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マクロビオティックインスピレーション・随想古事記・日本語と歴史・バベルの塔・日々雑感

言葉というもの1

2015-07-17 15:08:13 | 父の背負子2(最終章・これを知るために)

私達は日常何も思わずに言葉を使って暮らしていますが、そもそも『言葉』って何だとお思いですか。どうして相手の言った言葉を、そういう意味として私が受け取っているのか・・・・・・不思議に思われたことはありませんか。そして言葉というものがそのまま意味だということに、感動されたことはありませんか。

 

言葉』って何なのでしょう。『意味』とは何なのでしょう。私達にとってあまりにも日常的なものになってしまっているので、『言葉』というものについても『意味』ということについてもあまり考えたことがありません。でもいみじくも言ってしまったように、言葉は『もの』であり、意味は『こと』です。或いはまた、言葉は『力』(を音に移して組み合わせたもの)であり、意味はそれによって引き起こされた『結果』というか、これまで何度も記事にした『マンダラ』というか・・・・・・。が条件によって様々な結果として現れることは、私達もよく知っていますよね。例えば言葉は音の組み合わせとして発せられていますが、発声の条件(口の形など)を変えると様々な音(意味)として聞こえてくるし、同じ音でも、例えば救急車とすれ違うと、急に間延びした音になったりする・・・・・

だから言葉というものは、自分が感覚しているを音に移して外部に発し、その音の影響を受け取った人が同じ力の感覚として受け取っているもの、ということになります。そしてその意味とは、その言葉で受けた影響、つまり結果ということになります。

 そして思い起こされるのが、わが日本の『言霊』思想と西洋の思想の根底にある『初めに言葉ありき(In principio erat Verbum.)』・・・・・・この二つはどちらも能動的なものです。があって結果をもたらすものです。(Verbは英語の動詞をあらわす単語になっていますし、言葉を表す単語の接頭部分でもあります。)つまりはどちらも『力』の一つの形だと言っているのです。初めに言葉ありき(In principio erat Verbum.)・・・・・これは神という原存在があって、宇宙となり、その宇宙に 神の言葉として存在が現れた・・・・・というわけですよね。発現させる力と発現したものという意味を持っているわけです。

そしてとどのつまり、『力』とは何か、という最終命題に突き当たるのです。この『力』によって私達は生かされ、いやそれよりもなお以前に、その『力』によってこの世が発現したもの・・・・・『なぜ私がここにいるのか』『私は誰なのか』といった疑問・・・・・もろもろの心理学的哲学的命題・・・・・それに応えているものは、地球上を探しても『カタカムナ』以外にありません。世界中の宗教を研究してください。最終的には『信じるか否か』といったあやふやな形の回答以外ありません。それでは信じたいという希望以外に何の解決策も見い出せないのです。科学も現状分析は精密にしてくれます。力の様々なバージョンも定義してくれます。だけど音声がなぜ電気信号に変わるのかという疑問に答えてはくれません。電気信号がなぜ色彩に変わるのかということもわかりません。『力』の様態についてはこたえられても、『力』そのものが何かということについては分かりません。電気だっていったい何なのかわからないのです。科学は神様が何なのか語ってはくれません。本当は神様を明らかにするべきものなのです。

 

『カタカムナ』を現代に取り戻してくださった楢崎先生も宇野先生も亡くなられました。だけど、『カタカムナ』を知らなくても、この『言葉』と『意味』の機序について考え進めば自ずとわかってきます。それに私達にはお二人の先生が遺された出版物があります。そして何よりありがたいことに、『カタカムナ』は日本語なのです。『カタカムナ』が日本語となり今も生きています。私達日本人は、何とありがたいことに、『カタカムナ』の音の中に生きています。

一つ一つの音を注意深く正しく頭(あたま)の中に渦巻かせなければいけません。頭とは脳の容器であり、脳とは渦巻(波動・力)の受信機発信機なのですから。そうすれば自ずと私達の頭は『力』の発露として私達の頭(カシラ)となるはずです。この修行に終わりはありませんし、これこそが人生なのだろうと思います。そしてこの修行は楽しく喜びにあふれています。こんな記事を書いているのも、今は誰もどうでもよいことなのかもしれません。ですがいつか必ず『カタカムナ』が必要とされる時代が来る・・・・・その時誰かの記憶の隅に『カタカムナ』があれば、それから楢崎先生と宇野先生の心血をよみがえらせることが出来ると思うからです。憐れにも私には『カタカムナ』を語る能力がありません。だけど『カタカムナ』があるということを伝えたいと思います。

