本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

道端にも春の勢いが感じられます

2021-04-14 20:38:03 | フラワー

曇り空、風強し、肌寒い

春の日はめまぐるしく天候も

変わっていきます

そうやって、

草木も芽生えていくのでしょう

今日は運動の日

筋トレの後、少し散歩

意外なところに草花が

花を咲かせています

 

 

道路のわずかな隙間に

根を下ろした花たち

かろうじて車にも引かれず

人からも踏まれない

好い所に生きる道を見つけた

ものです

 

 

塀越しに覗いている桜

もう散り始めているのですが

この写真一工夫がありまして

ピンク色の花びらを一枚

カメラのストロボに張り付けて

撮ったものです

さくらの色を出すにはピンク色の

光を当てるということを

思い出したのです

 

 

その横には黄色の群生

 

 

それから名前も調べ中なのですが

ほんの5センチほどの大きさ

木の下で芽を出し花を咲かせて

います

 

 

タンポポの揃い踏みというか

咲いている花もあれば

これから種を飛ばす実もあり

すでに種を飛ばし切ったものも

ありで、

一株でタンポポの成長を

あらわしています

 

 

サンシキスミレでしょうか

みな太陽の方向を向いて

風に揺られ、

それぞれがお話しているようにも

見えてきます

 

 

その横に、ホトケノザが

小さな花芽を付けています

これから伸びていく所です

 

 

この花は何?

つぼみの状態は

 

 

このような姿です

 

 

黄色い花を押しのけるかのように

自分の存在を示しています

 

 

これもど根性南天です

コンクリトーの隙間を見つけ

しっかと根を下ろしています

あの赤い実が飛んで行って

根を下ろすのでしょうか

 

落ちたところが自分の生きる場所

ということです

コンクリトーだけなら芽は出ない

水の中でも芽は出ない

条件が揃わないと生えてこない

因縁和合しないと

一つの命も誕生しないのです

 

 

この道端にはケシの花

一輪ずつ並んで生えています

 

 

ここも条件が揃ったのですね

この柵に沿って並ぶように

点在しています

 

 

これから咲き出そうとしている

今か今かと待ち構えている

そういう勢いを感じます

 

 

これから沢山の花を出してくる

ヒメツルソバ

隙間があれば勢力範囲を広げて

いるようです

 

 

葉が美しかったので

葉脈は紫色をしています

紫蘇の仲間でしょうか

それとも茄子の一種でしょうか

そのような色をしています

 

 

百合のような形

しかし、葉の形が違う

名前は分からないのですが

草の間からニョキッと

顔を出していました。

 

見事な花だけではなく

道端や路地の片隅にも

誰に見られなくても

自分のいのちの証として

いろいろな花を

見ることが出来ます

これから

名前を調べてみたいと思いますが

こういう出会いも楽しいものです

 

 

 

 

 

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煩悩の異名

2021-04-13 20:34:17 | 住職の活動日記

仏さまもその徳を現わすのに

「十号」ジュウゴウといって

十の名前で仏さまのハタラキを

あらわしています。

それと同じように煩悩も

いろいろの名前を持っているのです

煩悩と一口に言っても

根本煩悩から三大煩悩と

それから馴染みのある百八煩悩と

いうように分けられています。

 

煩悩ということも読んで字の如く

煩い悩ます、と書きます

身や心を煩わせ、悩ませ、

かき乱し、惑わせ、汚すところの

精神作用というように

辞書には出てきます。

 

私たちは煩悩によって業を起こし

苦しみの報いをうけて

迷いの世界につなぎとめられる

というように言われます。

ですから

煩悩のハタラキということから

たくさんの異名を持っています

 

まず、

随眠ズイミンという名があります

身や心のはたらきを眠らせる

それから

ワクという誘惑の惑です

心が迷い惑うということ

そして

ゼンこれもよく出てきます

染汚ゼンマという熟語があります

反対に書けば汚染オセンです

心が染まっていく

いい方に染まればいいのですが

どうも悪い方に染まっていく

 

