秀吉の朝鮮出兵の後、
少しは途絶えるのですが
それ以前も徳川幕府になっても
朝鮮と日本はとても親密な交流を
していたのです。
対馬に行った大きな目的は
朝鮮通信使の跡を訪ねることでした
対馬は深く入り江が入り組んでいて
絶好の港がありますが
山が多く、お米はさほど採れない
ですから、石高は低いのですが
朝鮮との貿易で10万石という待遇
ということです。
朝鮮通信使はここの港から上陸し
そこから対馬藩の案内で日本へ
瀬戸内海を通り、
大阪から淀川を上り
伏見で休息してそこから陸路を
江戸まで行ったということです。
その行列の様子です
前後に対馬藩の武士が案内と護衛
行く先々の藩で大歓迎を受け
そこそこの文人墨客たちとの
交流が盛んに行われ
それは一大イベントだったようです。
この絵はお菓子屋さんの店先にあった
複製の画のようです
この石垣の手前がお店になり
朝鮮通信使が通る道は
この独特の石垣
(対馬ではこういう四角石を積んで
います)
で道を荘厳したのです。
通信使という言葉ですが
通信というと今では
電話とか郵便とかを思いますが
古い意味では
「信義を通わす」という意味で
通信使という名前が付きました。
まごころを通わす、という
とても意味深い言葉のように
思います。
また、対馬といえば
「ツシマヤマネコ」も有名です
一応、抱っこしました
ぬいぐるみですが
重さは本物と同じ重さ
ずっしりと重たく
我が家のねこたちとはまた違った
存在感です。
まあ
語り切れるものではありませんが
対馬でもほんのさわりに触れた程度
まだまだ歴史のポイントが
たくさんあります。
何回訪ねても時代に沿った
遺産がたくさんあるようです。
何はともあれ
「朝鮮通信使の記録」が
ユネスコの記録遺産になったことは
なによりのことと思います。