当たり前のような、
時間的に見れば20日が彼岸の入り
明日の23日がお中日
26日が彼岸明けということです。
しかし、
空間的に考えると
一寸微妙なところがあるような
お寺が彼岸の浄土になったのか
確かに彼岸花は咲き
庭木の剪定もすみ
砂利のところも掃き清められて
まさにそのような
しかし、
私たちのところに
お浄土という彼岸が来たのか
弘法大師の言葉に
「心境冥会して道徳玄存す」
ということがあります。
心と環境は互いに相互関係している
外の環境はその人の心の表れである
ということです。
その人の心の浄土が
外の環境を表現しているのでしょう
心が乱れれば環境も汚れてくる
外の環境が整えば
おのずと心も清められてくる
ふと思うのですが
「初発心時すでに正覚を成ず」
ということがあります。
志を起こした時、
その時に仏の正しい悟りが
その人の心に成り立っている
ということです。
修行する時、
人間の心が段々に仏に近づいていく
ということではないのです。
仏の心を頂いて
修行が始まっていくということです
人間心で修行しても
人間の心を延長するだけで
賢い凡夫になるだけです。
仏に近づくことにはなりません
仏の心で仏の修行をするのです
お経には
「般若波羅蜜多」と書いてあります
般若、智慧の修行をすると
般若という智慧で波羅蜜を行じる
ということです。
でなければ、
前五波羅蜜(布施、持戒、忍辱、
精進、禅定)はただの道徳修行と
なんら変わらないことに
なってしまいます。
波羅蜜の修行になるには
最後の智慧波羅蜜がなければ
波羅蜜の行にはならないのです。
では般若の智慧とは
これは自分を見抜く智慧です。
何も仏の智慧ということではなく
自分のずるがしこさ、ええ頃加減な
そういう自分の醜い心が見えてくる
ということが智慧なのです。
だからこそ、
波羅蜜の修行ができるということです
仏の心を頂くとは
そうだったかと!
自分の悪さが頷ける
ということです。
であればこそ修行に励める
ということになるのでしょう。
美しいと思ってやる修行
こそが迷いということでしょう。
自分の心の汚れが解るからこそ
仏の美しい心が解る
自分の考えた延長線上には
仏はないということです
自分の心に絶望して
自分の心の醜さを知った人
だけに仏は見えるのでしょう
「地獄に仏」といいます
地獄を知った人にしか仏は
見えてこないということです。
たまたま地獄に仏さんがいた
ということではないのです。
明日はお彼岸のお中日
心にもお寺にもお彼岸がやってくる
ということでしょう。
お掃除していたら
どこかきたのかナメクジ君
自分の浄土を探して安住の彼岸を
求めているのか
それとももうすでに
自分の浄土を表現しているのかも
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