大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

奈良・飛鳥路探訪

2016年10月31日 16時23分55秒 | 行く秋の奈良探訪
2016年10月27日
毎年恒例の秋の京都・奈良の旅を夫婦で楽しみました。旅の始まりは奈良の飛鳥路探訪です。
個人的には奈良の飛鳥路は初体験で、想像するに古の香り漂う長閑な土地柄ではないかと思いをめぐらしていました。

京都駅について、近鉄橿原線の特急で橿原へ向かい、橿原で電車を乗り換え「飛鳥」へ。
田舎の駅といった可愛らしい駅舎が私たちを迎えてくれました。駅前には商店街らしきものはありません。

近鉄飛鳥駅

駅前のロータリーに隣接して「レンタサイクル」があります。自転車の保有台数もかなりあり、飛鳥路をサイクリングする人たちが多いことを物語っています。私たちが巡る飛鳥路はすべて平坦な道ではないとのことで、体のことを考えて電動アシスト自転車を借りることにしました。
私たちはここ飛鳥駅前で自転車を借り、サイクリングの終着地点である橿原神宮駅前で返却することにしました。

さあ!いよいよ出立です。晴れ上がった秋空の下、爽やかな風を受けながらサイクリングを楽しみます。

まず目指すのは高松塚古墳です。飛鳥駅から209号線を自転車で5分ほど走ると、道の左側に「国営飛鳥歴史公園館」の駐車場が現れます。この駐車場の中に入り、走ってきた道の下をくぐるトンネルをくぐり高松塚古墳へと進んで行きます。古墳までの道筋はすべて舗装されています。駐車場の端に自転車置き場があるのですが、自転車に乗ったまま高松塚古墳の真下まで進むことにします。

あとから気が付いたのですが、駐車場から徒歩で進むと、起伏のある道筋をかなり歩かなければならないので、自転車を利用することをお勧めします。自転車で高松塚古墳のちょうど下まで行くことができます。爽やかな秋の風を受けながら、綺麗に整備された歴史公園内を走っていきます。

高松塚古墳

ちょうどプリンのような形をした古墳で、見事なまでにきれいに整備されています。小高い丘に囲まれた場所に「ポツン」と置かれた古墳です。いまでこそ綺麗に整備されていますが、発掘当時は古墳全体が竹林で覆われていたようです。
古墳を一周するように遊歩道が造られています。古墳の内部には入ることができないので、遊歩道を一周して駐輪場へ戻ってきます。

高松塚古墳の築造は7世紀末から8世紀にかけての頃です。直径23m(下段)及び18m(上段)、高さ5mの二段式の円墳です。さて、高松塚古墳といえば極彩色の壁画で有名です。この壁画は1972年3月21日に発見されました。その後、壁画の劣化が進行し、現在は壁画は別の場所に移動し、保存修理が行われているとのことです。

駐輪場からほんのわずかな距離に「高松塚壁画館」があります。ここまできて古墳だけでは物足らないので、壁画館に入館することにしました。

高松塚壁画館
◆高松塚壁画館
入館料:大人250円
開館時間:09:00~17:00
休館日:12月29日~1月3日



実際の彩色壁画はたいへん貴重なもので国宝に指定されています。発見後、劣化が進み、現在は別の場所に移動し修理しているとのこと。
小さな施設ですが、館内には石郭内部に描かれている壁画を忠実に模写したレプリカが展示されています。レプリカといっても、あまりにリアルで本物を見ているようです。今から1300年も前、ここ飛鳥の都に住み暮らした人々がいたという事実を改めて実感します。そして女性たちが纏う衣服や髪型が当時の最先端のファッションであったのでは思うと、いつの時代の女性も「美」に対して敏感だったことを物語っているようです。

高松塚古墳彩色壁画(高松塚壁画館のパンフレット)

さて、高松塚古墳をあとにして、飛鳥路の旅をつづけましょう。再び209号線に戻り、「亀石」を目指すことにします。
途中、天武・持統天皇陵の表示があったので立ち寄ってみました。
40代天武天皇、41代持統天皇は天皇と皇后の間柄です。天武天皇は西暦673年から686年まで在位しています。一方、持統天皇は西暦690年から697年まで在位していた女帝です。天武天皇といえば「壬申の乱」で大海人皇子に勝利して天皇に即位したことで有名です。

