樋の下辺までは55mmです。別図で床面から側板の下端までは206mmであることがわかるので、合計すると55+2,100+206=2,361mm、1/80換算で29.5mmです。



模型を測ってみるとほぼ29.5mmです!!プラモ侮れません。



ざっくりですがパテとサフで仕上げました。ドアのHゴムを削ってフチを45°平面に仕上げるのはハッキリ言って難儀です。7両分あと55か所やれと言われたら・・・。。しかし予想通り実車の雰囲気は出ています。フチを少し盛り上げると完璧ですがスジをつけるだけでもよさそうです。意欲メーター80%まで振れました。



このボディは幸か不幸か屋根板が薄く、車体の全高が約0.5mm足りないので、断面を雨樋に見立てたt0.5プラ帯板をわずかに車体からはみ出す位置に貼ります。



両端を少しナメて整形した屋根板をかぶせれば全高もぴったりです。意欲メーター90%超え!



当然、妻板との間にすき間ができるので穴埋め処理は必須ですが、実車はキャンバス止めこそ無いものの屋根布(ビニール?)を妻面まで巻き込んで接着したような構造になっているので塗装で隠せるでしょう。



意外と厄介なのが屋根と一体でモールドされたクーラーとベンチレーター台座の処理。



これも地道にカット&埋め戻しするしかないようです。メーターの針が60%まで下がりました。。



というわけで、なんとか301系らしき車体に改造できそうですが、数々の困難が待ち受けていることがシミュレーションできました。進むべきか退くべきか。。


そんな悶々とした状態を打破する出来事が起こりました。なんと、入手困難と思われていた正規の台車・DT34(カツミ)が7両分入手できてしまったのです。すべてピボットという難点はありますが、有名模型店2店舗の在庫リストを隅から隅まで探したら残っていました。これで少なくとも足回りは「なんちゃって」から卒業できます。



いや、ピボット軸受けをφ1.6mmドリルでグリグリやって「なんちゃってプレーン軸改造」をやったので完全に卒業できてませんww。 これは仮に手持ちのWB=26・φ10.5のギヤを組み付けてちゃんと動くことを確認したものですが、103系の仲間ですから実際はφ11.5車輪が必要です。調べたらWB=26&φ11.5というギヤはエンドウ、IMON、そして301系を製造したカツミのACEギヤでさえラインナップされていませんでした。WB=31などから切り詰めが必要です。



何だかんだで正規台車まで買ってしまったので後へ引けません。いつもの「毒を食らわば皿まで」精神でコレを調達しました。ホビーモデルの103系1000・1200番台用前面です。301系のお面に改造可能です。しかし高運転台改造用前面と違って分売されていません。側板が101系まんまなのをいいことに、103系1000・1200番台のクハ・クモハセットを買って側板を下河原線用5連に充当するというウルトラCを発動しました。



かくしてマイクロエースから103系プラキットが発売される前からお祭り騒ぎとなり、製作意欲メーターは振り切れ、創意工夫待ったなしとなりました。



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下河原線廃線跡1979

2023-09-21 11:32:36 | 中央東線周辺
引き続き下河原線と101系にまつわる写真や証言などを収集しているのですが、競馬の大きなレースが開催された日に東京や千葉から乗り入れたとされる直通電車の待機場所に関する興味深い情報を発見しました。これについては本稿の後半でご紹介しますが、これと少し関係する写真をまず載せていきたいと思います。

武蔵野線にその任を譲って下河原線の旅客営業が終了したのが1973年(昭和48年)3月31日。それから6年後の1979年に廃線跡を歩いていました。貨物営業は1976年(昭和51年)まで続いていたそうなので、鉄道としての機能廃止から数えると3年後で、まだ線路や架線柱がかなり残された状態でした。

フィルムカメラ時代で学生の身分となれば撮影枚数も限られます。もっと撮っておけよと当時の自分に言いたい気持ちを抑えて下図の地点から見た当時の下河原線の様子をご覧いただきます。撮影は1979年の春と思われますが詳細な日付は不明です。なお、地点⑥のみ、スキャンしたはずの写真もデータも行方不明になってしまったのでナシです。本当は今回のテーマに直結する貴重な写真なんですけど・・・。

(出典:国土地理院地図(電子国土Web)をベースに、下河原線ルートや撮影地点を加筆)