また、

ロという名もあります

もれるという字です

これも実感のこもった名前で

自分では意識しないのに

じわっと煩悩が漏れ出してくる

そういう煩悩の姿を表現している

ような気がします

有漏ウロ無漏ムロという言葉もあり

一休さんの名前の由来になった

「有漏路より無漏路へ至る

   一休(ひとやすみ)

 雨降れば降れ 風吹けば吹け」

という歌を詠まれています。

 

それから

テンというのもあります

纏い(まとい)という

あの火事の時に振った纏いです

身に纏わり付くということから

この字を使うのでしょう

 

同じような言葉で

バクという名もあり

自分を縛り付けて

身動きの取れないようにする

この言葉も見出した人は

自分の実体験から生み出した

のではないでしょうか

 

それから

暴流ボル・ボウル

暴れるような激しい流れ

その勢いがまるで煩悩が暴れる

姿に喩えたのでしょう

また、安田先生がよく書かれた

「恒転如暴流」

という唯識の言葉もあります

この場合は煩悩ではなく

阿頼耶識のことを言っています

 

他にもまだあるのですが

珍しいものは

椆林チュウリンというのもあります

煩悩の数の多いことを

茂った森林にたとえたものです

 

最近読んだ中に

客塵キャクジン・カクジンというのも

出てきました

自分が主であるものに対して

煩悩は客で、塵というから

その塵あくたという汚れが

主である自分にやって来た

客の煩悩・塵という意味で

こういう客塵という言葉が

出来たのです

客塵煩悩という熟語としても

出てきます。

 

しかし、

煩悩という一語よりも

こういう異名といわれる方が

その煩悩を対治してきた

実感がこもった言葉のように

思います。

それほど苦しみ悩んだのでしょう

 

また目的を持った時に

煩悩は活動してくるのです

何ごともなく

平々凡々に暮らしている時には

煩悩ということはないのです

あれをしなくてはいけない

というような

目的が芽生えてきたときに

何でもなかったことが

煩悩として感じられ

自分を苦しめるのです。

 

なかなか一言では

片づけられない大きな問題です

こう言う言葉があるということも

知っていれば

何かの時に解決の糸口に

なるような気がします。

 

 

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牡丹の花・五輪みな揃い咲き

2021-04-12 20:16:29 | フラワー

最初に三輪咲いて

他の二輪はまだ蕾でした

今日には最初の花は散ってしまう

のでは、と思っていたのですが

八日に咲いた花が

萎んだり開いたりを繰り返し

いまだに豪華絢爛に開いています

 

 

全部の姿は分かりにくいですが

重なり合って咲いています

 

 

こぼれんばかりの花びらですが

夜には閉じたりしながら

また次の日には開いている

こんな細い幹から

どうやって

この花たちに養分を送り

 

 

こんなにも美しい花を創り上げて

いるのでしょう

 

 

この溢れんばかりの

花を見ていると

自然のハタラキ様の力に

感服いたします。

 

話は変わりますが

今、我が家では孫も子供も

『キングダム』という漫画の

虜になっています

以前、NHKで放送されたものが

見ることができるのです。

秦の始皇帝の物語で

中国統一を図っていくという

とても長い物語です。

その始皇帝の名前が

「嬴成」エイセイといいます

ドラマでは「セイ」という名で

または「大王」という呼び名です

この嬴という字は見かけませんが

このようなつくりです

辞書には

みちる。あまる。という意味で

盈エイという字と同じです

盈も満ちあふれるという

意味があります。

 

今日もまた

充ち溢れんばかりの

姿を見せていただき

何とも有り難いことです

 

 

ちょうどそのことと相まって

この牡丹を見ていたら

この「盈」や「嬴」という字が

浮かんできたという次第です。

 

 

見る私たちが酔ってしまいそうな

そのような姿を呈しています。

本当に有り難うございます。

牡丹の花に感謝です!!

