四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

皆川城跡(栃木県栃木市)

2015年03月13日 | 100名城以外の城館跡


皆川城 (別名:法螺貝城)  栃木市指定史跡  所在地:栃木県栃木市皆川城内町

皆川城は、寛喜年間(1229~1232年)に長沼宗員によって築城されたと云われ皆川氏を称し6代続いたが、皆川氏は元享3(1323)年には断絶している。
この時の皆川城はこれは近くの別の場所にあったと推察される。現在残る皆川城が築城されたのは応永23(1416)年)~永享12(1440)年)の間であるとされる。

大永3(1523)年の宇都宮忠綱との間で起きた川原田合戦で城主・皆川宗成と、弟で平川城主の成明が討死した。

天正12(1548)年には北条氏政・氏直父子が1800余の大軍で来襲し、3ヶ月に渡る大激戦の末に和議を結び、皆川広照は事実上北条氏の傘下に入った。
この結果、天正18(1590)年の小田原征伐で皆川広照は小田原城に籠城したが、徳川家康を介して秀吉に降り助命された。

天正19(1591)年、皆川広照は栃木城を築いて居城としたが、家康の六男松平忠輝の家老となり、忠輝が信濃国川中島へ移るに従い信濃国飯山へ転封となった。






佐野市方向から進行し左手に皆川城跡を見たものの入口が分らずそのまま遠くまで進行してしまい、コンビニで場所(入口)をお聞きしてUターン。
お教えていただいた看板を右折して。佐野方向からではこの看板は見えませんでしたので・・・




栃木市皆川公民館(栃木市役所皆川出張所) かつてここに居館があったそうです




公民館裏手にある皆川城跡についての説明板




公民館裏の道路 ここもかつては帯郭だったのでしょうか




皆川城址公園案内図 




皆川城址公園案内図の中の「皆川城復元模型図」をアップ




土塁  通路としても使われているようです。




竪堀




ちょっと皆川城跡全容を    と言うほどでもないか




切岸?  詳細な案内図がないので表現は適当になります。 以下同じ




この辺りから攻城しますか




桝形




竪堀  中間あたりでしょうか




竪堀  下から見てみました




竪堀  上の方から




竪堀  上から  「く」の字になっています




腰曲輪でしょうか?




ここもやはり腰曲輪?




(左)西の丸跡  (右)二の曲輪(お花畑)跡




西の丸跡




西の丸の上




二の曲輪(お花畑)跡




本丸(一の曲輪)跡へ




本丸跡   木製の櫓だったら絵になったのに・・・  まあ城址公園としての見晴らし台でしょうし、耐久性安全性を考えれば・・・




皆川城跡碑  正面から撮るには狭すぎます   栃木 指定史跡とありますが 栃木の次の文字が消されていますが




皆川城についての案内板




縄張図




本丸跡からの眺望 ①




本丸跡からの眺望 ②




本丸跡からの眺望 ③




本丸跡から見る居館跡




帯郭  何段目かは正しくは失念しましたが上から1段目だったような




腰郭?の井戸を上から




井戸




井戸のある曲輪跡(腰曲輪)




帯曲輪




帯曲輪  上から3段目?  この広さだと腰曲輪と呼んだ方がよいかも




本丸跡を見上げてみました




梅林




紅梅と本丸跡をコラボしてみました




居館跡の土塁

いくつかの城跡を訪ね歩いていますが、帯(腰)曲輪が幾重にも廻っている城跡は大変珍しいものです。法螺貝城とは言い得ていますね。
竪堀を下から見ていたとき、犬を散歩中の女性とお会いしましたので少しお話をさせていただきました。女性曰く「NPOの方が手入れをしていますが大変なんですよ」と。
そうですよね。手入れをして下さる方がいるからこうして楽しい城跡歩きができるわけですから。

攻城日:2015年(平成27年)3月10日(火)           

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。