見るといっても、観という字もあります。
観音さまの観です。
見るという字も「正見」(しょうけん)
といって、この字も
仏教ではとても大切な字です。
何気なく見ていたら気がつかないでも
よくよく目を凝らしてみると、
見えてくるものがあります。
ふと、池のほとりの石を見ると
この細かい屑はなんだ ??
やや、虫の糞なのか
その上には松の木がある。
パッと見ただけでは分からない。
じーっと、それこそ
目を凝らして見ていると、
いるいる !!
この写真もパッと見ただけでは分かるでしょうか ??
松の葉っぱに同化したように、
いま、一生懸命食事中です。
この糞の量からすると、
やはり、取っておかないと
松の方が枯れてしまう。
今読んでる 十地経の中で
「止観」ということが出てきます。
このことが中心のようですが、
止まる、観る という、
簡単には、
ものそのものとなって見る、
そうすると、ものの方が語りかけてくる、
ということらしいですけど、
虫には迷惑な話かもしれませんが、
松の葉っぱとなって、
見続けていると、
突然、あそこにも、こちらにも
たくさんの虫が目に入ってきます。
殺虫剤を噴霧したらいいかもしっれませんが、
それでは大量虐殺になる。
虫と虫との真剣勝負、
私の目にとまらなかったら、
それは虫の勝ち、
松を住処として生き続けるでしょう。
だから、目にとまった虫を
一匹ずつ、手で取っていきます。
松を食べているせいか、
虫は松のとてもいい香りがするのです。
私の目にとまっただけでも、
松の木は大分息を吹き返すでしょう。
しかし、もっと大量に虫がいたら
松の木は枯れてしまうかもしれません。
松の木も剪定で、枝を切られます。
そのところで、お互い
虫と松とが微妙な綱引きで
どちらも命をつないでくれたらと
思うのですが、 ??
ま~~のんきな私の判断かもしれません ?
写真が小さくて分からないかもしれませんが、
ここにも虫がいるのですよ
命と命は絶妙のバランスで
お互いの命を保っているのかもしれません。
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