仏教の言葉の中に 『 感応道交 』 ( かんのうどうこう )
という言葉があります。
私自身もとても好きな言葉です。
お寺の本堂にも古木に彫った 『 感応 』 という額があります。
「 感に応じて、道に交わる 」
【 衆生が仏を感じ、仏力がこれに応じるのを感応という。
道交とは相行き交わること、つまり衆生の感と仏の応互いに相通じ相交わること 】
とありますが、これは仏と人間だけに限ったものではなく、
人間同士でも、人と人との出会いは、この 「 感応道交 」 がなかったら
本当の出会いは成立しないと思います。
もっぱらこの方の本しか読んでないのですが、
『 安田理深 』 という方は 「 感の教学 」 ということを提唱されています。
感想から教学が生まれてくる。 と、
しかし、 「 感 」 ということもデリケートな問題で、
普通使う 「 そんな感じ ~ 」 となると、とても浅薄なことになってしまいます。
そうではなく、
「 非常に深い直感、根源的な直感 」
というようにも言われています。 また、
「 反省で深められてくるような直感 」
とも重ねて述べられています。
確かに、 「 感 」 ということも 『 責任感 』 ということもありますように、
「 責任 」 と取れるものではありません。
たとえ、辞職したとしてもそれですむものではありません。
しかし、そのことについて、どれだけ深く責任感を感じていくかが大事なのです。
宗教ということも、自分が生まれた、ということの責任を
どのように感じ取っていくかということで、
宗教の深さも変わってくると思います。
自分が生まれて、生きていくという責任をどう感じて
その重さを背負って生きていくかということが大事なことではないかと思います。
という言葉があります。
私自身もとても好きな言葉です。
お寺の本堂にも古木に彫った 『 感応 』 という額があります。
「 感に応じて、道に交わる 」
【 衆生が仏を感じ、仏力がこれに応じるのを感応という。
道交とは相行き交わること、つまり衆生の感と仏の応互いに相通じ相交わること 】
とありますが、これは仏と人間だけに限ったものではなく、
人間同士でも、人と人との出会いは、この 「 感応道交 」 がなかったら
本当の出会いは成立しないと思います。
もっぱらこの方の本しか読んでないのですが、
『 安田理深 』 という方は 「 感の教学 」 ということを提唱されています。
感想から教学が生まれてくる。 と、
しかし、 「 感 」 ということもデリケートな問題で、
普通使う 「 そんな感じ ~ 」 となると、とても浅薄なことになってしまいます。
そうではなく、
「 非常に深い直感、根源的な直感 」
というようにも言われています。 また、
「 反省で深められてくるような直感 」
とも重ねて述べられています。
確かに、 「 感 」 ということも 『 責任感 』 ということもありますように、
「 責任 」 と取れるものではありません。
たとえ、辞職したとしてもそれですむものではありません。
しかし、そのことについて、どれだけ深く責任感を感じていくかが大事なのです。
宗教ということも、自分が生まれた、ということの責任を
どのように感じ取っていくかということで、
宗教の深さも変わってくると思います。
自分が生まれて、生きていくという責任をどう感じて
その重さを背負って生きていくかということが大事なことではないかと思います。
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