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マンダラ・マンダラゲ・命の仕組み

2015-01-10 12:30:54 | 父の背負子2(最終章・これを知るために)

曼荼羅・まんだら・マンダラ・・・・・・昨年一度記事にしましたが、またそのマンダラです。『マンダラ』とはこの世に現れてくる働きと現れてきたものを示す日本語です。『曼荼羅』がたとえ外国語起源の音を漢字に移し替えられた言葉にしても・・・・・です。日本語の起源であるカタカムナを再び現代に呼び戻された楢崎先生・宇野先生がお示しになったように、カタカムナ人の言葉は、一つのものの名前を表す音によって、それがどうやって現れてきたのか、どういうものか、ということがわかるようになっています。その音を日本語として私たちは使っているので、日本人はみんな『マ』『ン』『ダ』『ラ』と聞くと、意味は分からないにしても、何かぼんやりと『マンダラ』というものを理解できるような気がするようになっています。

今回の『マンダラ』ですが、これは仏教用語で日本で発生した言葉ではありません。が、何度も言うように、日本語で良く分かる・・・・・そしてそれに派生しそれが引きずり、あるいはそこにまとわり漂っているものもわかってくる・・・・・それがカタカムナ人の作った日本語の音の奥にある、日蓮上人ではありませんが、『妙法』とでもいうべき性質です。カタカムナの説明をする能力が無いので(これは、夫々各人が一念発起して、あるいは必要に迫られて、必然的・偶然的に、知る努力をする以外にありません。)、日本語の音の意味として『マンダラ』の意味を簡略に言うと、

    この世に在るものは、その前段階の在るもの(まだこの世には無いけれど、それになるようにまでなっているもの)に対して、そのものの持つ本質的力が働いて(その力は常に働いているので)現れたもの。 あるいは現れること。    

といったような意味になります。こういった言葉での説明はなかなか難しいので、その境地を体得するしかないことになりがちです。それで昔から修験道にも仏教にも修行が、難行・苦行、あるいはお遍路、野良仕事の中でふと体得する自然派修行・・・・・・いろいろ行われてきました。ですがカタカムナ人は、音を聞いたら分かるように、言葉を作ったんです。説明しなくてもわかるように・・・・・それが日本語のもととなり、日本人は何となくそうやって分かり合って暮らしてきました。そこに落とし穴もありました。いつも注意を喚起する人、諭し示す人が引き継がれること・・・・・それが途絶えると、初めのうちはまあ何とかなっていても、段々立ち行かなくなる・・・・・。それで、天武天皇もお嘆きになりました。「もはや、(カタカムナ人以来の?)言葉を理解できなくなってきた・・・・・!!!!!」無理もありません。時代は一万年も移って『バベルの塔』事件を経験して民族相争い、極東のわが日本は『大和』の理想を掲げて五族融和の錬金国家になっていたのですから。

 

前置きが長くなってしまいましたが、音としての『マンダラ』で知り得ることは、

     『マンダラ』はあなた自身であり、私であり、この世に生きとし生けるものであり、この世に在るすべてのもの、です。生物無生物、この世に在るものすべてのこの世に在る時間、すなわち『イノチ』の仕組みです。

古今東西人類の発生時から現代に至るまで、人類の最大関心事は『命』です。考える能力を獲得して以来それについて考えなかった人類はいません。身の回りに起こる親しい人の『死』、段々温かみを失っていく人の亡骸を目の前にして、命の来し方行き方を思わない人はいません。命を長らえること・・・・・これが果てしない人類の夢になりました。ついこの前の『小保方さん事件』もそうした人類の最先端の夢(私は賛成できませんが)の周囲に起きた事件です。『希望』によってゆがめられた観念ではなく、明晰で冷徹な事実認識として、命はどうやって生まれるのか、命はどうやって続くのか、あるいはどうやって絶えるのか、そして死んだらどこに行くのか、(命がもともと何なのか、)にもはっきりと答えが欲しい!!!!!

