今年最後の 「 お不動さま 」
恙無く無事に勤めさせていただきました。
今年一年間の御礼もこめて、
護摩木を見ていると 「 御礼 」
という言葉も目にしました。
何はともあれ、今年一年間
いろいろありましたが、無事に勤められたのは
本当に感謝です。
護摩の炎も皆さんの祈りを集めた
力を現しているようです。
『 祈りなき行動は妄動であり
行動なき祈りは妄想である 』
と言った方がおられます。
経済とか政治とか非常な力を持ったように見えますが
本当はその力も祈りに裏打ちされたものでなければいけません。
すべてのことはよくよく考えると
祈りによって支えられているのです。
祈りがなければ事業なんて出来ません。
どんな小さな事業でもその根底には
祈りがければ成り立ちません。
私たちがこうやっているのも、
深いところで見れば、「 祈られてある 」 のです。
気が付きませんが、
祈りがなければ一日も存在することはないでしょう。
祈りを見失うと、
自暴自棄になったり、やけになったり、
そして、人間として一番辛いことです。
苦しい時悲しい時、
どこかで誰かが自分を祈っていてくれる、
そのことに気が付けば、
ささやかですが、力をいただけるものです。
護摩の炎も生きもののようです。
小さくなったり大きくなったり、
勢いがよかったり、消えそうになったり、
こちらが意識するしないにかかわらず、
いろんな姿を見せてくれます。
不思議なもので、火の姿を見ていると
私は落ち着くのです。
祈りということの、
形をとったひとつの姿だと思います。
当院の本堂の隣の部屋で生まれ、
祖父の護摩焚く姿を見ながらも、
そのことに反抗ししつも、
次第に近づいていった。
東寺の御影堂ではお大師さまの
背中を拝み見つつ10年間焚きつづけ、
今また、つきに一回は護摩を焚かせて頂き、
不思議な縁を感じます。
ということもあってでしょうか、
護摩を焚くということは私にとって
一番集中できる時でもあるし、
私を育ててくれた背景を感じるときでもあります。
今年一年の感謝と
来年もさらによい年でありますよう
祈念祈祷いたしました。