【地点①】
京王線との立体交差地点を南側からとらえた写真で6000系が通過しようとしています。右手が府中駅方向で、当時京王線は盛土の上を走っていました。左手の柵には布団が干してあるなど日常風景が広がっていますが、右手の線路脇にはゴミが散乱していて廃線の悲哀も感じられます。



【地点①拡大】
写真を拡大してみます。奥の方ではトラックが乗り入れていて既に施設の撤去作業が進んでいるようです。ほぼ同時期に撮影されたと思われるブログをどこかで拝見しましたが、ちょうどこの撮影地点も線路が剝がされて道路整備が始まっており、まさにギリギリのタイミングで記録できたのだなぁと感じたものでした。京王線の向こうに見える印刷会社は今も営業しているようです。



【地点②】
掘割になった南武線を越える鉄橋を南側から撮影しています。非常に高さの低いプレートガーダー端で、すぐ下を南武線が走っていたように記憶しています。



【地点③】
撮影地点が曖昧ですが、コマの順番からみて恐らく都道18号(鎌倉街道)と交差する踏切跡と思われる道路を北側から撮影しています。前方に多摩川対岸の丘陵が見えます。



【地点④】
分岐点です。左が東京競馬場前駅方向ですでに線路は撤去され、舗装はされていないものの写真のように地元の人の散歩道として使われているようでした。右が貨物線だった下河原駅方向で遠方に中央自動車道の高架橋が見えています。分岐器が一切撤去されていて、旅客営業廃止後も貨物線として活きていた様子がうかがえます。



【地点④拡大】
貨物線方向を拡大してみると中央道を越えた先まで架線柱が残っていることが確認できます。この区間はDD13が牽くミニ貨物列車の写真がよく出てくるので非電化と思っていたのですが、今回写真を改めて見返してみて架線柱の存在に気付きました。



【地点⑤】
東京競馬場前駅の跡地です。線路や架線柱などは一切撤去され舗装もされていますが、現在のような遊歩道としての整備はまだのようです。無邪気に走る女の子は、今では成人前後のこどもをもつお母さんになっているかも知れません。



【地点⑥】
先述のとおり写真紛失です。河原に出る手前の小道と交わる風景の中に架線柱の終端が写っていたはずです。ああ残念。。


【地点⑦】
多摩川の河原に出てきたところで菜の花畑の向こうの盛土が廃線跡です。水路を越えるような小さな鉄橋が確認できます。架線柱はなく非電化であることがわかります。もう少し左手に進むと下河原駅跡で恐らくまだ複数の構内線路が残っていたのではないかと思われますが、残念ながら記録はこのコマで終わっていました。




ということで今から44年前の下河原線の廃線跡をご覧いただきましたが、冒頭に書いた興味深い情報とは次のとおりです。

「中央高速付近より河原に向かって(左の荷はサントリーのビール瓶の山、この置き場は今も健在)。大きなレースのとき、101系がここに留置されていたことがありましたね。」
「倶楽部旅鉄」(旅と鉄道風景ーJIJIのフォトログ)様の投稿記事より引用

なんと、東京(や千葉)からの直通電車(101系7連)がサントリー武蔵野工場脇の貨物線区間で待機していたというのです。東京競馬場前駅方向への分岐点を越え、さらには中央道をも越えた先まで架線が張られていた理由が分かりました。

当時の航空写真を使って日本ダービーの日を再現してみました。サントリー武蔵野工場(の倉庫エリア?)の脇には東京から満員の競馬ファンを降ろしたばかりのオレンジバーミリオンの101系7連、東京競馬場前駅の閑散時は使わない2番線には千葉からはるばるやってきたカナリアイエローの101系7連が待機しています。そして1番線に到着したラッシュ用の101系5連からは、これまた大勢の競馬ファンが新聞片手に改札口を目指しています!

(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス(1974年12月21日撮影)に加筆)


と、まあこれは妄想なので鵜呑みにしてはいけませんが、101系電車がここまで入線していたことは確かなようです。航空写真をみると小さな水路様のものが何本か横切っていることは確認されるものの、踏切は無いようなのでこうした裏ワザが出来たのでしょう。あと、休日なら貨物も休みだったでしょうし。

興味は尽きない「下河原線を走った101系」証言集。皆さまも何か小耳に挟んだ情報・写真などあればお寄せください。

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