「 始を慎みて 終わりを敬む 」
はじめ つつし おわり つつし
「 慎 」 も 「 敬 」 もどちらも ( つつしむ ) と読みます。
漢和辞典を調べてみると、その意味には
微妙な違いがあるようです。
「 慎 」 は、じっと用心すること。
失敗しないようにすること。 「 慎重 」
「 敬 」 は、うやまいたっとぶこと。 「 敬意 」
すべて新しいチャレンジは薄氷を踏むように注意深く、
慎重にしなければいけません。
そして、物事が成就したり、軌道に乗っても、
うやまいたっとぶ心が欠けてくると、思わぬ落とし穴があるものです。
私たちも 「 修行 」 に入るときには
一つ一つ丁寧に習いながら慎重に注意して取り組みます。
ところが、修行が終わってみると、
案外、その達成感から気が抜けてしまうことがよくあります。
終わっても、その修行に対して敬う心をもち続けることが肝要です。
お釈迦さまも、
「 始も美しく、中も美しく、終わりも美しく … 」
と、日々の生活での気を抜かない大切さを叱咤しておられます。
「 終わりよければ、すべてよし 」
ということわざも、同じ意味を表しているのでしょう。
私たちが毎日唱えているお経に 「 懺悔文 」 があります。
さんげもん
「 我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋痴
がしゃくしょぞうしょあくごう かいゆうむしとんじんち
従身語意之所生 一切我今皆懺悔 」
じゅううしんごいししょう いっさいがこんかいさんげ
われ昔より造れるもろもろの悪業は、皆無始よりこのかた貪・瞋・痴による。
身と言葉と意より生ずるところなり、
一切を今皆、懺悔したてまつる。
仏教では 「 懺悔 」 を ( さんげ ) と読みます。
普通使う 「 懺悔 」 ( ざんげ ) と区別して、
濁らずに 「 さんげ 」 と発音するのです。
世間で言う 「 反省 」 くらいでは、おっつかない、
自分では気がつかなくても、無意識のうちに
多くの罪を犯しているのです。
ですから、仏教の法要の中には必ず 「 懺悔のお勤め 」 が
勤められるのです。
奈良の東大寺のお水取りもその一つでしょう。
お釈迦さまも、生きることに
「 慎みをもって、敬しんで生きなさい 」 と
諭されているのです。
だから、お経の中には 「 常懺悔 」 ということもあります。
まさしく、懺悔しても、だんだん懺悔の意識が薄くなる自分に
恐ろしくなり、そのことを、またもや懺悔する愚かな繰り返しをする
「 わたし 」 という存在に気づくことの大切さをも包含しています。
本当に 「 始を慎みて 終わりを敬む 」 という、
生きることの慎重さを敬意を持って見つめていくことが必要です。