『マンダラ』はズバリその答えであり、『マンダラゲ』はそうやって現れた命が次に現れたもので次々に変化していく様です。『ケ』とはそういった意味です。とどまることはありません。命は続いているもののように見えますが、次々に現れてくるもの(マンダラするもの)だからです。『マンダラ』は『マンダラゲ』になり、またそれにマンダラして『次のマンダラゲ』になる。ずっとそれの繰り返し・・・・・次のマンダラを受け取れなくなるまで。

この次の『マンダラ』を受け取る能力がその人の健康度(生命力)です。この能力は様々な条件によって変化します。それが『曼荼羅図』になりました。中心の大日如来が最初の『マンダラ』です。あるいはそれ以前の大本です。それが『環境』や『食』や『思い』などの条件によって次の『マンダラ』の受け取り方が異なって、普賢菩薩や観音菩薩などのそれぞれの『曼荼羅華』を作っていくのが『曼荼羅図』として示されています。とりあえずの問題はどうしてその『健康度』を持つか、ということです。その健康度を持っていれば、あらゆる変化や条件に応じた次の『曼荼羅華』を作ることが出来るのです。そうして自分の人生という『曼荼羅図』を展開して行けます。つまり『命』を継いでゆけるのです。

その方法は、簡単です。そして最も難しい!!!!!『イノチ』の音を体全体に反響させる・・・・・というか、意識するというか、増幅させるというか、それだけでいいんです。この世はDNAとRNAのようにコピーすることによって成り立っているんです。だから発音(発声)することによって同じ心(命の発生)の波動がコピーされることになっているんです。命の元と向き合って、オウムのようにオウム返しするんです。それこそかしこみかしこみ、ありがたみありがたみ、その元から『マンダラ』され続けてきた『イ』『ノ』『チ』という音を体中で発声するんです。そうすることが受け取ることになります。だけど私の言っていること、わかりませんよね・・・・・、現代では送信者と受信者が同じ振動の性質を持っていないんです。だから段々説明がややこしくなる!!!!!これが私達の現代の『バベルの塔』、どうしたらいいんですか?????・・・・・そしてこれが、『ひれふり山教室』が始まった理由であり、私を含めた教室の面々が直面している問題です。

 

暗中模索というか試行錯誤しながらですが、この『命』の仕組みを取り入れて、マクロビオティックを広めることが出来ればいいなと思います。一般的に言われている『食』のみをマクロビオティックの方法論にしては、この人生は融通の利かないものになります。多くの人に受け入れられないものになる・・・・・かもしれない。マクロビオティックでいう邪食をしていても、長寿の夢を果たす人もいる・・・・・悟るためにお精進を食べていても、生臭坊主もいるし、悟りに辿り着かない修行者もいる・・・・・それどころか、破戒的生活をしていても悟るものもいる・・・・・・以前記事にしたルイジ・コルナオ翁は一日一食の少量のワインと卵で100歳余まで生きました・・・・・。乱暴に言えば、本当はどうでもいいんです。

もちろん『食』は大事です。『食』はその人の質を決める・・・・・というより、質を決めるための前提条件です。小学校の実験を思い出してください。青いインクの水にさした花は青く染まり、赤いインクの水にさした花は赤くなりました。その後の条件によっては青を緑に変えることは可能です・・・・・でも赤を緑にするのは至難の業ですし多分不可能でしょう。これが『食』という身体の物質的条件の世界です。そして『食』の中で最も強力な条件は、『量』だと思います。どんなに悪食でも、量さえ少なければ、毒を食べない限り、ひどいことにはならずに死ぬまで生きます。ということは、もしかすると赤に近づくことが出来るのかもしれません。『貪り食わない・分かち合う』という思いと、『他を自の必要に変える』という生物の食の掟で、『光』の世界の赤を緑にすることが出来る波動的条件になるからです。『食』は『食』だけにとどまらず、条件は互いに重複し関わりあっています。そうした『食』と『思い・意識』と、『環境条件』、つまりどこにどんなふうに生まれたか、どこで誰と何と出会ったか、いま何をしているか、どういう風に思っているか、どういう事態になっているかなどというものによって、私達は次のマンダラを生み出し、それにまた係っていくという自分の曼荼羅図を紡いでいるわけです。