 

 

 

 

 

 

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成長と老化

2021-04-11 19:54:35 | 住職の活動日記

子供たちの成長を見ていると

目を見張るものがあります

久しぶりに会う孫たち

それぞれに

字が上手になった子

楽譜も見ないでピアノを弾き

一年前までは

現代音楽のように、

鍵盤をやたら叩きまくっていた

成長を見せています。

 

考えてみると

成長と老化の分岐点はどこだろう

簡単には

今まで出来なかったことが

次第にできるようになる

そういうことが成長なので

しょうか

反対に老化は

今まで出来ていたのに

出来なくなってきた

ということになるようです。

 

ちょっと前までは

今日の段取りとして

あれしてこれしてと沢山の

用事をこなしていたのに

今では一つの用事を済ませると

それで疲れ果ててしまい

ぐったりしてしまいます。

 

晴れ時々曇りという日が

この頃は曇り雨たまに

時々晴れという調子にいい日が

あるようです。

 

生理的には細胞が壊れていく

時を老化の始まりと

いうのでしょうか

あるときを境にして

1日1万個の脳細胞が壊れていく

その壊れだした時を老化

なのでしょうか。

 

 

牡丹の花も今日が満開

花びらがこぼれそうなくらい

開ききっています

明日には萎んで花びらは

散っていくでしょう

蕾の時はまだ成長していて

次第に膨らみ、

というところまでが成長?

それから満開に開き萎んでいく

そこからが老化ということ

になるのでしょうか。

 

 

満開の花の横には

蕾の花が膨らみ始めています。

 

ひどい歌があるのですが、

 

「世の中の娘が嫁と花咲きて

  嬶(カカ)と萎んで

   婆(ババ)と散り行く」

 

というのです

誰が詠ったのか知りませんが

その通りなのかもしれませんが

女性差別だと

お叱りを受けるでしょう。

 

諸行無常ということからいえば

成長することも老化することも

一時として同じ姿はない

のですから、どちらも同じです

 

また、老人六歌仙という

歌を仙厓和尚という方が

詠んでおられます

 

◎皺がよる ほくろができる

  腰曲がる 頭ははげる

   髭白うなる

(なるほどそうです)

◎手は振るう 足はよろつく

  歯は抜ける 耳は聞こえず

   目はうとうなる

(ちょっとした弾みによろついて

 そのまま行ってしまって

 ぶつかったり倒れてしまいます)

◎身に添うは

  頭巾・襟巻・杖・眼鏡

   湯婆タンポ・温石オンジャク

   尿瓶シビン・孫の手

(たんぽは湯たんぽです

 大体必要な物ばかりです)

◎聞きたがる 死にともながる

  淋しがる 心は曲がる

   欲深うなる

(年とともに枯れていきそう

な気がしますが、そではなく

 だんだん深くなってくるのです)

◎くどくなる 気短になる

 愚痴になる でしゃばりたがる

  世話焼きたがる

(自分ではくどいつもりは

ないのですが、愚痴は出るし

 知らないうちに

 出しゃばっています)

◎またしても同じ話に

  子をほめる 達者自慢に

   人は嫌がる

(スマホを見せていただくと

  孫の写真ばかりです

 話の話題は病気自慢か

 元気になった自慢話)

 

すべての生き物は成長して

老化してして死んでいくのですが

「成長と老化」

その境目は本人の気持ち次第

なのかもしれませんね。

 

 

今年も見事に咲きましたので

ご苦労さんの気持ちを込めて

いっぱい写真撮りました。

 

 

 

 

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宇治市民大学「室町・戦国時代を生きた人々」

2021-04-10 20:24:46 | 住職の活動日記

田端泰子先生の第2回目の講義

副題として

「足利義教の恐怖政治」

という題があげられています

 

 

とても興味深い話です

義満の子義教ヨシノリは

岩清水八幡の抽籤チュウセンで

その神意が義教と出たのです

こういう決め方も面白い

義教は征夷大将軍にもなっている

のですが、

義満と違って

自分勝手な気の赴くままの

政をしたようです。

 

