まず三河田原藩の歴史を少し紐解いてみましょう。小藩でありながら戦国の世を生き残り、なんと明治4年の廃藩置県で廃藩になるまで続いた名家「三宅家」を調べてみました。
そもそも田原城はいつごろ築城されたのかという疑問から解いていきましょう。なんとその時代は室町時代にまで遡ります。その頃の城は戦国の世に築かれた城というものではなく、むしろ「砦」のような形態であったと考えられます。
室町時代の国人領主は三宅家が藩主となる以前の「戸田氏」で、この戸田氏の初代宗光によって文明12年(1480)に田原城が築城された歴史があります。
その後、徳川家康の支配下に入った田原藩は三河吉田城(現在の豊橋)の城主となった池田輝政の支配下となりました。
関が原の戦いで勝利した徳川家康は慶長6年(1601)に徳川譜代の家臣でかつて田原を治めていた戸田宗光の系譜に連なる戸田尊次に田原1万石を与え、ここに田原藩が興ったのです。しかし、その後寛文4年(1664)に第3代藩主・戸田忠昌は加増の上で肥後天草郡の富岡藩に移封されています。
代わって、三河挙母藩より三宅康勝が1万2000石で入ることとなるのですが、三宅氏は小大名ながら城持大名であることを許されるほどの名家であったが、知行高に較べて藩士が多く、さらに田原の地も痩地であった上に風水害の被害も多く、常に財政難に苦しんでいました。
三河田原藩主となった三宅家はその後15代の康保までこの地を治め、前述の明治4年の廃藩置県まで存続したのです。尚、三宅家の江戸藩邸があった場所は現在の最高裁判所辺りで、三宅坂という地名が残っています。
こんな名家の菩提寺である霊巌寺はきっと古刹・名刹の堂々とした伽藍が残っているのではと期待しながら、田原の町のそぞろ歩きを開始しました。田原の町はいたって静かで、道行く人も少なく静まり返っているという印象です。
歩き始め、ふと路上をみると「城のみち」と刻まれたウォーキングトレイルの道しるべが埋め込まれています。歴史ある街には観光客の道案内としてこのような道しるべがあるのですが、田原の町はそれほど広くなく、ウォーキングマップさえあれば道に迷うことなく目的地に辿りつける気軽さが魅力です。
「城のみち」道しるべ
そして静かな住宅街を進んで行くと、四つ角に建つ民家の塀にあの伊能忠敬がここ三河田原で測量をした場所であることを示す案内板が掲示されています。伊能忠敬が日本全国をくまなく回り測量した場所はそれこそ数え切れないほどあると思いますが、こんな場所で伊能忠敬の足跡に巡り合ったことにある種の感動を覚えました。
伊能忠敬測量の地案内
目指す霊巌寺は神明社と呼ばれるこんもりとした森に隣接して建っています。きっと樹齢何百年という老木が境内に繁り、夏の日差しを遮って一服の涼を楽しめることを期待したのですが、あにはからんや境内には日差しを遮る木々はまったくなく夏の青空が空いっぱいに広がっていました。
三河神明社境内俯瞰
気を取り直して、ご本堂裏手の墓地へと進むと歴史あるお寺とは思えないほど、閑散とした(というのは墓標が少なく、まるで廃寺のように墓が整理されてしまったような雰囲気が漂っていました。)
霊巌寺山門
霊巌寺ご本堂
私にとってはかなり期待が裏切られた寺なのですが、さらに期待を裏切られたのが三宅家代々の墓地の風情なのです。まがりなりにも玉垣に囲まれ、時の流れを感じさせる古びた墓標が並んでいるのですが、墓域には木が一本もなく藩主が眠っているわりには荘厳さや威厳がまったく感じられないのです。
三宅家代々の墓の説明板
三宅家代々の墓の入口
三宅家の墓域
三宅家の墓域
三宅家の墓域
墓には初代康貞公から17代の忠強公とすべてではないのですが正室やお子さん方が眠っておられます。