 

また人間の課題として掲げられているのが、次の問題だろうと思います。

誰しもが間もなく死ぬであろう時を目前にする。その時『どうありたいか』、あるいは『どう思うか』。自分は人生の意味が分かったか。自分の人生はいったい何だったのか。あるいはもっともっと前に、毎日どう生きるか、どう思うか。いつでも死を迎えられるか。

長生きすることばかりが昨今の社会の希望ですが、それだと人生の最後は敗北ということになります。死を見つめないと老いを忌避し臨終に狼狽することになります。それだけは避けたいものだと思います。私のこうした意見もそれぞれの『マンダラゲ』の条件に加えて下さるというのが、教室に来てくださったり記事を読んでくださったり、ともかくも袖振り合いお会いしたという意味だと思います。今年もよろしくお願いいたします。

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平成27年、明けましておめでとうございます。

2015-01-03 07:47:04 | 父の背負子2(最終章・これを知るために)

新年おめでとうございます。今年がどんな年になるか・・・・・私は新しいブログ・カテゴリーの『最終章・これを知るために』を充実させようと思います。昨年は私にとって思いもよらぬ経験をすることになりました。それでうかうかしてはおれぬとの思いに至りました。この経験を絡めながら、記事を書こうと思っております。

 

自分の『年』・・・・・生まれてこの方何度地球の公転に立ち会ったか(?)ということですが、それだけの時間を生きたという目安ですよね。まあこれは、太陽と地球の質量と距離は、人間の歴史の長さくらいでは目盛が変わることはないでしょうから、『その人はいくつ』といって何の問題もないだろうと思います。ですが、こと『時間』となるとそう簡単にはいきません。以前もちょっと問題にしたように記憶していますが、『時間』って何だと思っていらっしゃいますか。

『時間』・・・・・『時間』・・・・・『時間』・・・・・。『時間』は年でも日でも、1時間という時の時間でも分でも秒でもありません。それは時間を外から目盛りした単位であって、『時間』そのものではありません。

結論を言うと、それは『生きている間(マ)』のことです。同じような日本語に『人間』や『世間』があります。有名な織田信長のエピソード、ご存じだと思いますが、信長が好んだ幸若舞の『敦盛』、気分が乗れば舞い唄ったといわれています。

       人間五十年、下天のうちをくらぶれば・・・・・・

この『人間』は『人として生きている間』のことです。『世間』は『この世(私説:お天道様がある世)が生きている間』です。人間は人としての時間、世間は道理が通っている時間の世、そして『時間』という言葉は、『トキの間』で『生きている』、あるいは『生かされている』仕組みを表した言葉です。

つまり『時間』というものは、生きているものの生きている間だけに関わっている『命』そのものであり、その『命』が発現する仕組みを表す言葉が『トキ』です。これは私達日本人の言葉を作り出したカタカムナ人の洞察ですが、私達現代人はこの1万年も前の先祖の洞察に脱帽する以外ありません。私たちは『時間』の本質を知りません。ですがその本質を表す日本語を日々使っています。そして何とはなしにその恩恵を受けています。なぜならカタカムナ人の作った日本語は、その本質と仕組みと現れ方を全部含めた脳波動を起こすからです。『言霊』といわれてきた所以もここにあります。

そしてとどのつまり、『トキ』によって発現する『命』も、おしなべて寿命があるわけではなく、『トキ』する条件が整っている間生かされるというわけです。友人である自然食品和み堀江社長の会社名は『トキ』というのですが、『トキ』する条件を整えるための商品を提供したいのだと解釈しています。余談ながら、今年も自然食品和みさんをよろしくお願いします。

 

今年はこうした私の体験的解釈を発表していきたいと思っています。一番初めに書きましたように昨年後半様々な経験をしました。そのことも間もなく整理して公表したいと思いますが、その体験によって後押しされています。多少焦りもあるのかと・・・・・?????も、思います。付き合ってくださる方が多いといいなあと希望しています。

 

 

早く記事を書いていたのですが、昨年末久司先生がお亡くなりになりました。それで余計にお年賀が『命』と『時間』というものについてになってしまいました。『年が明ける』ということがどんなことなのか、先生のお心がどんなものなのか、考えているうちに公開が遅くなってしまいました。今年もよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

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自分とは何か?

