「記憶にございません。」
という言葉もある面からいうと
いい言葉かもしれません?
「忘れました」というと
何とかして思い出せということに
なるかもしれませんが、
記憶にないとなると
やったのやら、やらないのやら
そのこと自体が記憶にないという
便利な言葉かもしれません。
しかしながら、
私がそう言うと、
親父ボケたか!、しっかりせい。
と檄が飛んできます。
最近は忘れることが多く
また、名前とかのど元まで
出てきているのですが
どうしても出てこないということが
しょっちゅうあります。
物忘れと認知症
その違いは
ご飯を食べたけど何を食べたか
食べた内容を忘れるのは
ただの物忘れで心配がいらいない
そうですが、
食べたこと自体を忘れるとなると
これは問題で
朝ご飯食べたのに、
「おかあさん朝ごはんまだですか」
と言い出すと
これは認知症ということになります
「記憶にございません」
ということも、
まあ、立派な方がおっしゃるので
認知症ということにはなりませんが
介護される立場からですと
認知症ということになるのでしょう。
この忘れるということも
世間では
「忘れました」といえば
罪にもなりませんし
責任も問われなくてすむ
ということになるでしょうが、
仏教の立場から言うと
これは大問題で
忘れるということが罪といわれます
大随煩悩の中に
「失念」という煩悩があります
「念」というのは憶念不忘という
言葉があるように
深く心に留めて忘れない
ということです。
ですから、
「失念」ということは忘れる
ということです。
忘れたくらいそこまで言わなくても
と思うかもしれません
たかが忘れたくらいで!
ゴメンナサイで済むのでは
と思うかもしれませんが
仏教で特に失念というのは
大事なことを忘れる、
一番問題になるのは自分を忘れる
忘れることはそれだけですまないで
散乱という煩悩を引き起こしてくる
といってあります。
失念という煩悩は次の
散乱という煩悩の拠り所となる
つまり
忘れたということは
それだけで終わらないで次々と
煩悩を引き起こしてくる
ということです。
昔の諺に
「御堂は照る照る 御門は曇る
家に帰れば雨あられ」
ということがあります。
本堂でお話を聞いている時は
なるほどと頷いて
さもわかったような
気になるのですが、
さて、
お寺の門を出る頃になると
あの話は何だったのかな
ああ、こういう話もあった、と
かすかに覚えているのですが
家に帰った頃になると
もうすっかり話のことは忘れ
世間話でチャンチャンバラバラ
ということになってしまう
というのです。
そういう私自身もそうなのです。
それで
失念によって散乱という煩悩を
引き起こすということは
大事な自己を失うのですから
それによって心が千千に乱れる
ということになります。
喩として
「猨猴(エンコウ・猿)を繋ぐが如し」
と言ってあります。
あっちへ行ったりこっちへ行ってみたり
心が定まらない。
ということで寂静になれない
物事を静かに考えることが
出来なくなるということです。
つまり一番大切な
「三昧」に入れないということで
何も生み出すことが出来ない。
仕事をするにも三昧は必要で
逆に言えば、三昧がなければ
何も出来ない
ということになります。
そういうことをさまたげる
失念、散乱という煩悩は
何も人に害を与えるような
激しい煩悩ではありませんが
自分自身を駄目にするという
ことを心に銘記しておかなければ
いけない煩悩です。
平気で、
「記憶にございません」
を連発するようでは
他をダマせたとしても
自分自身の煩悩を増上させて
行っているということです。
出来ることなら
親父ボケたか!!といわれても
どうも記憶にございませんと
とぼけておられたら
さぞいいかもしれませんが??
煩悩ということを
大切にしている私には
やはり、しっかりと
死ぬまで憶念不忘で失念が
少しでも少ないように
しておかなければ、と
念じております。
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