足利義教の年代は

1394年から1441年

ちょうど重なるのが一休さんで

1394年~1481年です

やはり政治も乱れ世の中も

困窮を極めていたのでしょう

そういうなかで詠まれて

一休さんの歌は

その時代を反映しているようです

 

やはり、土一揆(ツチイッキ)も

起きています

しかし、

この土一揆も平和的というか

貸主・借主合意のもとに

行われたようです

ですから、無茶苦茶に暴れ回った

というのではないという

ことのようです。

 

そしてまたこの頃は

坊さんの力も強く

幕府は延暦寺を攻撃し

ついには延暦寺の僧弁澄を殺害

しています

信長だけでなく

その時の寺は僧兵を持ち

宗教と武力という強大な力を

持っていたのでしょう。

 

嘉吉カキツ元年には

京都で数万といわれる土民の一揆

が起こり、

東寺にも2,3千人の土民が籠り

一揆の勢いは京都を包囲した

いよいよ、この時

 

嘉吉の変(1441年6月24日)

この時の様子を

伏見宮貞成サダフサ親王日記

『看聞カンモン日記』には

このように記されています。

「雨。…酒宴の後、

猿楽が赤松邸で催された。

義教も招かれていた。

そのとき大声があがり、

義教は「何事か」と尋ねられた

ので、

公家三条実雅サネマサは

「雷鳴でしょうか」などと

応えたところ、

障子を引き開けて、数人の武士

出てきて「公方」を討った。」

 

「自業自得… 将軍此の如き犬死

古来不聞其例事也」

としたためておられます。

 

伏見宮貞成親王は

どちらにも属していなかったので

自由な立場でこの変の様子を

観察しておられます。

それまでの悪行は自業自得だと

誰も未練をいうものなく

「御前に於いて腹切人無し」

とありますから、

主人が殺されても誰も腹を

切らなかったということです。

 

常々からの行為

参賀に駆け付けた人に対し

「御切檻」セッカン

(所領や邸宅を没収)したと

ありますから、

貞成親王は、

「凡そ天魔の所行か、

ただ事にあらざる御陸梁云々」

と批判しています。

陸梁リクリョウというのは

「きままにふるまう」

ということです。

 

今まで知らなかった

時代の背景とかを見るようで

とても面白い講義でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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お医者さまとお坊さんは関係が深い

2021-04-09 20:43:51 | 十地経

ちょと以前の話ですが

檀家の方が

近くの地域医療センターに

入院された。

部屋から眺めると

本蔵院さんの屋根が見える

するとその隣に

葬儀屋さんの看板が見えた

ああ、

ここから、本蔵院さんへ行って

それから葬儀屋へ行くのか

と思われたそうですが、

お医者さまとお坊さんの関係は

そういうものではなく、

 

十地経講義の中で出てきたのです

ちょっと紹介します

「インドの学問は論理学もあるし

文法学もあるし医学もあるんです

だから今でも、チベットでは

一番尊敬されているのは

医学なんです。

生きる人間にとって一番大事な

ものでしょう。

坊主と医者というのは

昔から因縁が深いんです。

 

それは人間を病人だと取り扱う

ということが面白いんです。

人間を病気しとるもんだと

取り扱うことがね。

ただ生理的な病気じゃないんだ。

内面的な病気です。

無明とか煩悩とかいうのは、

さっきいったような

我執とか法執とかそういうものは

みんなこれは病気の原因なんです

 

だからして

病気しとらん人間がないように

病気の原因というもの以外に

存在に原因はないわけです。」

 

というように出ています。

人間というものを

自然科学のように扱うのと

人間を苦の存在として扱う

ということでは方向が

違うようです。

人間というものを両面から

見ているということでしょう。

 

お釈迦さまの四諦(苦集滅道)

の発見は

お医者さまの見立てによる方法と

同じです。

苦しいと、どこが苦しいのか

ではその原因はを探っていく(集)

