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行ってみたい町

2011-08-12 10:14:37 | Weblog
年を取ってきたら“冥土の土産”の準備と思っているのか、主人が『どこか行ってみたいところは無いか?』とよく聞くようになりました。私はいたって出不精なので、いつも言われてみれば行ってもいいような気はするのですが、どこといってことさら行きたいようにも思えないのです。いつもそんな風なのですが、昨夜ふと行ってみたいと思うところがありました。

私が小学校2、3学年を過ごした、山口県下関市吉田町土肥(土井?)。商店街のT字路の角にあった上田(?迫田でしたっけ?豊前市八屋町と混同しています!!)商店。そこから小道に入って小さな林(??多分お社があったのだと思います)を抜けて、お醤油の醸造所だった岡田さんのお家の横を通り過ぎると、お寺に通じる道と交差しています。そのお寺の下の方にあった一番仲良しの“村田佳代ちゃん”のお家。佳代ちゃんも今では私と同じ還暦を過ぎたおばさん(おばあさん??)ですね。でも私の記憶の中ではいつまでもはにかみ屋の優しい佳代ちゃんです。

その交差した道を突っ切ってすぐのところが、私達の吉田でのお家でした。その道は川沿いの道で、小さなお庭が道と同じ高さ、お家はそうですね、4、50センチだったでしょうか、一段高いところにありました。柿の木があって大きな欅の木もあって、下の川には石段で降りて格好の遊び場でした。その川はいつも弟と鮒取りをしたりいろいろ楽しい思い出がありますが、その川が台風で氾濫したことがありました。2メートル以上は下を流れる川でしたが、大増水で一面水浸し、下段の庭はもちろん自宅も床下浸水でした。

子供だった私達は風が止んだ後も水浸しの家の周りが嬉しくて(?)縁側からカエル釣りをしました。夜中にケヤキの大木が折れて屋根に落ちたこともあって母は眠れぬ夜を過ごしたと後で聞きました。父は台風もあってか、小月基地どまりでしたから、心細かっただろうと思います。その台風は当時最大級のもので、家の前の小川も合流する本流は国道の橋が流され、同級生だった山口君(?)が自衛隊機で救助される写真が新聞に載ったほどでした。増水が落ち着いた川辺に降りて、私は初めて蛇が水面を泳ぐのを見ました。

自宅前をもっと先に進むと、私が“瓜泥棒”になった同級生のお家と畑がありました。同級生の名前は田中さんだったと思いますが(間違っていたら、お許しください)、彼女がいいと言うので半信半疑ラジオ体操帰りの朝の畑で瓜を食べていたら、お父さんから二人ともたいそう怒られて、お説教されました。その後はお母さんから瓜のおやつをいただいて、楽しく遊んで瓜をお土産に抱えて帰りました。生涯忘れられぬ思い出です。当時はまだまだ食糧難??というか、貧しい時代で農作物は今よりもっと大切なものだったと思います。

地理はそれくらいしか覚えていませんが、お醤油屋の岡田さんの道を挟んだ向かい側に、大きなお屋敷がありました。半分以上荒れていたように覚えていますが、土塀を張り巡らせた大きなお屋敷でした。確か『ニセンさん』(後記:弟の記憶によると、ニセンさんは彼の同級生のお医者さんだそうです。お屋敷との関連は覚えていないと連絡をくれました。)と呼んでいたように覚えています。そのニセンさんのお屋敷の横の一本道で、私と弟は父から駆け足の特訓を受けました。和服に下駄を履いた父を『待って~!!』と叫びながら追いかける弟と私!!!父は士官学校で『カモシカの足』と言われたんだそうです。足の遅い息子と娘は何とも我慢がならなかったんでしょうね。(後日談ながら私の4人の子供のうち中二人は駆け足が得意で、父は孫の運動会で何とか楽しみを見つけました。)

吉田町には高杉晋作を祀る東行庵という尼寺がありました。高杉晋作は西行法師に倣って号を東行としたので、東行庵というのです。当時庵主様は谷玉仙尼といわれる方でそれは素晴らしいお方でした。弟は東行庵の庵主様が園長先生を務められた幼稚園に行きました。菖蒲の季節、紅葉の季節、暇があると父は子供達を連れて東行先生の公園散歩をしました。とても懐かしく思い出します。記憶の中のここかしこ、今ではどんなふうになっているのでしょうか・・・・・・。




それでは今日も:

     私達は、早く横田めぐみさん達を取り返さなければならない!!!
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