人生に 雨や嵐があってこそ
生活が 浄められてゆく
最近、特にそのように感じます。
もし、何事もなかったならば、人間どこまでもうぬぼれて、のぼせ上がっていくか
わかりません。
辛いこと、悲しいことが人間を鍛え上げていくような気がします。
さいきんは、特に若い方がお見えになります。1、2時間、話し込んでいかれま
す。お寺にお見えになるということは、それ自体ただごとではないのです。
もし、何不自由なく幸せであれば、たぶんお寺とは無関係だと思います。
「 浄められる 」 ということは、普通は自分さえ考えておけばそれでいいの
です。ところが、どうしても 「 他 」 という存在を考えざるをえない事態が
起こってきます。
「 自分だけではどうしても解決がつかない 」 そこに、自分の考え方、生活
の仕方を見直さなければいけないことになってしまいます。
他と共に、他のために、と考え出してくるとき、自分の生活が清められていく、
というか、人の気持ちがわかるという、心が深くなっていくのでしょう。
共に考え、共に悩み、共に語り合う そして 浄められていく場所
それが、お寺ではないかと思っております。
生活が 浄められてゆく
最近、特にそのように感じます。
もし、何事もなかったならば、人間どこまでもうぬぼれて、のぼせ上がっていくか
わかりません。
辛いこと、悲しいことが人間を鍛え上げていくような気がします。
さいきんは、特に若い方がお見えになります。1、2時間、話し込んでいかれま
す。お寺にお見えになるということは、それ自体ただごとではないのです。
もし、何不自由なく幸せであれば、たぶんお寺とは無関係だと思います。
「 浄められる 」 ということは、普通は自分さえ考えておけばそれでいいの
です。ところが、どうしても 「 他 」 という存在を考えざるをえない事態が
起こってきます。
「 自分だけではどうしても解決がつかない 」 そこに、自分の考え方、生活
の仕方を見直さなければいけないことになってしまいます。
他と共に、他のために、と考え出してくるとき、自分の生活が清められていく、
というか、人の気持ちがわかるという、心が深くなっていくのでしょう。
共に考え、共に悩み、共に語り合う そして 浄められていく場所
それが、お寺ではないかと思っております。