えりも町郷土資料館ほろいずみ水産の館のBlogです。

襟裳岬やえりもの様子や資料館ほろいずみの活動を紹介しています。

第4回ほろいずみ・かふぇ報告(1/2)

2018年03月09日 16時14分09秒 | ほろいずみ・かふぇ
第4回ほろいずみ・かふぇ「猿留山道の紀行文を読もう!」が3月8日開催されました。

2回に分けて報告します。その1



 今年は明治150年、北海道150年ということで、松浦武四郎が脚光を浴びています。今回は、全国区の伊能忠敬が、日本を測量する最初の旅、蝦夷地測量についての記述を中心に話題提供しました。
 
 忠敬は、猿留山道(平成30年2月13日国史跡指定)ができた翌年(寛政十一年1799)、新暦6月11日に江戸を出発、6月30日に青森県外ヶ浜町に到着するも、天候悪く津軽海峡を前に足止め。

7月9日蝦夷地福島町吉岡に上陸、箱館にて準備を整え、蝦夷地東海岸(東蝦夷地)を進みます。測量は、忠敬の歩測がたよりでした。

 様似町からえりも町にたどり着いたのは8月21日、猿留山道を越え、猿留(現:目黒)には8月23日、広尾には27日に到着。その間も、太陽・北極星・アンドロメダ座の星を観測し、緯度経度を記録しました。

 旅の東端、別海町西別に到着したのは、9月25日のことでした。忠敬はクナシリを見て何を想ったのでしょうか?
 
 伊能大図には、北海道の周囲が美しく描かれていますが、忠敬は、猿留山道を通過したため、襟裳岬周辺を測量していません。

そのため、寛政十二年(1800)の「松前距蝦夷行程測量分図」には、「不測量 エリモ」と図にきっちりと書かれています。忠敬の人柄がしのばれます。

 忠敬一行は場所(場所請負制度の区域、現在の市町村区分(合併前)に似ている)の会所(幕府の出先機関)などに宿泊していました。幌泉場所(現在のえりも町)にはどんな建物がったのか?会所(役人12人、御雇稼方13人)・旅宿所・板蔵・茅蔵(昆布・布海苔)・荒物小屋・大工細工小屋・厠などがあり、馬が23匹等の記録があります(幌泉場所大概書)。

「東蝦夷地より国後へ陸地道中絵図(函館市中央図書館蔵)に描かれている絵図と見比べました。

 忠敬、終着の地、西別。野付半島があり、その先端に通行屋「野付通行屋」がありました。その後、畑や鰊番屋もできました(19世紀半ば)。忠敬はそこに足跡を残していません。

 賑やかな最果ての町、国後から千島列島へ渡る拠点。別海町には「幻の街キラク」伝説があります。
「歓楽街があった」「夜じゅう、明かりが消えることがなかった」(別海町観光協会HP)・・・旅人は何を想いすごしたのでしょうか?

 歌手・新沼謙治さんが「まぼろしのキラク」を歌っています。Youtubeで聞くことも可能です。

(中岡利泰)




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