第十番目は「智波羅蜜」です
仏教は慈悲の宗教とも
いいますが、
でも、本来は智の宗教です
六波羅蜜の六番目は
般若波羅蜜です
般若は智慧と訳します
六番目も智慧でさらに
十番目も智が出てきます
智ということも難解で
辞書を見てもとても詳しく
書いてあります
身近には、五智如来という
如来群があります
大日如来を中心に
東に阿閦(あしゅく)如来
南に宝生(ほうしょう)如来
西は阿弥陀如来
北は不空成就如来です
この仏に五智を配して
大日ー法界体性智
阿閦ー大円鏡智
宝生ー平等性智
阿弥陀ー妙観察智
不空成就ー成所作智
(じょうしょさっち)
というようになります
厳密には
六波羅蜜の智慧波羅蜜は
慧波羅蜜ということで
十波羅蜜の十番目が智波羅蜜
となりますが
智と慧、どう違うのか
というと、一言では
言えないものがあります。
慧というと
三学ということがあって
聞・思・修といいますが
詳しくは、聞慧・思慧・修慧
となります
この場合は智ではなく慧と
いうのです
先ずは、聞くということ
自分を無にして聞く
すると向こうが語りだします
仏像を彫るといっても
仏師には木が語りかけてくる
その仏を木の中から
取り出すだけだと、
木の声、
そこにいるほとけの声を
聞くから仏像ができると
そういうことも聞く
ということです
それから、
聞いたことを繰り返し
考え(思慧)
更に聞き直し、考え
それで
実行に移す(修慧)
こういう考えでやれば
実践することも間違いない
ように思います。
そこで講義では
あまり詳しくは述べて
おられないのです
「それから『如実に
一切の法をの相を観知す
これ智波羅蜜』であると。
十番目ですね。
前の般若というのは
六番目は般若です。
原音からいうと
ジュニャー波羅蜜と
これを智波羅蜜と訳す。
般若波羅蜜の方は
慧波羅蜜と、いう。
智と慧ですね。
智と慧はまあ区別がある。
般若は慧です。
慧というとどっちかというと
諸法平等というような
一切諸法は平等である
というのが般若であると。
と同時に、
一切諸法は差別しとると
こういうのが智です。
ハイデッガーに
『同一と差異』という
一つの論文がありますね。
だから力・願・方便と
いうのも、
力も願も方も実は智なんです
方便・願・力、
これみんな智なんです。
願といっても力といっても
方便といっても皆、
智のはたらきなんです。」
というように、
六波羅蜜にしても
般若波羅蜜という智慧が
なければただの修養的な
倫理的なものと
変わらないのです。
般若という智慧があるから
こそ仏教の修行になるのです
布施といっても
世間的な解釈では
人にはものを施しなさい
すると回り回って
自分に良いいことがあります
となってしまいます
そうではなく
布施という修行は
物惜しみの心を対治する
という行になるのです。
そういうように
根底に智慧がなければ
どんなにいいことでも
不純なものに
なってしまいます。
そこに智慧ということの
大切さがあります
智と慧の区別は
なかなか難しいものが
あります。
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