本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

不即不離=絶妙のバランス

2021-02-05 19:52:32 | 住職の活動日記

「不即不離」ということも

普通には、つかず離れず

というように言います。

妻との関係も不即不離が一番

といった方もいらっしゃいますが

仏教語としては

もう少し違った意味が

あるようです。

 

 

背割提の桜の古木

よく見るとそれぞれに

個性のある姿になっています

 

 

たぶん、

数十年前に植えられた時は

同じ形をした桜の苗木

だったのでしょう

それが、何十年もたつと

風雨にさらされたり

人によって折られたりされて

独特の造形美になっています。

しかし、

この桜も台風で折れたりして

なくなってもいます。

 

 

たまたま見かけた鳥さん

エサを探すのに余念がありません

虫たちもまだ出てきていないので

十分な餌にありつけないかも

しれません。

寒すぎたりしたら

死んでしまうかもしれません。

 

「生・老・病・死」

ということがあります。

生まれたものは必ず老いて

病気して死んでいきます。

木々にしても、草花にしても

鳥や虫たちにしても

私達もすべて同じです。

生まれ、老い、病気して

やがて死んでいきます

これは誰にでも当てはまる

自然の摂理です。

 

ところが

お釈迦さまはこのことを

苦ということでとらえられた

生苦・老苦・病苦・死苦

ということです

生老病死という自然現象を

苦の存在として見られたのは

お釈迦さまだけでしょう

つまり仏教だけが

こういう自然の姿を

苦と見たのです。

たぶんほかの宗教ではないと

思います。

 

不即不離ということを

仏教の中でも「唯識」という

教学は「理・事」というように

みています。

事とは自然のありよう

理とはその自然のありようを

苦の存在としてみる

それが真理(理)の姿である

ですから、事と理とは

不即(一体ではない)

しかも真理それ自体は静的で

動きがないが、しかし

その活動の根本には

物事の本質(理)がある

道理の根源があるから

見るすべての現象(事)が

色々の姿をとっている

ということで、

根本の真理の「理」と

表れている現象・姿は

いろいろな形をとれる

ということで

「不離」(別ものではない)

ということのようです。

 

お経に出てくる言葉では

「事とは依他起エタキの時法

 理とは円成実エンジョウジツの

 真如である」

というように出ています。

依他起、他に依って起こる

縁によって起こるということ

です

円成実とは

円満(すべてのものにまどか)で

成就(不生不滅)していて

その根本は偽りがない真実である

ということで略して円成実と

いわれています。

 

不即不離ということも

ただ単に、つかず離れず

ということだけでなく

私たちが見ているすべての現象

姿ある形は

その存在をしてたらしめている

本当の姿・真如がある

という意味合いも含んでいます

 

このことは

正しいかどうか分かりません

散歩していて木々や草花を見て

鳥たちの忙しそうに歩き回る

そういう姿を見て

お釈迦さまはそのありようを

苦の存在とみられた

 

その苦ということで

少し分かりにくいのは

生苦ということです

生きるという生活苦では

ありません

苦ということを

もう少し厳密に見ると

苦苦といって

自分にとって都合の悪いものが

やって来たという

病苦や死苦というもので

反対に都合のいいものが

自分から離れていくという苦

壊苦エクといわれます

老苦がこれにあたります。

アンチエージングといくら

頑張ってみても

若さは離れていきます。

 

そこで分からないのが

生苦です

この苦は行苦ギョウクといわれます

この行は諸行無常の行です

楽しそうにしていても

ふと虚しさというかつまらなさが

おそってきます

何かしら楽しんでいるようで

楽しめない

それは

自覚できないかもしれませんが

本能的にいつかは死ぬという

そういうものがちっらちっらと

顔を出すのです。

 

生苦というのは

生きている陰に死ということが

付きまとっている

そういう苦しみです

ですから普段は何も感じません

死ぬまで感じない人もいます

 

しかし、こういうことを

受け止めるところに

人の命の貴重さがみえてきます

永遠ではないのだ

限られた命を有限の命を

生きるところに

一瞬永遠という時間に

触れるのです

「永遠の今」という

時間は無限に流れていく

その中に今という一瞬を切り取る

そういうところに

いのちの輝きを見ることが

できると思います。

 

安田先生の言葉ではないので

正しいかどうか分かりません

ただふと思った感想です。

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
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