本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

聞くということ

2016-03-04 17:35:55 | 漢字

聞くということは大変重要で、

お経の最初の文句は

「如是我聞」(にょぜがもん)で、

真言宗では(じょしがぶん)と

読みますが、

聞くということが最初の行です。

 

「聞・思・修」ということもあり、

よく聞いて、よく考え、行動する。

 

ところが、最近   

聞き取りにくいことが

ちょくちょくあり、

すぐ反応して返事できない!!

「聞こえてますか??」

と、問い返されることしばしば、

 

念のために、

いつもの四条烏丸耳鼻咽喉科へ

聴力の検査です。

その結果は、

やはり、お年ということでしょう。

普通の高さの音は聞こえている、

けど、高い音と低い音は

どうも聞こえてないようです。

「まあ、補聴器とまでは  

様子を見ましょう。」

ということで、

周りの方に少し大きく話してもらい

こちらもより集中して聞くように

心掛けなければいけません。

 

人間の五感のはたらきも

一番ウエイトを占めるのは「視覚」

目で見ることが83パーセント、

次が「聴覚」で、11パーセント

そして、「臭覚」の3,5パーセント

「触覚」が1,5パーセント、

「味覚」の1パーセント

と続きます。

赤ちゃんを見ていますと

味覚・触角が一番のはたらきを

しているようです。

動物は視覚聴覚もさることながら

臭覚も大きな部分を占めている

ようです。

親子とか仲間とか臭いで

判断しているのではないでしょうか。

 

聞法ということがあります。

教えを聞くのは耳からです。

 聞くということも非常に難しい、

自分の都合に合わせて

聞くのではなく、

自分を抜きにして聞く、

嫌なことでも、

自分をまな板に乗せたつもりで、

自分の痛いところを

素直に聞く、

 

聞思修といわれるように

修行の第一は聞くということです。

なかなか聞けないのは

知らず知らずについてしまった

心についてしまった

撥水加工のようなもので、

自分に都合の悪いことは

跳ね返してしまう

そこに素直に聞けないことがあります。

 

それを破るには

さらに繰り返し繰り返し

聞いていくしかないのです。

 

聞くという字も

「聞」・「可」・「聴」とあります。

「聞」はきこえる、声が耳に入る

「可」はききいれる、可決という、

「聴」は聞こうと思ってきく、

「聴」と「聞」は微妙に違って

こちらから先方を聞く場合は「聴」

先方のことをこちらへ聞き取る

そのときは「聞」を使います。

教えを聞くという時には

重ねて「聴聞」というように使う

ときもあります。

 

お経の最初の文句

「如是我聞」は

お釈迦さまの教えを私たちが

聞き取るということで

「聞」を使うのでしょう。

インドの言葉でも「我」という字は

主格ではなく、「わたしが」ではなく

ロカティブという「わたしにおいて」と

厳密に分けているようです。

お釈迦さまの教えを私において

このように聞き取りました。

という意味になるのでしょう。

 

聞くということも

よくよく考えれば

結構都合よく自分に合わせて

聞いているものです。

そして都合の悪いことは

上手に聞き流しているものです。

 

本当に聞くということは

簡単そうで難しい!!

これから、ますます

耳も老化していくとなればなおさら

しっかり聞かなければ

と、診察受けてしみじみと思いました。

 

 

 

 

 

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