両天皇陵墓は209号線から小高い丘を登るようにづづく石段を上がっていきます。石段を上がりきると、陵墓の前に置かれた祭壇が現れます。

天武・持統天皇陵墓前にて

天武・持統天皇陵墓からさらに209号線に沿って走ります。道筋は登り坂に変わり、坂を上りきった辺りに亀石への道標が置かれています。亀石は209号を反対側へ渡り、未舗装の細い道筋に入った場所に置かれています。

飛鳥を巡る観光マップにもかなり目立つように表記されているので、どんなものかと期待はしていたのですが、巨岩が一つ置かれているといった印象です。説明版によると、亀に似た彫刻が施されているとあるのですが、どうみても「蛙」です。建造時期、その目的は謎のようです。

亀石

亀石の脇に小さなお店があります。自動販売機と休憩用のベンチも置かれています。またこの辺りで採れた野菜や果物なども販売しています。

亀石からさらに未舗装の細い道(かつては畑の中の1本道だったと思われる)を進み、橘寺へと向かいます。飛鳥の地を走って気が付くのは、まず民家が少ないことと高層のビルがまったくないこと。自転車で走っていると広々とした畑の中に寺院の甍が見え隠れし、目指す場所が一目瞭然にわかることです。まさに古の時代の景色がそのまま残っているといった感じです。都会に住む私たちにとっては古代日本の歴史を育んだ飛鳥という地が、むやみやたらに開発されずに、少なくとも今のまま残っていてほしいと願うばかりです。

橘寺への道
橘寺山門

橘寺は聖徳太子が生まれた地に太子自ら建立したといわれる寺です。現在の堂宇は江戸時代に再建されたもののようです。
私たちは橘寺の山門前から飛鳥の最大のハイライトである「石舞台」を目指すことにしました。

橘寺から参道を下り、舗装道路へ出ると、川原寺跡の前にでてきます。かつてここには川原寺という大きな寺があったのですが、現在は寺の基壇が残るのみです。
歩道道路の道筋はすぐに岡信号交差点にさしかかります。この交差点で右手にのびる道筋へと進んでいきます。道の右側には飛鳥川が流れています。道筋はわずかながら登り坂に変わります。

坂を上りきると、観光地特有の雰囲気が漂っています。ということは石舞台の至近に着いたということを示しています。私たちは道の脇の休憩所に自転車を停めて、石舞台入口へと進んでいきます。



◆石舞台古墳
入場料:250円
入場時間:08:30~17:00
休場日:年中無休



入口受付で入場料を支払い、進んで行くと巨大な石積みが突然現れます。小高い丘の上に置かれている石舞台の周囲は掘割で囲まれているようです。その堀割にいったん降りて、再び昇るような階段を使って石舞台が置かれている場所へと進んでいきます。

始めてみる石舞台の規模の大きさに驚きました。日本最大の石室をもつ石舞台はその築造は7世紀に遡るという。現在は石積みとして残っていますが、初期の頃は盛り土がなされ墳丘の形状だったといいます。長い年月の間に石積みを覆っていた土が雨風で流出してしまったのではないでしょうか?

私たちが現在見る石積みは全部で30個、総重量2300トンもあるといわれています。そんな立派なお墓に誰が眠っていたのでしょうか。一説によると蘇我馬子であるとも言われています。

石舞台
石舞台
石舞台
石舞台
石室入口
石室入口
石室内部
石室内部

古代飛鳥の時代を偲びながら、石積みの周囲を何度もめぐり、後ろ髪を引かれる思いで石舞台を辞することにしました。

飛鳥路の旅もいよいよ終盤に近づいてきました。ここ石舞台に至るまでに飛鳥の里に点在する史跡はいくらでもあるのですが、今回は代表的な史跡のみを巡りました。さあ!今回の飛鳥路での最後の目的地は「飛鳥寺」です。

石舞台から同じ道を戻り、途中飛鳥寺の表示に従って道を逸れていきます。住宅街の中を進んで行くと、道の両側に千本格子と仕舞屋風の家並みがつづく一画にさしかかります。どういう町なのかはわかりませんが、絵になる光景です。

