本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

今週の言葉 9/22~9/28

2008-09-21 23:19:20 | 今週の言葉
 悠々と 穢土に居れる
        世界を 浄土 という


 穢土 ( えど ) という言葉も  浄土 ( じょうど ) という言葉も

もはや死語になっている言葉でしょう。

 穢土とは汚れたところ、飛躍かもしれませんが、自分中心の心ということです。

エゴの世界です。自己チュウ! になってくると自分の周りの人たちに、いやな

思いをさせてしまいます。

つまり、自分中心ということは、当たり前かもしれません、が、それだけではすま

なくなり、回りから敬遠されてしまいます。

 ということは、知らず知らずのうちに、回りの人に迷惑をかけ、自分の回りを汚

していっているのです。

 そういう意味を込めて 『 穢土 』 といったのでしょう。


 今日もある人が飛び込んで来られました。

「 チョットいいですか! おれ今、不安で不安で仕方がない!

    自殺したい気分 ! どうしたらいい ? 」

( ご近所に住む方で、今はフリター、28日にはお参りにこられます。 

  毎度のことながら、忙しい時期にかぎってやってこられます、

  でも聞き捨てならない言葉 )

 腰すえて聞くことに、 聞いていくうちに …  仏教的には

「 不安に感じることが正常で、不安に感じない方が危ない 」

という、  なんやかやで   そういう結論になりました。  ?


 当たり前のように生きているが、よくよく見ると、いつ何が起こってもおかしく

ない、いつ事故にあうかもしれない、また病気が見つかるかもしれない、

そういう不安定な日を過ごしているのです。

 『 死を超えるとき、生活は成就する 』 という言葉もあります。

有限な身が無限と言う一瞬、死も我が物である、と言う感覚、

生まれてやがて死んでいくのではない、死という有限を知った命

そのときこそ、命は輝く !  ライフ が アライブ する。


 そういうことをヒントに今週の言葉を見てみますと、

無限と言う一瞬に触れた命は、この不安一杯の苦しみの世界に、

あえて身をおけるのではないかと、現実を逃避するのでなく、

このどうにもならない現実こそが、命を輝かせる場所なのだと!


 ま~、今日も突然の来訪の方とそんな話で、 

     『 今日のところはこれで帰る、また来るね 』

と去って行かれました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

恵楓園彼岸会

2008-09-21 18:51:11 | 住職の活動日記
 恵楓園も高齢化と各宗教のお世話の方々もなくなり、今回は真言宗真愛会の

方々と勤めました。

 以前は全宗教あげての法要でしたので、とても荘厳で、園長先生の追悼文もあ

り、当番でお説教もありましたので、彼岸会はとても緊張したことを覚えていま

す。

 今日は、父が亡くなったこともあり、父の思い出話をしました。話していくうち

に、昔のことを思い出されたようで、涙されていました。


一歩外に出ると、

 季節はよくしたもので、恵楓園の庭は彼岸花が見事に咲いていました。




 また園の方が育てられている、珍しい花を発見、育て方やら楽しい話で盛り上が

りました。

   

 これは 『 サンパラソル 』 という花です。この赤い色が見事でしょう。


  

 この花は 『 モンデビラ 』 という名前だそうです。一回聞いただけでは、

絶対に憶えられません。 ( 一応手帳に書いてきました )

 有り難いことに、この花は一鉢頂いてきました。

お寺の玄関に飾りましたので、お参りのせつにはぜひご覧ください。

 ( 鉢に書いておかないと忘れてしまいそうです。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間の終わるところ、仏の始まるところ

2008-09-20 23:27:47 | 住職の活動日記
 人間の延長線上に仏があるのではなく、かといって、

仏とは人間と異質なものではありません。( 修行して人間が仏になるのです )

 人間をどこまでも延ばしていっても、それは煩悩が磨かれてくるだけで、

それは文化的であったり、哲学的であったり、また美しいとか、今風の癒しという

ことになります。それは、仏になるということとは一線を画すものです。

 そこには、大きな転換点がなければなりません。

以前、『 十界 』 という人間の心の状態を書きましたが、

その中で 『 天 』 という世界がとても大事なのです。

人間がいきなり仏になるわけではありません。

人間よりひとつ上の世界に 『 天 』 という世界があります。

しかし、この世界もまだ迷いの世界です。 ( 有頂天とか )

この 『 天 』 という世界が 

 「 人間の終わるところ  仏の始まるところ 」

という意味を持ってくると思います。

天というのは、人間が望むことがすべて満たされた、という状態です。

 ( 現代の日本はこういう状態ではないかと思いますが )

でも、何かしら 『 満足 』 がない 

普通はここで趣味とかレジャーで誤魔化そうとします。

 それで、 『 本当に満足か  』 という、微かな声が心の奥で

叫ぶのです。

 その声に気づいた人が、仏の第一歩である 『 声聞 』 ( しょうもん )

自分を無にして、人の話に耳を傾けてみよう。

 声を聞こうということ自体が、自分を超えた存在なのです。


『 人間は人間で人間になることは出来ないのです。 』

 人間の構造として、本来的に自分の中に自分を超えた存在を孕んでいるのです。

特別な人にあるというわけではなく、誰でもが自分の中に持っているのです。


 まとまりませんが、何かしら今日一日ずっとこのことが気になってましたので、


微かな声として、人のためにしてあげたとき、ちょぼ気持ちいい !

