実は例によって夢を見ました。それで今日の記事を書いています。長年『心とは何か?』というテーマを温めてきましたが、はっきりと言葉化することができなかったのです。そして今朝方の夢によって、少なくとも自分にとっては、それを果たしました。
『心』とは、自分が存在していることそのことにより発する波動の、『自己認識』です。
そもそも『心』という言葉がどうして出来たのか・・・・・・・それはもちろん日本語としての『心』の出来方に依っています。とどのつまりは『カタカムナ』に依拠せざるを得ないと思います。そしてまた、その正確さや正当さが『カタカムナ』の正当性を裏付けることになると思います。
これまで誰も『心』なるものの正確な意味、または機能を明確にしていません。それはつまりこの世のものの『存在』という事態を理解していないからです。極短な例をとれば、『私』を知らないのです。みな便宜上名前や立場で呼び合っていますが、『私』というものを理解していないからです。
『私』とは誰ですか?
『私』といつも言っていますが、そういう自分をはっきり自分で知っていますか?あるいは誰だと言えますか?『ワタシ』とは『今』ここに形としてあるものです。その『今』の内部(自分の場合)を『此処』といいます。これは全部カタカムナの海津(ワタツ)人が作り出した言葉です。それで、『私』は『ワタシ』、『今』は『イマ』、『此処』は『ココ』と音のみの形で表現した方が良いものです。そして『イマ』とは、存在の原初、というか、芯というか、始まりであり基礎というべきものです・・・・・・。(この一つ一つの音の意味は、それぞれが耳を澄まして呼び覚ますべき感覚です。)あえて簡単にまとめると、その『イマ』のひとかたまりで形を持ったものが『ワタシ』です。そしてその『ワタシ』の内側にあって、自分の境界を感じているのが『ココ』です。この三つを合わせたのが、現在私たちが使っている『私』という」日本語です。つまり・・・・・・
『ワタシ』=『イマ』=『ココ』です。
形をもつ前はなんだったかというと『力(チカラ)』でした。それは、現象界の前・創造の前・無限と言われているものなど、人間の認識外の考えても無駄であるけれど、確かにあるものをカタカムナのワタツ人は『カ(か)』と呼びましたが、それが私たちの世界に間断なく現れているもののことです。『イマ』とはその力が私たちの世界に現れたその瞬間の存在のカタチです。その力が継続して『ワタシ』=『イマ』=『ココ』に働きかけないと(つまり、イマイマとイマが続かないと)、それこそ『今』という瞬間的な『ワタシ』で終わってしまいます。『私』という継続的な存在であるためには、次々に『此処』に『今』が発生しないといけません。私たちはそれがかなって生きています。それがなくなると『ワタシ』というカタマリを維持する『イマ』が本来持つ力を失い、分解、つまり死んでいきます。そして『ココ』とは『イマ』の繰り返しを意味している音なのです。
その『力』が『ココ』に現れる様子、つまりイマイマと発生し続ける様子を、カタカムナのワタツ人は『ロ(ろ)』と呼びました・・・・・・ココ・ロ・・・・・・・。日本人は現代までその様子を織物の言葉として持っています。『絽』・・・・・・この美しい夏物の織り模様はカタカムナの響きそのままです。少し違いを持って発生してくる様子・・・・・・この世に同じものはひとつとしてありません。私たちは今も同じカタカムナの日本語を使う日本人です。そしてそれが『心』の原語だと思います。
『ココロ』に関わる力の波動・・・・・・それはどんなものにもあります。生物にも無生物にも・・・・・・動物にも植物にも・・・・・・・そして人間はその波動を翻訳し言葉として認識する大脳を持ったのです。その結果私たちは『生きている』が故の波動を『心』として自覚することになりました。『心』は私の命の波動です。ですから『心』に従うと喜ぶことになります。それで喜ぶと、生きる力を増加することになります。生きる力を強くします。心に背くと生きる力を削ぐことになり、喜びを失い生きていけなくなります。
夢で言葉化したものを記事にしてみましたが、わかりやすかったかどうか自信がありません。でも関心のある方のヒントにでもなるだけでも・・・・・と思います。
それでは今日も:
私たちは横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!