私たちの能力ということは
西洋の考えでは
神様からの贈り物つまりギフト
Giftedというようです
東洋的考え方では「天賦の才」
「賦」ということも、
みつぎもの・さずける、という
天から授けられた才能
ということでしょう
煩悩ということも
生まれながらに持っている煩悩と
(倶生起の煩悩)クショウキ
それから生きているうちに
次第についていく煩悩
(分別起の煩悩)フンベツキ
とがあるように
能力ということも
生まれながら備わっている
ものもあれば
勉強したりして身に付く
能力もあるようです。
お釈迦さまにも十大弟子という
方がおられて
それぞれの違った能力を
身につけた方々ですが
それはさとりということも
一つではなく
百人おれば百通りのさとりがある
ということを表しているのでしょう
多様性ということがありますが
これでなければいけない
ということではなく
その人その人に合った
求め方があり、頷き方も
それぞれの個性です
本蔵院の応接間に掛けられている
額ですが、
安田理深先生の言葉です
「人間はその自然性に於て
自体的に完成している
しかし、これを自覚的に
完全する使命と能力とを
賦与されているものは
有限なる人間の生存在である」
という
なかなか難しい言葉ですが
何となく分かるような気もします
与えられた能力
誰にでも形は違えども
与えられているのです
つまりギフテッドということは
特別な人だけにあるのではなく
だれしも与えられた能力
それを自覚して限られた生の
中で見出していくのは
私たちの使命でしょう。
さとりということも難しくもあり
また、これでなければいけない
ということでもなく
反対に何でもいい
自分勝手にこれでいいんだ
というものでもなく
「ありのままで」
という言葉もありますが
やはり本当の自分に出会う
ということのように思います
先日、羽生選手
世界最高得点を出された
それは素晴らしい演技でした
あの美しさにはほれぼれとします
しかし、
後でのインタビューで
これからやるべき事が見えてきた
というような
まだまだ、点を出せるところが
あるのでは
というようなことを
言っておられました。
やればやるほどやるべきことが
見えてくる
というのが本当のことでしょう
もうこれ以上
やることはなくなった
ということはやってない
とも言えるようです
仏道は無限の修行といいます
やればやるほど課題が見つかる
というのが本当の修行でしょう
もうこれで修行は成満した
というのはある面からいえば
本当にできてないのかも
しれません。
しかしまあ、
科学的にはIQというものもあって
持て生まれたものは
どうすることもできない
ということもあります
それを本当に生かすのは
与えられた有限なる身であり
与えられたものを
使命と受け止めて
それを花開かせるのも
有限なる生存在なのです。
十大弟子ということは
比べるな
ということでしょう
人にはそれぞれ違った才能があり
それぞれに花を咲かせる
多様性ということを
表しているようです
IQの高い舎利弗もいらっしゃれば
掃除しかできない
周梨槃特シュリハントクという方も
いらっしゃいます
いずれにしても
修行の歩みを
止めないことだと思います。
そこに本当に
ギフテッド、自分の力は
自分だけで出来たものではなく
それは与えられたものなのだ
という自覚が生まれて来るでしょう
(それは神さまから
ということではなしに)