というようなことをヒントにして考えてみてください。

 ( 自分を犠牲にしたのに、なぜ心が喜ぶのか? )
 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

じつに不思議だ!

2008-09-19 22:34:32 | 住職の活動日記
 前にも書きましたが、池の中のえびが育っています。

夜な夜な、懐中電灯を片手に池の中をじっと見ている、変な住職!

体長が約2センチほど、以前は2匹でしたが、今日よく見ると、

1・2・さ~ん!匹 、いました。

 小さい方は1センチほどです。

自然のままの小さな池ですが、そこから命が誕生しているのです。

 『 なにもたさない、なにもひかない 』 ( 不増不減 ) です。

ただ、時折フィルターの掃除をするだけ、後は自然のままに任せています。

 金魚も、もう4代目の金魚が育っています。

小さかった金魚も餌を食べられるくらいになると、急に大きくなってきます。

数えられないのですが、10匹以上はいることは確かです。

 大きい金魚は優に20センチを超えています。

今は、白鷺も飛んでこないし、水辺の草も生い茂っていて、いい隠れ家を作ってい

ますので、金魚にとっても一番幸せなときでしょう。

 えびも藻の中に上手に家を作っているようです。

写真に撮りたいと思うのですが、夜しか出てきませんし、水面が反射してやはり

写りません。

 変な住職の一人の楽しみです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

変革 改革 チェンジ !

2008-09-19 00:02:29 | 住職の活動日記
 いろいろな問題が起こっています。 お米 などなど …

ひとつには民営化とか改革の副産物かもしれません?

 改革とか変化、変わっていくということも大事な問題ですが、

何をどう変えるのかと言うことも大きな問題です。

 反対に変わらないもの、変えてはいけないもの、ということを考えてみました。


 お経の中では変わらないということで 『 常 』 という字と、同じ 「 つ

ね 」 でも、 『 恒 』 という字も使います。

  
 『 常 』 は、真理は常に変わらない。時間によっても、いつでもどこでも

あてはまるのが 『 常 』 という字を使います。

 「 春の姿は如来常住 」 というように使います。


 『 恒 』 は、変わるんです。変わるけれども連続している、そういう意味で

使います。 『 伝承 』 ということをあらわしていると思います。

生滅しつつ連続している。

 京都の清水焼の友人が 『 古い伝統を継承していくには、恒に新しいもを取り

入れていかねばなりません。 』 いわれた言葉を思い出します。

お抹茶の茶碗に、アフリカのある部族の盾の図柄を取り入れておられたのです。

古い技法は残しつつ常に新しいものを取り入れて、変化しながら連続している。


 思うのですが、改革も根底に 『 恒 』 ということを考えなければいけない

のでは、生滅しつつ連続している。現代は見ていると連続性がないように思ういの

です。改革という名の下にすべてを壊してしまった結果が、お米の流通の根幹まで

壊してしまったのではないでしょうか。

 改革・チェインジ、ということも、すべてが 『 善 』 のように思われがち

ですが、変化しながら連続している。その連続している 『 恒 』 を忘れてし

まうと、破壊に近いような改革になってしまうように思うのですが?


 政治のことはわかりせんので、勝手な素人の意見と流しおきください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台風接近中!

2008-09-18 20:42:25 | 住職の活動日記
 天気予報では台風が九州に上陸の様子です。

自転車ほどのスピードとてもゆっくり進んでいるようです。気がせきます。

彼岸花が気になりました。咲いているピンクの彼岸花もあるのですが、つぼみの彼

岸花も気にかかりました。台風でつぼみが折れてしまうかもしれない。

と思って、何枚か撮りました。



 咲いてくれることを願っています。

アジサイに目をやると、バッタの子どもがいました。しきりに葉っぱを食べていま

す。アジサイも花も終わったことだし、葉っぱも切ってしまうのなら、

 バッタ君のゴチソウになたほうが、お互い共存共栄いいかと思ます。

接写で撮ってみましたが、何せおもちゃみたいなカメラなので仕方ありません。




 でも、このカメラ優れもので、レンズの部分が180度回転するのです。

ですから、結構面白いアングルも取れるのです。

 

