AKB48の旅

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「AKBに一流品はいないが…」麻生副総理がAKBで「日本の底力」を指摘

2014年07月24日 | AKB
「AKBに一流品はいないが…」麻生副総理がAKBで「日本の底力」を指摘
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140722-00000560-san-pol

昨日の今日になるけど、この議論もグレーゾーンというか、やや誤謬度が高いかな。麻生氏の語ることには素晴らしいことも多いんだけど、けっこうな率で、こういったミスリードに繋がるようなものがある印象。麻生氏じゃなくても、こういう議論はよく耳にするところだけど、ちょっと気色張って言うなら、これって地味に間違ってると思うぞ。

まずは背景となる「人口構成」の認識が必要だと思う。アメリカなんかが分かり易いと思うけど、別にアメリカだけのことではない。諸外国に行って「普通」の生活をしてみると容易に気づけると思うんだけど、何と言うか、ちょっと表現に窮するけど、言わばアベレージの低さ。

経験で語るの愚を侵すけど、日本以外の国のスーパーのレジなんかで驚かされるのが、彼ら彼女らは算数ができない。日本では当たり前の、お札に小銭を足しておつりを「ならす」という行為が一切通用しない。ああ、一切というのは言い過ぎか。大学町のスーパーなんかだと、大学生がバイトしてて、その意図を理解してくれたことがあるけど、そういう行為自体がサプライズというか、賞賛の対象になってしまったりすると言う。まあそれ以前にパーソナルチェックやカード払いだったりするからなんだろうけどね。

これは以前も書いたけど、あくまでも比喩としてだけど、日本以外の世界の国のほとんどが、1%の天才と9%の秀才と、90%の馬鹿から構成されている。それに対して、比喩としての日本の人口構成は、50%の秀才と50%の凡才だったりする。もちろん日本にも馬鹿はいるけど、恐らくその比率は無視できるレベル。

けれども麻生氏のような人は、そんな上位10%の秀才以上の人としか交友を持たないんじゃないか。その他90%の存在が目には入らないんじゃないか。だから、と決めつけるのは間違いの元だというのは分かってるつもりだけど、それでも上記のような物言いには、そんな「誤解」を感じてしまう。

確かに諸外国のトップに立つ人たちのレベルは際だって高いと思われる。けれども国としてのレベルは、その国を構成する国民の平均値に引きずられることになる。結果、トップを比較すれば、日本は諸外国に遠く及ばないように見えるけど、トータルとしての国のレベルでは諸外国をぶっちぎることになる。

しかも、一般国民の平均的なレベルが高いことと、これは表裏の関係になるけど、日本文明は高信頼社会にして、社会全体の利得が個人に優先する、短期的な利益よりも長期的な利益を求める共同体社会でもある。もっともこの辺りはかなり崩れてしまってるけれども、それでも諸外国と比較すれば、そんな特徴は明らか。

結果として、「AKBにはひとりでは一級品はいないが、まとまったら一番いい」という指摘が、一見妥当性を帯びることになる。けれども、その背景は、この言葉が表してるものよりも遥かに奥深いんじゃないかと思う。さらに加えて既述のように日本文明特有の「カワイイ文化」が、ここに被さってくることになる。