本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

『 ひとり  と  一人  』

2009-04-30 09:16:23 | 住職の活動日記
 先日の 『 お不動さま護摩祈願 』

珍しい方々のお参りでした。

 若い方々のカップル、はるばるイギリスからの 『 王円さん 』

始めてみる、本堂での火を焚くというお参り、法螺貝の音、

太鼓の響き、とても新鮮だったようです。


 ( 王円さん、この呼び方は私だけです。

   ご本人は気にっておられたようなのですが、

   お二人で相談の結果、却下!!ということになりました。)

 初めて聞く声明、崇正の声に、こころを震わせて感動しておられたようです。

なんか、聖歌の響きに似ている、ということです。


 「 今まで悩んでいたことが、今日のお話で

  なんかスッキリしました。

  涙がこぼれて仕方がなかったのです。」

 と、若いカップルの方が話が終わってから、

私のところへやってこられました。


 問題意識を持っておられたので、何かしらこころに響くことが

あったのでしょう。

 
 「 ひとり 」 「 一人 」

「 一人 」 仏教的には 「 いちにん 」 と呼ぶようです。

ビミョウなニュアンスが違うのです。


 「 出家 」 と 「 家出 」

字をひっくり返しただけで、見た目はあまり

違いはありません。

 その内容はまったく違ったものになってきます。

師匠の三浦先生からよく言われました。


 「 坊さんとは、世間の損得の世界を超えていく、

  世の中から捨てられ、見放されたら  だめだ! 」

 自ら、決然と世の中を捨てていくのです。

 「 坊さんにでも !! 」

 そんな逃げ場所がお寺ではないのです。


「 ひとり 」 というと 「 孤独 」 「 孤立 」

という意味合いです。

「 一人 」 ( いちにん ) と呼ばれると、

そこには 「 独立 」 、自ら自分の足で立つ、という

それは自分のあること自体に責任を持つという、

主体的な存在意識があるように思います。


 人の話を聞く場合にも、大勢の中の 「 ひとり 」 ではなく、

自分のこととして、 「 自分 一人のため 」 という

聞き方でないと、身に入らないと思います。


 今日の若いカップル、悩み、という問題意識があったので、

自分のこととして受け止められたのでしょう。


 これから、自分のこととして、考えたとき、

とても大きいな問題になってきます。

 それは、 『 老い 』 とともに、

「 ひとり 」 という 「 孤独な老人  」 になるのか

「 一人 」 という、皆と共にも居れるし、

邪魔になるのでもなく、一人いても寂しくないような  

 これからが、 『 老い 』 という厳しい現実があると思います。


 『 ひとり 』 『 一人 』 この問題も

大きなキーワードになるのではないでしょうか。


  今日の記事、難産でした。

昨夜、立て続けに書いて、このブログを書き終え、アップしたところ

ゾッとする 「 パスワード確認 」 が出てきたのです。

悲しいかな  消えてしまいました。

 今日書き出したら、やはり少し別物になってきるのです。

日々進化しているので、それで いいか  


    
コメント
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