そしてそれをなくすには(滅する)

どういう方法があるか(道)

ということです。

お医者さまの患者を診る方法を

さとりを開く手立てにされた

ということのようです。

 

薬師如来という仏さまも

あるように

平安時代の最初の方はもっぱら

この仏さまが主役です

本来は精神の悩み苦しみに

答えたのですが

当時の状況からすると

飢えや病気の人を救うという

そういう願いがもとで

作られたようです。

 

私達も健康そうに

振舞ってはいますが

ふとした時に

心の中に眠っている

不安なるものが噴き出してくる

そういう悩みを抱えたものです

しかし、

何とか誤魔化して

忘れるようにして

日にちを後らしているのです

けれども必ず

考えないわけにはいかない時が

やってきます

それが私たちが病人であるという

ことの証でしょう。

 

そういう面からすると

お医者さまと坊さんとは

昔から深い関係があるようです。

 

 

 

 

 

 

 

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花まつり

2021-04-08 20:27:08 | フラワー

4月8日は

お釈迦さまのお生まれになった

「花まつり」です

そのお誕生に合わせるかのように

牡丹の花が開き始めました

 

 

朝起きてみると

今日中には開く気配です

 

 

でも、今日は風も強く

花は右に左に揺すられて

花びらが飛んでしまいそうな

様子なのです

 

 

段々膨らんできている

 

 

もうすぐ開ききって満開です

蓮の花に「未敷蓮華」ミフレンゲ

という形がありますが

仏さまのさとりに喩えて

さとりを開く一歩手前の

菩薩がお坐りになるになる座を

「未敷蓮華」といいます

仏さまはさとりきった

ということで

「開敷蓮華」カイフレンゲといいます

坐る座によって位が違うのです

天部の仏さまは蓮の葉です

荷葉座カヨウザといいます

お不動さまは瑟瑟座シツシツザ

岩の形を象徴したものです。

仏さまもさとりに位によって

坐る座が違ってきます。

 

そういうことを

花の姿に託して表したのでしょう

 

朝の内は未敷蓮華

昼からは開敷蓮華のように

 

 

満開に開いてきました。

 

花まつりの今日

お釈迦さまはお生まれになると

七歩歩まれて天と地を指さし

「天上天下唯我独尊」

と宣言されたと言われています

天にも地にも我一人

尊いのだと、ということです

尊いということも

最近では分かりにくい言葉ですが

 

 

庭の片隅に

誰からも見られないような所に

ピンカミノールが咲いています

 

 

これは、牡丹が素晴らしい

というのではなく

花それぞれ自分の姿を

精一杯に咲かせているのです

誰にも取って代わることの

できないかけがえのない

存在ということです

 

 

大きな姿に目を奪われがちですが

何も牡丹だけが美しいのではなく

隠れるようにひっそりと咲く

ピンカミノールも愛おしく

 

 

小さいながらも

美しい花なのです。

天上天下唯我独尊ということも

誰とも比べることのできない

貴重な存在ということを

仰ったのでしょう。

 

牡丹の花も明日には

萎んでしまうかもしれません

4月8日のこの日に

満開に咲いてくれたことは

何よりもうれしいことです。

 

 

 

 

 

 

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アトム

2021-04-07 21:10:01 | 十地経

安田先生の講義は仏教のことは

当然のことながら

西洋哲学についても造詣が深く

いろいろな言葉が出てきます

そのことを知っていくのも

大変興味深いものがあります。

 

ここに出てきた「アトム」という

言葉ですけど、

私が知る限りは「鉄腕アトム」とか

原子力のアトム位しか知りませんが

ここで述べられている

「アトム」ということは

哲学の言葉で、

「atom」というギリシャ語で

これ以上分割できないもの

ということで、

これ以上分けられない

事物を構成する微小存在

ということです。

 