 ピントが甘いのは、仕方がありませんが、寝ころばらなくても、蟷螂君の同じ目

線で写真が撮れるのです。

 携帯に押されてでしょうか、この機種はもうなくなりました。レンズが動くとい

うことをもっと発展系にしていかれたら面白いカメラが出来上がったかもしれませ

ん。 と、思っておりました。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

合掌する姿

2008-09-18 20:25:06 | 住職の活動日記
 合掌する姿ほど美しいものはないと思います。

今日の若いカップルもそうでした。両手をきっちと合わせて、頭をたれて、お参り

されてる姿は神々しいほど美しいものでした。

 普通であれば、若い方とかはお寺には無縁なのです。

しかし、悲しい出来事があって、一緒にお参りにこられた。

お寺とのご縁は悲しい出来事が始まりのようです。


 よくよく考えてみると、縁は何であれ、仏前に額づき、静かに手を合わせ

頭をたれている、その事実も大切なのではないでしょうか。

 若い方は 『 合掌 』 なんて、めったに出来るものではありません。

それが悲しい出来事かもしれないけれど、合掌させてもらう、縁を頂いたと、

思い直すことが出来れば、してしまった悲しいことが清められるというか、荘厳

されてくるようにも思うのです。

 
 ほんとうに、若い方の合掌される姿はとても美しいものです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

そばが食べたくて

2008-09-16 23:10:01 | 住職の活動日記
 昨日、『 不動の光 』 の印刷も朝から刷り終わり、発送の準備にかかり、

母も手伝ってくれたこともあって、夕方までには終わってしまいました。

 中央郵便局は明日取りに来て頂くことにして、 「 862 」 の分は東郵便

局へ持って行きました。

 あっさりとおそば  でもと思って、以前紹介していただいた、日航ホ

テルの裏にある 「 更科蕎麦 」 のお店へ向かいました。

 気が合うというか、たまたまなのか、息子夫婦が母を連れて 「 敬老 」 の

心を込めて、食べ終わっていたところでした。

 結構賑わっているようで、障子の奥から 「 トントン トントン 」 と気持

ちのよい音が聞こえてきます。そっと少しだけ障子を上げると、見事な手さばきで

蕎麦を切っておられました。

 

 おそばのまえに、穴子の酢の物を頼みました。これもまた絶品で、そっと帰るつ

もりが、 「 やはり、そばにはお酒かな~ 」 ということになって、代行で帰

ることにして、少しいただきました。

 お蕎麦は精進揚げのお蕎麦にしました。



 やはりここのお蕎麦はとても美味しかったです。  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父の手帳

2008-09-16 22:42:42 | 住職の活動日記
 母より預かった父の手帳、 「 お寺の歴史 」 から 「 老化防止 」 

などなど、気にかかったことをこまめに記しておられます。

 わかるけどつまらん話より わからんけど面白い話を聞く
         この無駄は人を輝かせる 

 「 来る人も また来る人も 福の神 

 「 愛ある限り 愛   命ある限り 命 

 「 いり来る人に やすらぎを   去り行く人に幸せを 

 「 生涯現役 


 などの言葉が気にかかりましたが、明るく周りの人を楽しませることに徹した

本当に前向きの父であったと思います。


 18歳で父と別れ、それから23年間三浦先生のもとで過ごし、熊本に帰山する

と、入れ替わるように今度は父が醍醐寺へ単身赴任7年間、よくよく考えると、あ

まり父と一緒にいる時間が少なかったように思います。

 今頃になって、父の後姿を探しているようです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今週の言葉 9/14~9/21

2008-09-14 22:37:21 | 今週の言葉
   人生に 雨や嵐があってこそ
               生活が 浄められてゆく


 最近、特にそのように感じます。

もし、何事もなかったならば、人間どこまでもうぬぼれて、のぼせ上がっていくか

わかりません。

 辛いこと、悲しいことが人間を鍛え上げていくような気がします。

さいきんは、特に若い方がお見えになります。1、2時間、話し込んでいかれま

す。お寺にお見えになるということは、それ自体ただごとではないのです。

もし、何不自由なく幸せであれば、たぶんお寺とは無関係だと思います。

 
 「 浄められる 」 ということは、普通は自分さえ考えておけばそれでいいの

です。ところが、どうしても 「 他 」 という存在を考えざるをえない事態が

起こってきます。

 「 自分だけではどうしても解決がつかない 」 そこに、自分の考え方、生活

の仕方を見直さなければいけないことになってしまいます。

 他と共に、他のために、と考え出してくるとき、自分の生活が清められていく、

というか、人の気持ちがわかるという、心が深くなっていくのでしょう。


 共に考え、共に悩み、共に語り合う  そして  浄められていく場所 

それが、お寺ではないかと思っております。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする