千里の道も一歩から
というように何事も一歩一歩の
歩みが大切です。
時には何か近道がないかと
捜してみたりするのですが
結果としては思わぬ時間を食った
ということになります。
ちょうど、『十地経講義』では
次のように述べておられます。
「道の伝統を十地、
道というものの段階を十地といって
地という字が表したんですね。
地といっても大地といっても
いいですね。
その地というものに地地転入
ということがあります。転入です。
地地転入という言葉が『十地経論』
自身の中に出ている。
転はこれ回転です。
入があるなら出があるわけですね。
入るところがまた出るところでも
あるというような。
地というものは安住する所、
安んずるところが大地だ。
しかしながら、
安んずる所だけど
腰を落ち着ける所ではない。
面倒な話だね。
安んずる所ではあるけれども、
そこへ胡坐をかいておれない所です
胡坐をかこうものなら
いっぺんに引っくり返されてしまう
だから
なんかそこに動いておるですね。
動いておるから、
そこにやっぱり段階があるね。
つまり今日でいえば step だ。
step というものがここに出てくる。
一歩一歩というような歩みです。
それは歩むんです。
やっぱりそこに geist(精神)の
歩みというものがあるんです。
つまり、これもまあ問題ですけど、
真理は歩まないのだけど、
真理というもの体験は歩むんです。
そこに時間を超えたものが
時間で歩むんです。
歩むのは人間にあるんです。
真理が歩むということは
ありはしない。
十地はやっぱり真理という意味を
もっておるんですが、
だけどそれに十なんて段階を
つけるのは、
人間を通して真理を語るからだ。
人間を通して真理を語るから
そこに step というようなことが
一歩一歩というようなことが
立てられてくるです。」
人間は飛躍が欲しいものです。
何かの拍子にパッと閃いて
一瞬して悟りを開いたと。
まあそういうこともあるかも
知れませんが、
一歩一歩というところに
歩みの大切さ
飛躍を許さない厳密さ
そういうものがあるように思います
そして
安んじてそこに一服することを
許さない
そういう厳しさがあります。
「ちょっと一服!」
といって師匠より叱られた
「一服するのは死ぬ時でいい」
歩みをやめてはいけない
「人生は坂道だ!」 とも
足踏みしていて現状維持
ここまで来たのだからと
歩みをやめた途端
それは坂道を下り落ちている
ということです。
一歩一歩という言葉には
重みも感じますし
ある種の安らかさも覚えます
たゆまぬ努力を止めない
さとったとかさとらないとか
それは問題ではなく
そういう努力をできる道にいる
ということが有り難いのだと
どこを向いているのか
分からないような無茶苦茶な
努力をしても
どこに辿り着くかわかりません。
「『十地経』というものは、
道の伝承ということがあるですね
十地というものがある特定の個人の
記録ではなしに
いやしくも道に触れた人が、
かつて歩み、今歩み、当来もまた
歩むであろうところの道が
そこへ出ておる。」
というように出ています。
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