そこで講義では

「世界はアトムの構成なんだ。

それが自然だ。自然学です。

善とか悪とかというものは

ありゃせん。

あのギリシャの哲学は自然学から

始まっとるんですから。

自然科学なんか出てきたのは

ルネッサンスですけど。

自然学、哲学や科学と区別のない

自然学というものから出てきて

初めて人間というものが

そこに絶えず対抗するものとして

自覚されてくるわけです。」

 

というように出てきますが、

ここに出てくる「自然学」

ということも、ギリシャ語で

physikeという

哲学の自然現象を扱う部門

ギリシャ哲学では

論理学・倫理学・自然学が

三部門をなしているようです。

physikeも英語ではphysicsで

物理学というというように

いわれています。

 

これがまたややっこしいのは

メタフィジカルといえば

形而上学と、

井上哲次郎という方が

訳されてますが

この言葉がどうも分かりにくい

フィジカルが肉体的であれば

メタがついてその反対

精神的なのもということで

しょうが、それが形而上学と

なんと分かりにくい言葉に

翻訳したものだと思います。

 

講義の続きは

「だけど仏教の方は、苦であると

苦でないような存在は取り扱わん

また、

苦だというようなことは

考えるというと、

それはちょっときつすぎるじゃ

ないかと、

半分ぐらい本当じゃないかと、

苦もあるけど楽もあるのが

本当じゃないかと、

こういうんですが、

それは常識ですわね。

苦も楽も半分ずつというのが

我々の経験ですけど。

 

その経験を破った今の自然学

というものを考えてみると、

苦だの楽だのいうものは

ありゃせんのです。

分子(アトム)の結合がある

だけでしょう。

化学的人間なら。

 

ところが仏教はそうじゃない

んでしょう。

生きとることに悩んどるん

でしょう。

生きとるということが、

一つの悩みなんです。

そういう人間が取り扱われとる

んだ。」

 

というように続きますが、

人間をどのように見ているか

ということを

西洋哲学と対照しながら

仏教の立場を述べておられる

ようです。

 

人間を苦の存在として捉えたのは

宗教の中でも仏教だけのように

思います。

苦なる存在、

生きていることに悩んでいる存在

というようにとらえたのでしょう

生きていることに悩まなかったら

仏教は必要ないとも言えます。

 

何とも難しいのですが

読んだり書いたりまた

ブログにアップしたりと

遅々として進みませんが

繰り返しながら

分からない文にも浸っていると

何となく身に沿ってくるのでは

と思っています。

 

 

 

 

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牡丹開花ING

2021-04-06 20:55:55 | フラワー

3月26日まだ固い蕾でした

しかし、この暖かさですと

熊本に行っている間には咲いて

帰って来る頃には

散っているのではないかと

思っていたのです

 

 

ところがまだ蕾で

やっとピンクの花が見え始め

ているところです

やはり、

一つの花を咲かせるということは

この木にとっては

大変なエネルギーを

要するのでしょう

 

 

見えない根のところでは

土の養分を集め花に送る

この細い幹を通して

私たちは花をめでるのですが

花にとっては大変な作業が

行われているのです

お母さんの子どもを産むような

そういうハタラキを感じます

 

 

今この木には5輪ほど

花をつけています

この花を咲かせるには

どれだけの力がいるのでしょう

 

五根五力ということが

三十七道品という修行の中に

ありますが

仏教では根ということを

よく使います

種子(シュシ・シュウジ)という

人間の心に潜む因を

植物の種にたとえてこう呼びます

そういうように植物の働きを

私達の働きと重ね合わせています

五根ということも

視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚

という

眼根・耳根・鼻根・舌根・身根

の五つです

仏教でいう根とは

すぐれたはたらきがあるもの

ということです

 

 

まだ、花の影すら見えない

つぼみもあります

私たちにとっては楽しみですが

花の姿を見ていると

そんなに無理しなくてもいいよ

という反面

頑張れ、力いっぱい

自分の花を咲かせなさいと

応援したくもなります。

 

そういえば、

 

 

