本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

ないものはない、あるものはある

2021-03-04 18:08:54 | 十地経

ないものはない、あるものはある

と、分かり切った言葉ですが、

「ないものをなくすことによって

あるものを明らかにする」、

ということなのです。

 

講義では

「この本当のものを

なんか否定で表すというのは

どういうかというと、

否定されるべきものが

手前にあるんです。

外にあるんじゃないんであって

手前の方に否定されるべき

ものがあるんです。

その手前にあるということは

それは遍計所執でしょう。

この遍計所執というのは

主観の固執です。

 

これ(遍計所執)を否定するのは 

否定できないものを

否定するんじゃないんで、

もともと否定されなきゃならず

また否定され得るものを

否定しとるんです。

否定できんものを無茶苦茶に

否定しとるんじゃない。

 

インドの論というのは

飛躍がないんです。

だから否定できないものを

否定するんじゃない。

否定されねばならず、

また否定が可能なものを

否定しとるんです。

 

それによって

あるべきものを顕わにする。

本来あるべきものを

顕わにするんです。

つまり、

あるものをあるとする

ないものをないとするんです。

非常に直截的でしょう。

これはアーリア民族の論理性と

いうものをよく表しているんじゃ

ないですかね。

ないものはないんだと、

あるものはあるんだと。

ないものをなくすことによって

あるものを明らかにするんです」

 

というようにありますが

なかなか否定しがたい

自分自身の固執はまず否定して

外にあるものは否定しない

これは、

よく社会を変えようとか

世界を変えるとか

いろいろ言われることが

ありますが、

外の世界ではなく、

一番身近な自分自身の

固執を否定していこうという

ことになると思います。

 

それから、

話はチベットの仏教について

翻訳ということも

私たちが読んでいる経典は

全て漢訳の経典ですが

これは漢民族が翻訳したのと

チベット民族が翻訳したのと

違いがあるということです。

 

漢民族は自国の文化に誇りが

あるのでしょう、

だから、合わないものは

捨てたり変えたりしている

そうです。

ところがチベットの翻訳は

インドの言葉をそのまま翻訳した

そういうことで

案外本当のことが伝わっている

ということのようです。

 

その一つに、

仏という言葉を漢訳では覚者と

目覚めた人と訳しますが、

チベットでは目覚めて広がる者と

いうように訳しているそうで、

これは「広慧」コウエという言葉が

あって、

目覚めたものでありまた

広がりを持っている者という

ことで、

この方が正確な翻訳ではないかと

というのは、

主観の固執(遍計所執)が破られて

くるというと

今度は智慧が広がっていく、

主観に閉ざされとった智慧が

その主観を破ることによって

智慧が広がっていく、

そういう意味で「広慧」という

チベットの翻訳の方が

より的確ではないかというように

述べておられます。

 

自分の思い込み、我執、

自我の妄執、遍計所執という

これを破るということが

一番の課題のようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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