そんな家並みを過ぎると、道筋には田園風景が広がり、しばらくすると道の左手に堂宇の甍が見えてきます。飛鳥寺の門前に到着です。特に参道があるわけでもなく、道脇の広場の奥に山門が構えています。

飛鳥寺山門
飛鳥寺山門

飛鳥寺は飛鳥を代表する寺の一つです。当寺は西暦596年に蘇我馬子が発願して創建した日本最古の寺といわれています。要するに蘇我氏の菩提寺だったわけです。現在のお堂は江戸時代に再建したものです。現在見る飛鳥寺はこじんまりとした境内にお堂が一つ建っているだけですが、創建当時は東西200m、南北300mの敷地に金堂と回廊がめぐらされた大寺院だったのです。



◆飛鳥寺
拝観料:350円
拝観時間:4月1日~9月30日 09:00~17:30
10月1日~3月31日 09:00~17:00
休業日:4月7日~4月9日

飛鳥寺
飛鳥寺ご本堂
飛鳥寺ご本堂

当寺を有名にしているのは日本最古の寺であるとともに、もう一つ、堂内に安置されている御本尊「飛鳥大仏」です。この大仏は西暦606年に推古天皇が中国から渡来した鞍作止利仏師に造らせたと言われています。あの東大寺の大仏よりも古く、大仏よりも150年前に造られています。

仏教伝来間もないころの仏ということで、その顔つきはその後に造られた仏とは明らかに異なります。一見するとその顔つきはちょっと「きつい」感じがします。というのも一般的な日本の仏のお顔は総じて「柔和」な表情なのですが、ここ飛鳥寺の仏は細面で鼻筋が通り、細い体つきが特徴で、むしろ写実的な造りになっていることです。

飛鳥大仏
飛鳥大仏
飛鳥大仏

鼻筋が高いお顔から、ガンダーラ様式の仏陀なのでしょう。薄暗いお堂の中に鎮座する仏は1400年の時を経て、何を思っているのでしょうか。大化の改新で蘇我入鹿が暗殺され、蘇我氏の権勢は衰えていくわけですが、同時に蘇我氏の菩提寺である飛鳥寺も衰退が免れなったのではと考えられます。

飛鳥寺の衰退と同時に御本尊である飛鳥大仏も見捨てられ、風雨にさらされ、無残にも砕け、しまいには土中に埋もれてしまったといいます。その後、地中に埋もれたいた大仏のパーツを見つけだし、繋ぎ合わせたのが現在見る飛鳥大仏です。大仏をよく見ると「つぎはぎ」の跡を見ることができます。

尚、2016年11月11日の報道に下記のような記事がありましたので、参考までに抜粋して掲載させていただきます。

文献上、日本で鋳造された最初の仏像だが鎌倉時代に火災に遭った記録がある奈良県明日香村、飛鳥寺の本尊・飛鳥大仏について、藤岡穣(ゆたか)・大阪大教授(東洋美術史)らの研究グループが調査し、「顔部分のほとんどは7世紀の造立当初のものとみられる」と判断した。

像の大部分が後世の補作だとするなど諸説あったが、重要な部分が古代の姿のままだったことになる。
調査は今年6月、大阪大や東京文化財研究所、韓国国立中央博物館などの研究者約30人により行われた。

研究グループは、顔と胴体の制作時期の前後関係を検討。顔の正面は、目や顎、額などに継ぎ目がなく、一体で造られた状態で残っており、ほとんどが当初のままと判断した。様式も奈良県内などに残る飛鳥仏と似ているという。顔に小さな銅板を留めてあるのは、当初に表面のムラを直した跡だとみている。

境内の裏手から100mほど進んで畑に囲まれた場所に蘇我入鹿の首塚(五輪塔)が寂しげに置かれています。

入鹿首塚
入鹿首塚

首塚のある場所から飛鳥寺の堂宇を俯瞰してみました。かつては堂宇につづく道筋は飛鳥寺の敷地だったところです。

入鹿首塚から飛鳥寺を俯瞰

秋の日差しは低く、あっという間に日暮れになってしまいます。入鹿の首塚の五輪塔が西日を受けて、長い影をつくっています。さあ!ここ飛鳥寺で飛鳥路の旅を終えることにします。この後、自転車で近鉄橿原神宮前駅へ向かうことにします。





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