本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

人間の本来のあり方が求道という形をとる

2021-02-16 20:10:51 | 十地経

人間のあり方というものを

みて見ると、

ということで講義をみて見ると

 

「分別に立って悩んでおる衆生か

あるいは染められた、

自分の我執に染められた、

自分自身を失って生きとる人間か

あるいは自分を回復して生きとる

人間か、

というのが一番具体的な

人間のあり方でしょう。」

 

ということがでてきます。

悩んでいるか、

我執によって自分を失って

生きているか、

または自分を回復して

生きているかという

三つに分けられています。

悩んでいるのはまだしも

我執ということによって

自分を失っているということすら

分からなく生きているのが

私たちのようです。

 

そこで、普通に考えると

仏法とか信仰とかいってる人間は

特別な特殊な人間と

思ってしまいます。

 

「仏教を求めるだの、

種智院大学は小さい学校ですが、

小さいのはそれは特殊だからと、

社会人とかそういうのが一般の

人間であって、

坊主になるというのは、

特殊な人間だとか、

こういう具合になる。

もっといえば、

そういう考えからいうと、

宗教というものは非常に特殊な

もんだと、

こういうようになるんじゃないか

 

そういわれても仕方がない面も

あるんです。

宗教が特殊なんじゃない、

特殊化された宗教になっとるから

今は。

世間離れのした、

人間に関係のない

宗教になっとるから、

だからしてそう見られるように

なったこともやむを得んけど、

しかし、

宗教そのものが特殊なんでは

ないんです。

 

宗教というものが

別にあるわけじゃない、

宗教という言葉が、

キリスト教から出た言葉ですから

宗教は答えじゃないんだ、

問なんだ、問題なんです。

宗教という問題、

それは、

自己を失った自己を

回復しようという要求や。

そういう問題が宗教や。

 

そういうのが道を求めるとか、

いうんですが、

求道心、

だから求道という場合は

特殊な人間じゃないんだ。

人間がね、

一番ね、真面目になった場合や。

人間が本来の自分の位置を

見出した場合の人間のあり方が

求道なんです。

 

変わった風変わりな

人間なんじゃない、

それが本来なんだ。

それが変わっとると思うほど

皆が変わっとるんだ。

思う方が変わっとるんだ。」

 

というように出てきます。

ふと思うと、

「勉強会」などと称して

仏教の勉強をしているのですが

傍から見ると何と暇人の

たわごとのように見えるでしょう

もっと金儲けの話とか

役に立つ話をしたらどうか

と言われるかもしえません。

しかし、

このような講義の話を

聞いてみると、

やはりそうではなく、

人間が一番真面目になった場合

そういうことが

本当の人間のあり方なんだ

ということが改めて

思い知らされます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする