宇治市民大学、
滋賀県立大学人間文化学部教授
「中井 均」先生の講演です。
矢張りこの題でしょう、
雨にもかかわらず大勢の方が
ご参加です。
一概に伏見桃山城といっても
時代とともにその姿があり
解ったようでわからなかった
ことだったのです。
今日のお話しで少しは分かったかな
というところなんですが、
結論から言うと、
「伏見城は重要だったからこそ
ややこしい」
とおっしゃていました。
淀城も淀君や鶴丸の城ではなく
もともとは三川合流の要衝の地
豊臣政権の城であったということで
茶々の産所となったことから
「淀君」の名称が生まれた
ということです。
伏見城の歴史も
三つの時期があって
秀吉の隠居所として指月屋敷
として作られた第一期
この頃、京都の聚楽第が完成
そして東山に大仏建立に着手
鶴松死去、秀次関白に就任
朝鮮出兵、と続きます。
第二期として
聚楽第に変わる指月城として
大きな城郭へと
隠居所から副都としての
機能をもたせ、
宇治川に面し、太閤堤を作り
陸路と水運との交通の要衝とし
伏見の地を都の中心とした
ということです。
第三期
慶長の大地震で指月城は倒壊
そこで木幡山伏見城を作り
秀吉晩年の居城とした。
この城の跡地が明治天皇の御陵に
なったということもあって
なかなか調査が進まなかった
ということです。
その後この伏見城は
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の
前哨戦で落城消失、
しかし、徳川家康によって修築され
家康、秀忠、家光の将軍宣下が
執り行われたのも伏見城です。
秀吉政権の城を引き継ぐという
狙いがあったということです。
大坂城は武家政権としての居城
京都の聚楽第は関白としての居城
しかし
関白秀次の事件後廃城となります。
そこで、
隠居城だった伏見の指月城が
秀吉の居城となり
大坂城を秀頼に譲った後は
この伏見の地に首都としての機能
をもたせたということです。
両城制ということ
大坂城を首都として伏見城を副都
という形です。
大坂城には秀頼を置いて
大名の奥方たちを住まわせ
伏見城には秀吉が
大名屋敷を作り、その城下町を
作ったということです。
地図を交えながら、
発掘の現場をこなしてこられた
豊富な知識で
聴く人たちを魅了したのでは
ないでしょうか。
頂いた資料と地図を片手に
現地を歩いてみたくなります
そのようなお話でした。
今まで感じていた疑問
少しは一つ一つ解けたような
気がしました。
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