本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

お経には「不」とか「無」という否定語が多いのだろう

2021-04-27 20:47:14 | 十地経

いつも読む『般若心経』でも

「不垢不浄」とか「不」という

言葉が続きます

その次には「無色無受想行」と

「無」という言葉が続くのです。

ちなみに、「不」は八つ

「無」はなんと二十一にも

なります。

 

お釈迦さまのさとりの内容は

「人生は苦なり」

という何とも否定的にも

聞こえてきます。

人生は希望に満ちた明るい未来が

待っているとは言わないのです。

 

修行も一切を否定することから

始まります。

自分自身を全否定されるようで

やる気も無くしてしまうような

そういう辛さがあります。

 

そのことを講義の中では

 

「衆生無我とか法無我とか

というような広くいえば

そういうことですけれども、

ここで無がずっと重たくなる

でしょう、

無とか不とかね。

これは否定概念です。

どうして仏教は、

こういうことは外国にないこと

でしょう。

どうしてこんな否定概念を

強調するかといえば、

これは何かというと

否定さるべきものは

こっちにあるという意味です。

自分にあるということです。

自分の側に

こう否定されるべきものがある。

外に否定されるべきものは

ないんでしょう。

 

衆生とか諸法とかの上に否定が

あるわけじゃないんであって

衆生を実体化し諸法を実体化

しているのは我々でしょう。

その我々に対する否定なんです」

 

私たちがなんでも

そのものがそのようにあると

実体化してそれに固執する

そういう心を否定する

ということでしょう。

 

「我に七難八苦を与え給え」

と、山内鹿之助は言っています

また、

「若い時の苦労は買ってもせよ」

という言葉もあります

今の私たちは

子どもにだけは苦労させたくない

という気持ちがありますが

しかし、

人々の心を打つのは

「おしん」のようなドラマで

日本といわず外国でも多くの人に

感銘を与えました。

という私は一度も「おしん」を

見たことがないのです。

まあ、おしんと似たような生活で

テレビを見る暇さえなかった

ということです。

 

そこには

生活苦というかそれほど厳しい

自分というものを言えないような

そういう困難なご苦労があって

おしんという人物を

作り上げていった

自分の自我がつぶされ

そして本当の自分を磨いていった

そこに美しい本当の自分が

出てくるということです。

 

そういう

周りからの苦労が無ければ

自然と自分の好き放題にして

私たちの自我の妄執というか

おれが! おれが! という

自分の我をたてる

そしてそれに固執して

離そうとしない

そういう心が成長してくる

ということです。

 

自我と簡単に一口に言いますが

その心の中は幾重にも

自我がひそんでいて

なかなか単純には否定しきれない

そういうことで

不とか無という否定語が

連続していて

それを一つ一つ否定していく

そういう意味があるようです。

 

『十地経』の十地という位も

自我を否定していく道程と

いってもよいと思います。

それを「対治」という言葉で

次々と出てきます。

 

やはり、否定を通さないと

本当のものは出てこない

苦労を潜り抜けないと

本当の人間にはなれない

ということでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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