見事に咲いた牡丹の花を

美しい花器に活けてありました

ほんの数日かもしれませんが

咲ききった花でもなく

今が一番見ごろという

そういう一瞬を

切り取ってあります

こういうこともお客様に対する

最高のおもてなしでしょう。

 

我が家も一晩でしたが

総勢13人に膨れ上がり

花を楽しむ余裕もありませんでした

やっと落ち着き

静かなもとの姿に戻り

本を読み、身近な花たちを楽しみ

三昧を取り戻さなくては

いけません。

 

 

 

 

 

 

 

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苦と苦聖諦

2021-04-05 20:36:23 | 十地経

お釈迦さまが最初に説かれた教え

(初転法輪)は

苦・集・滅・道の四聖諦と

いわれています。

四つの正しい真理ということです

「諦」タイという字は

インドの言葉のサトヤの翻訳で

真理という意味です。

「諦」は、あきらめる、とも

読みます

これは仕方なく

あきらめるのではなく

明らかに見る、ということで

本当のことを明らかに見たら

裏表全て見切ったら、というか

そういう本当の姿を見たら

頷いて諦めることが出来る

ということです。

 

「何かこれは一番大事なことだと

思うんですよ。

原始仏教以来ね、苦聖諦と

こういうでしょう。

あの諦というのは真理という

意味ですね。

そうあることなんですわ、

真理というのは。

それがそれであることなんです。

その一つの真理として、

一切は苦であるというのが

第一の真理として掲げられて

いますね。

面白いことですね。

 

我々は苦しんどるんですけど

我々は苦をもたんものは

おらんけどね、

しかし、苦諦はもっとらんです。

苦であるのは我々の存在だ。

我々にとって苦であるものが

苦諦をもつことが一番大事

なんです。

苦であるものが

苦であるものを知るんです。

自分の真理に目覚めるんです。」

 

というように「苦」それから

「苦諦」ということについて

の話が出てきます。

 

ある人の結婚式の時

僧侶の方が宴席で新郎新婦に

贈る歌ということで、

「水戸黄門の歌」を

披露されました。

「人生楽ありゃ苦もあるさ」

という具合に、

まあ、人生苦もあれば楽もある

それで頑張れということでしょう

僧侶の方が歌われたのが

ちょっと気になったのです。

お釈迦さまも一切は苦であると

最初に説かれている

苦楽半ばではないのだと。

調子よく3番まで歌われましたが

私には選曲ミスではないかと。

 

しかし、

普通にはそうでしょう

苦しい時もあれば楽しい時もある

それが人生だと、

それなのに一切は苦であると

いうのはどういうことかと

ところが、

仏教はそうじゃないんで

現実は私たちは

生きていることに悩んでいる

生きるということが

一つの悩みなんです。

 

これは分かりにくいかも

しれませんが

煩悩ということも同じで

普通に生きている限りは

煩悩はないんです

何か一つの目的をもつ

本当のことを知りたいと

道を求めるとか、

そういう立場になった時に

自分の生きていることが

問題になり、

苦なる存在と感じるし

煩悩ということが明らかに

見えてくるのです。

 

うまくいかないと

苦しいと感じるし

調子よく物事が進めば

こんなに楽しいことはないと

思うのが私たちです。

 

そういうなかお釈迦さまは

母親は自分を生むと

すぐに死んでしまい、

生きもたちは弱肉強食で

弱いものは食べられる存在

そういう幼い時から

見るもの聞くものすべてが

苦の存在として感じとられた

のでしょう。

そういう自分自身を

よく見ていかれたとき

「苦集滅道」という四つの

真理の発見があったのでしょう。

 

そこには、

ただ苦と感じるだけでなく

苦のもとはいろいろな条件の

集まりであり

それを滅するには

八つの道があると

苦を苦聖諦と真理として

捉えられたところに

私たちと違いがあるようです。

 

苦はもっているけど

苦聖諦はもっていないという

違いが私たちにあるようです。

 

 

 

 

 

 

 

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