名 称:畠山重忠公墓・畠山館跡(畠山重忠公史蹟公園)
形 態:館
築城主:畠山重能
城 主:畠山重能、重忠
時 期:平安末期~鎌倉初期
遺 構:土塁、重忠産湯の井戸
指 定:畠山重忠墓 6基(埼玉県指定史跡 大正13年〔1924〕3月31日指定)
畠山館跡(埼玉県選定重要遺跡 昭和44年〔1969〕10月1日選定)
畠山庄司重能の墓(深谷市指定文化財 昭和36年〔1961〕11月3日指定)
嘉元二年銘の板石塔婆(深谷市指定文化財 昭和39年〔1964〕8月31日指定)
所在地:埼玉県深谷市畠山(旧大里郡川本町)
桓武平氏の流れをくみ、武蔵国において大きな勢力を持った秩父氏の一族で、男衾郡畠山の地に誕生した畠山重
忠は平氏に仕えていましたが、のちに源頼朝に仕え御家人として活躍しました。しかし、頼朝亡き後、平賀朝雅
の讒言により重忠親子が謀反を企てるとの疑いを掛けられ、元久2年(1205)に二俣川で北条義時・時房率いる
大群に襲われ、重忠以下134名討死し、42年の生涯を終えました。この時、次男畠山小次郎重秀や本田次郎近常、
榛沢六郎成清の2将らも討死しています。
この畠山館跡・畠山重忠墓である畠山重忠公史蹟公園には何度も訪ねていますが、今回あらためて訪ねてみまし
た。
畠山重忠の墓はこの覆屋の中にあります
丁度桜が見ごろを迎えていました
「畠山重忠公の墓」説明板
「埼玉県指定史跡 畠山重忠公墓 並 館跡」碑
畠山重忠公ら6基の五輪塔はこの覆屋の中に
五輪塔配置図と説明文
右側の台座が2段になっている五輪塔が (伝)畠山重忠墓
左側の五輪塔が (伝)本田親常墓
6基の五輪塔 重忠、親常以外の4基については誰のものか不明のようですが、重能、重忠の家臣のものか?
嘉元二年銘の板石塔婆(板碑)
板石塔婆の説明板
「畠山庄司重能の墓」説明板
重能の墓と伝わる自然石
伽羅の木と由来説明板
土塁について
確かに土塁というよりも土塁跡になってしまっています
畠山重忠公産湯の井戸
「畠山重忠公産湯ノ井戸」説明板
井戸
畠山重忠公史蹟保存碑
畠山重忠公没後八百年慰霊碑
「重忠節」碑
国は武蔵の 畠山 武者と生まれて 描く虹 剛勇かおる 重忠に いざ鎌倉の ときいたる
作詞 埼玉県知事 畑和(当時)
畠山重忠公史跡公園駐車場 大きな看板が目印になります
この形の看板は県内各地の史跡等でよく見かけるです。
老朽化等の関係かは分りませんが、撤去されたものも多数あります。
「畠山重忠公史蹟公園 川本町」碑
「埼玉県指定史跡 畠山重忠墓」説明板 川本町当時の物
一の谷の戦いでの「鵯越えの逆落とし」で、愛馬三日月を背負っって崖を降りる重忠の銅像
実は、重忠はこの戦いにおいて源義経率いる搦手の別動隊にいたので、「鵯越えの逆落とし」の隊にはいなかっ
たとされるが、怪力の持ち主の英雄と語られる重忠奈良での逸話でしょう。
折角の桜でしたので桜花の向こうにと撮ってみたものの顔が陰になっていました
たまには後ろ姿も 何十枚と撮った重忠の像の中から以上の3枚を厳選しました(笑)
「重忠公ゆかりの石」
争い事があったときに重忠が投げた3個の石のうちのひとつとの伝えあり 詳細は略
桜花とかわもと郷土かるた
旧川本町には沢山の「かわもと郷土かるた」がたてられています
史跡公園の一部 左は四阿の一部
折角ですから満開の桜を
同上
ここ畠山重忠公史跡公園については3度目の投稿で内容も同じものですが、桜の季節では初めてということで・・・
散策日:平成31年(2019)4月5日(金)