2014-08-08 09:21:08 | 父の背負子2(最終章・これを知るために)

物心ついた時から、『自分の意味・人生の意味』をさぐっては、何かしら意味があるという希望と、実は何も無いのではないかという失望の繰り返し・・・・・・誰しも同じですよね。そうして私は最終的にカタカムナに出遭い、マクロビオティックに出遭うことが出来た60数余年の人生・・・・・・・・私のマクロビオティックを一冊の本『マクロビオティックに学ぶ暮らしの知恵』にまとめ、私の歴史を先年このブログ【マクロビオティック・インスピレーション】で『随想古事記』というカテゴリーにまとめ、今日『最終章・これを知るために』というカテゴリーを作りました。私の人生はこれを知るためにあったんだ!!!という内容を集めようと思っています。

人間の知恵と知識・・・・・・いつも言っているように、これは全く『受け売り』の世界なんです。誰かの新発見!!!???・・・・・これだって先人の発見と知識が土台にあればこそ・・・・・・・ピタゴラスを抜きにしてユークリッドはなく、アルキメデスを抜きにしてニュートンはない・・・・・・そういうわけで、私は我が父母の子に生まれ、幼い日に『豊宮日七夕織姫大明神(トヨミヤヒタナバタオリヒメダイミョウジン)』の語句に触れ、日本語に引かれながら外語大のロシヤ科に行き、結婚をして母になり子供たちに最良のものを探り、いつも宣伝をしている自然食品和みの堀江さんに出会って『カタカムナ』にたどり着き『マクロビオティック』を手にしました。その上で、私は川崎先生の御本に触れることが出来ました。

これは偶然なんですけれど、もちろん偶然ではありません。日蓮上人は言っておられます。『・・・・・能詮は報身、所詮は法身、色相の文字はすなわちこれ応身なり・・・・・・』・・・・・・この世に現れてくる報身は善果もあれば悪果もある・・・・・つまり条件による、それもとどのつまりはこの世を動かしている『力、つまり法』によって現れたものであり、そのさまざまな姿かたちは、その諸条件が法に触れて発現したものである・・・・・・と。実はこれが『曼荼羅』なんです。そしてそれが『マンダラ』という音の意味を説明しています。このようにして人間も発現するんです。そして私が私に生まれて、私の人生をたどったというわけです。そうして以前記事にしたように、日蓮上人が夢の中で白隠禅師となられて、いま私は『念々従心機、念々不離心』といった心境を得ている・・・・・それで今日決心しました。自分の知りえたことを知りたい人に、以前の私がそうだったように捜している人に、いつでも遭遇することが出来てその方の応身を果たしていただけるように、

        私も土台になりたい!!!土台になろう!!!条件になろう!!!

誰かが蹴躓いて立ち上がる石になりたいと思います。人生に意味があるとしたら、そんな石ではないでしょうか。思えば先人たちは偉大な石です。山のような岩もあれば、名もない小石もある・・・・・・でもどれ一つ欠くことはできません。私の小さな石に誰か、蹴躓いてください!!!

 

 

それで今日の記事の題名、『自分とは何か』。簡潔に言います。説明が足りないかもしれません。でもこの足りない言葉を吟味することが、蹴躓いて立ち上がるということだろうと思います。

自分・・・・・この世にあらわれた一つ一つのものをカタカムナ人(私の言うワタツ人・随想古事記)は『タマ』と名づけました。この『タマ』が持っている、言わば、表面張力とでも言うべき範囲感覚(人間というタマは意識し言葉にするものです)『自分』という意識を持たせます。表面張力の『力のもと』が『命』であり、その力のおかげで表面張力が発現して、形態を保っています。『命』が自分なんですけれど、『自分』とはその生かしている力の及ぶ範囲です。

 

それでは今日も

       私たちは横田めぐみさんたちを取り戻さなければならない!!!

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心とは何か?

