本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

人間を病人ととらえている

2021-02-10 20:37:59 | 十地経

お釈迦さまの最初の説法、

初転法輪において説かれた内容は

四諦(四聖諦)といわれています。

苦聖諦・集聖諦・滅聖諦・道聖諦で

苦集滅道クジュウメツドウと略して

いわれています。

これは一つにはインドの医学で

病人を見る方法ということです。

そういうことについて

講義では、

 

「間違った考え方、

間違った固執を破るという意味が

対治なんです。

真理に照らして妄執を破る

わけなんです。

転倒しとる、

せしめとるものを破ると。

一つの病気なんです。

僕は今でもフロイトという人を

非常におもしろいと思うんです。

何故かというと、

深いことは別としてですね、

人間が病人だととらえたことが

非常におもしろいと思うんです。

 

けどそれは医学というものです

けども。

人間は胃袋が悪いといっても

胃袋だけ病んでいるいるものは

おらんのであって、

胃袋を病むことによって

自分自身を病んどるわけです。

わしが死んだら

子供はどうなるかといって、

自分の胃袋に関して、

子供まで心配しとるです。

 

だけど、

あらゆる病気は、そういう、

一つのノイローゼとか、精神病、

精神という字を使うけど、

心理です。

精神分析という具合に翻訳しとる

プシコ・アナリーゼというん

だから心理分析です。

病的心理の分析です。

 

そうすれば、

苦悩ということが

病状なんだろうと思います。

人間は苦悩して生きとる

ということが病状なんだと。

その原因があるわけです。

原因といえば因縁があるわけです

苦悩して、苦悩たらしめている

因縁があるわけです。

 

それが四聖諦、苦集滅道の

第二番の集ですね。

苦をして苦たらしめている因縁

があるわけです。

それから今度は滅というのは、

なおったという意味です。

 

なおったという意味にも

いろいろあるですね。

どういうのがなおったかと。

僕は結核をやって、

結核にかかってましたけど、

まあ僕は外科手術しなかったんで

そしたらね、

退院してもいいと。

あなたの状態は、臨床医学上

なおったという意味ですと。

えらい念押しとるんや。

徹底した意味で

なおったというんじゃない、

臨床医学の上でなおったと、

こういう意味でね。

病巣はまだ残っているんだから

ただ封じ込めたんだね。

だから臨床学としては、

それで完結したと。

こういう具合に、なおる

ということもいろいろあるね。

 

だからして、

幸福になったのが

なおるんでもないしね。

痛い病気がなおったといっても

また病気という思いがあったら

なおらんのじゃないかね。

病気という思いがあればまた、

いつ痛くなるか分からん。

痛いのはなおったけど、

いつかまた病気になるかも知らん

という思いでまた病気になる。

 

だからして、

病気というものがあるわけじゃ

ないでしょう、仏教からいえば。

因縁から、病気という

一つの状態が、因縁によって

成り立っておるわけなんです。

病気自体があるというもんじゃ

ないでしょ。

一つの状態の上に立てた名前に

すぎんです。

病気そのものというものが

別にあるもんじゃない。

そういうものが今いった無生

なんです。

だからまあ滅ということを

はっきりしなきゃならん。

それから最後に道諦ということ。

これは薬や。

病気の原因を知り、

また治った状態と比較して

最後に、それによって、

薬を与えると。」

 

というように述べておられます

普通は元気に生きている人を

病人とは見ないでしょう。

ところが苦悩するということから

みれば、

いくら元気そうにしていても

それは悩みを抱えた病人という

ことになるのでしょう。

 

お釈迦さまの目から見れば

苦悩することなく

元気に飛び回っているっ人ほど

危ないのであって、

暗く悩んでいる人の方が

かえって正しいのかもしれません

しかし、

そこには「明るく悩め」

ということを言われましたが、

暗いということは

自分自身の殻に閉じこもって

沈んでいるのでしょう。

 

今日のところも面白い問題です。

 

 

 

 

 

 

 

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