名 称:女人堂(にょにんどう)・ 女人道(にょにんみち)
形 態:御堂・巡礼道
選 定:埼玉県選定重要遺跡(名称:旧慈光寺跡 昭和51年〔1976〕10月1日選定)
所在地:埼玉県比企郡ときがわ町西平(旧・都幾川村)
ときがわ町(旧・都幾川村)西平にある天台宗の寺院「都幾山一条法華院慈光寺」は、1300年の
歴史を持つ埼玉最古の寺院で、坂東三十三観音霊場第九番札所になっています。
観音堂や本坊とその周囲は何度が訪ね歩きましたが、『女人堂』については通りすぎていました。
今回はその女人堂と女人道を散策してみました。
女人堂とは女人禁制の地で、女性が参籠 して読経や念仏をすることができるよう結界の外に設けら
れた堂。
大野東松山線(県道172号)を堂平山方向に進み「宿」交差点を右折し慈光寺方向に行くと少しし
たところで追分になります。
左を進むと霊山院に通じ、右が慈光寺坂ですが、上まで行けば合流しますのでどちらから行っても
霊山院・慈光寺に行けますが・・・
この左側の道を行ったことがなかったので少しだけ歩いてみました
慈光寺川に架かる橋のたもとに「八臂弁財天(はっぴべんざいてん)石仏」があります
八臂弁財天石仏の背後から女人堂方向を
大きな「女人堂」石碑 右にある石標には「九丁目」と刻まれていますがこれは何を意味するの
でしょうか?
ここは「山の上り初めの一町(一丁)にあり」と言われる場所なのですが
【新編武蔵風土記稿】による慈光寺の縁起(平村)には、「慈光寺 慈光山の上にあり、麓より登
ること九丁餘なり、・・・」とあるそうですのでこれと関係あるのかも知れません
『女人堂』境内
石造物 中には「光明真言」と刻まれたものもあります
【国宝「慈光寺経」装飾法華経提婆多品】説明板
2段目に
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諸説伝承によると、この女人堂も平安初期において、女人禁制のため、慈光坂途中に建立されて
いました。女人信仰の御堂として世々、増改築や移設もされ、この地元住民の遠きし親達の誠実な
祈り尊き志により護られ維持されてきました。
このたび、山頂の慈光寺に伝来する国宝「「慈光寺経」の内、金泥文字の剥落はあるもののほぼ
完全な姿で伝えられてきた「装飾法華経提婆多品第十二」を拡大陶窯焼成して、諸衆の祈念に、と
りわけ女性の幸せのために掲立しました。
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とあります
『女人堂』
上掲の【国宝「慈光寺経」装飾法華経提婆多品】説明板にあるよう、元々、女人堂は慈光寺坂途中
に建立されていたものが時を経てここに移設されたとあります。いろいろと調べてみると、
女人堂の創立は、宝永5年(1708)・ 再建 文化3年(1806) で
現在の地に移転したのが 明治30年(1897) とのことです
扁額【女人堂】 慈光寺第百〇六世大僧正頼憲 揮毫
格子の隙間から堂内を覗かせていただきました
厨子の背後に掲げてあるのが「装飾法華経提婆多品第十二」を拡大陶窯焼成したもののようです
【入比坂東三十三ヶ所観音札所 一番都幾山女人堂】
入比坂東三十三所観音霊場とは、入間郡越生町・比企郡(ときがわ町・鳩山町・嵐山町)にある
33寺院を巡る観音霊場で、享保年間(1716-36)に開創したといわれます
慈光坂を上がって行って暫くすると【僧坊跡】と刻まれた石標がある平場があります
その名の通り僧坊があった場所で慈光寺には隆盛時には75の僧坊があったと言われます
特にこの付近に多くあったようで、僧坊跡とみられる平場が見られます
「現慈光寺を中心に一山七五坊の痕跡が明らか。約150haの範囲に130ヶ所余りの削平地が僧坊跡
として雛壇造成されている。平安時代から江戸時代までの遺物が山内に散布する。ところにより礎
石あり」ということから
『旧慈光寺跡』の名称で 昭和51年(1976)10月1日 埼玉県選定重要遺跡に選定されています
【都幾山慈光寺案内図】 (一部加筆してあります)
本坊下の駐車場に設置してあるもので、元禄10年の絵図面を基にしたようですが、当時の参道と
現在の参道(車道)では若干の相違があると思われます
山一帯に僧坊等があったのがこの絵図からも窺い知れます
なお、(県指定重要遺跡)と書かれていますが、これは正しくはありません
埼玉県の文化財(史跡関係)の指定区分は「県指定史跡」、「県指定旧跡」があり、その下位に
「県選定重要遺跡」がありますが県指定重要遺跡というのはありませんので、上にも書いたように
「県選定重要遺跡」が正しい呼称です
まあ、案内図ですし、一般の方はそこまで気にはしないでしょうが・・・
元々の『女人堂』があったと伝わる場所です
色々と調べた結果、ここが女人堂のあった跡地の平場だろうと思うに至りましたが、正直、自信は
ありませんでした
女人堂があったと思われる平場を歩いていて見つけました
この写真では汚れがないように見えますが、見つけたときは落葉や泥がこびり付いていましたので
落葉をのけてティッシュペーパーで拭いたものの汚れは落ちませんでした。幸いウエットティッシ
ュも携帯していましたのでそれで拭き落とし文字が読める状態にしたものです(どうでもいい話でした)
【浄土院年仏堂跡・伝女人堂跡】
「伝」とはありますが、ここが探していた女人堂跡で間違いなかったようです
絵図の左側のお堂の上に 女人堂 とあります
『修建畠山重忠君断碑記』
石標【浄土院年仏堂跡・伝女人堂跡】の近くに建立されていました
碑文は読めませんでしたが、題額の文字を拡大してみたら何とか畠山の文字が読めましたので間違
いないと思います
浄土院年仏堂跡・伝女人堂跡の平場の西側に石段の参道があります。これが旧来の慈光寺への参道
のようです
参道の傍らにあるおおきな『百万遍念仏供養塔』
後ろに見えるのは「聖徳太子」碑
旧参道の石段を上り切ると「参道」と刻まれた石標が建っていて、現在の参道(車道)にでます
目の前は「慈光寺青石塔婆群」で、歴代住職の供養として建てられた9基の板石塔婆(1基は現在
本堂に安置)と墓石が並んでいます
この青石塔婆群(9基)は 『青石塔婆』の名称で 昭和30年(1955)10月1日 埼玉県指定有形
文化財(考古資料)に指定されています
ここは慈光寺の山門(仁王門)跡で、明治時代の初期に山中の僧坊跡から移設したものと考えら
れるとのことです
この絵図は、青石塔婆群の中にある「慈光寺山門跡の板碑群」説明板の中にあるものですが、説明
文にある通りこの場所には女人禁制の結界があり、女性は結界を避けて女人道を登って坂東観音霊
場九番慈光寺観音堂へ向かったようです
青石板碑群と道路を挟んだ西側にある「女人道」登り口
登り口にある【女人道】と刻まれた石標
女人道を少しだけ登ってみました
登り切ると焼失した釈迦堂跡前に出るようですがそれは折を見てまた歩いてみましょう
♪ 紀の川は 別れの川よ
恋のくるいを 流す川
高野の峯を 女人はめぐる
世捨ての人の 面影浮かぶ
好き好き好きの 女人道
田川寿美さんの『女人道』の唄い出しです
高野山を舞台にしたもので本投稿や慈光寺とは関係ありませんが、数え切れないほど聴いています
散策日:令和3年(2021)6月14日(月)・15日(火)