2014-01-19 12:09:26 | 父の背負子2(最終章・これを知るために)

実は例によって夢を見ました。それで今日の記事を書いています。長年『心とは何か?』というテーマを温めてきましたが、はっきりと言葉化することができなかったのです。そして今朝方の夢によって、少なくとも自分にとっては、それを果たしました。

『心』とは、自分が存在していることそのことにより発する波動の、『自己認識』です。

そもそも『心』という言葉がどうして出来たのか・・・・・・・それはもちろん日本語としての『心』の出来方に依っています。とどのつまりは『カタカムナ』に依拠せざるを得ないと思います。そしてまた、その正確さや正当さが『カタカムナ』の正当性を裏付けることになると思います。

 

これまで誰も『心』なるものの正確な意味、または機能を明確にしていません。それはつまりこの世のものの『存在』という事態を理解していないからです。極短な例をとれば、『私』を知らないのです。みな便宜上名前や立場で呼び合っていますが、『私』というものを理解していないからです。

               『私』とは誰ですか?

『私』といつも言っていますが、そういう自分をはっきり自分で知っていますか?あるいは誰だと言えますか?『ワタシ』とは『今』ここに形としてあるものです。その『今』の内部(自分の場合)を『此処』といいます。これは全部カタカムナの海津(ワタツ)人が作り出した言葉です。それで、『私』は『ワタシ』、『今』は『イマ』、『此処』は『ココ』と音のみの形で表現した方が良いものです。そして『イマ』とは、存在の原初、というか、芯というか、始まりであり基礎というべきものです・・・・・・。(この一つ一つの音の意味は、それぞれが耳を澄まして呼び覚ますべき感覚です。)あえて簡単にまとめると、その『イマ』のひとかたまりで形を持ったものが『ワタシ』です。そしてその『ワタシ』の内側にあって、自分の境界を感じているのが『ココ』です。この三つを合わせたのが、現在私たちが使っている『私』という」日本語です。つまり・・・・・・

               『ワタシ』=『イマ』=『ココ』です。

形をもつ前はなんだったかというと『力(チカラ)』でした。それは、現象界の前・創造の前・無限と言われているものなど、人間の認識外の考えても無駄であるけれど、確かにあるものをカタカムナのワタツ人は『カ(か)』と呼びましたが、それが私たちの世界に間断なく現れているもののことです。『イマ』とはその力が私たちの世界に現れたその瞬間の存在のカタチです。その力が継続して『ワタシ』=『イマ』=『ココ』に働きかけないと(つまり、イマイマとイマが続かないと)、それこそ『今』という瞬間的な『ワタシ』で終わってしまいます。『私』という継続的な存在であるためには、次々に『此処』に『今』が発生しないといけません。私たちはそれがかなって生きています。それがなくなると『ワタシ』というカタマリを維持する『イマ』が本来持つ力を失い、分解、つまり死んでいきます。そして『ココ』とは『イマ』の繰り返しを意味している音なのです。

その『力』が『ココ』に現れる様子、つまりイマイマと発生し続ける様子を、カタカムナのワタツ人は『ロ(ろ)』と呼びました・・・・・・ココ・ロ・・・・・・・。日本人は現代までその様子を織物の言葉として持っています。『絽』・・・・・・この美しい夏物の織り模様はカタカムナの響きそのままです。少し違いを持って発生してくる様子・・・・・・この世に同じものはひとつとしてありません。私たちは今も同じカタカムナの日本語を使う日本人です。そしてそれが『心』の原語だと思います。

『ココロ』に関わる力の波動・・・・・・それはどんなものにもあります。生物にも無生物にも・・・・・・動物にも植物にも・・・・・・・そして人間はその波動を翻訳し言葉として認識する大脳を持ったのです。その結果私たちは『生きている』が故の波動を『心』として自覚することになりました。『心』は私の命の波動です。ですから『心』に従うと喜ぶことになります。それで喜ぶと、生きる力を増加することになります。生きる力を強くします。心に背くと生きる力を削ぐことになり、喜びを失い生きていけなくなります。

 

夢で言葉化したものを記事にしてみましたが、わかりやすかったかどうか自信がありません。でも関心のある方のヒントにでもなるだけでも・・・・・と思います。

 

それでは今日も:

        私たちは横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!

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