そしてこの三宅家の墓域から少し離れたところに忠臣真木定前(まきさだちか)の墓があります。定前は藩の用人として、天保の飢饉では必死の働きをもって餓死者、流亡者を一人も出さずに切り抜けたといわれる知恵者だったのです。忠臣であったが故に、藩主三宅家の菩提寺に当時の藩主であった14代康直が自ら碑銘を書いたと言われています。
真木定前の説明板
真木定前墓
猛暑の中、日差しを遮るものがない霊巌寺を早々に辞し、隣接する神明社の杜でしばし休憩をして田原城へと向かうことにしました。
神明社本殿
家康公を祀る東照宮
渥美半島の隠れた歴史に彩られた三河田原①~幕末の先覚者・渡辺崋山が眠る城宝寺~
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室町時代の国人領主は三宅家が藩主となる以前の「戸田氏」で、この戸田氏の初代宗光によって文明12年(1480)に田原城が築城された歴史があります。
その後、徳川家康の支配下に入った田原藩は三河吉田城(現在の豊橋)の城主となった池田輝政の支配下となりました。
関が原の戦いで勝利した徳川家康は慶長6年(1601)に徳川譜代の家臣でかつて田原を治めていた戸田宗光の系譜に連なる戸田尊次に田原1万石を与え、ここに田原藩が興ったのです。しかし、その後寛文4年(1664)に第3代藩主・戸田忠昌は加増の上で肥後天草郡の富岡藩に移封されています。
代わって、三河挙母藩より三宅康勝が1万2000石で入ることとなるのですが、三宅氏は小大名ながら城持大名であることを許されるほどの名家であったが、知行高に較べて藩士が多く、さらに田原の地も痩地であった上に風水害の被害も多く、常に財政難に苦しんでいました。
三河田原藩主となった三宅家はその後15代の康保までこの地を治め、前述の明治4年の廃藩置県まで存続したのです。尚、三宅家の江戸藩邸があった場所は現在の最高裁判所辺りで、三宅坂という地名が残っています。
こんな名家の菩提寺である霊巌寺はきっと古刹・名刹の堂々とした伽藍が残っているのではと期待しながら、田原の町のそぞろ歩きを開始しました。田原の町はいたって静かで、道行く人も少なく静まり返っているという印象です。
歩き始め、ふと路上をみると「城のみち」と刻まれたウォーキングトレイルの道しるべが埋め込まれています。歴史ある街には観光客の道案内としてこのような道しるべがあるのですが、田原の町はそれほど広くなく、ウォーキングマップさえあれば道に迷うことなく目的地に辿りつける気軽さが魅力です。
「城のみち」道しるべ
そして静かな住宅街を進んで行くと、四つ角に建つ民家の塀にあの伊能忠敬がここ三河田原で測量をした場所であることを示す案内板が掲示されています。伊能忠敬が日本全国をくまなく回り測量した場所はそれこそ数え切れないほどあると思いますが、こんな場所で伊能忠敬の足跡に巡り合ったことにある種の感動を覚えました。
伊能忠敬測量の地案内
目指す霊巌寺は神明社と呼ばれるこんもりとした森に隣接して建っています。きっと樹齢何百年という老木が境内に繁り、夏の日差しを遮って一服の涼を楽しめることを期待したのですが、あにはからんや境内には日差しを遮る木々はまったくなく夏の青空が空いっぱいに広がっていました。
三河神明社境内俯瞰
気を取り直して、ご本堂裏手の墓地へと進むと歴史あるお寺とは思えないほど、閑散とした(というのは墓標が少なく、まるで廃寺のように墓が整理されてしまったような雰囲気が漂っていました。)
霊巌寺山門
霊巌寺ご本堂
私にとってはかなり期待が裏切られた寺なのですが、さらに期待を裏切られたのが三宅家代々の墓地の風情なのです。まがりなりにも玉垣に囲まれ、時の流れを感じさせる古びた墓標が並んでいるのですが、墓域には木が一本もなく藩主が眠っているわりには荘厳さや威厳がまったく感じられないのです。
三宅家代々の墓の説明板
三宅家代々の墓の入口
三宅家の墓域
三宅家の墓域
三宅家の墓域
墓には初代康貞公から17代の忠強公とすべてではないのですが正室やお子さん方が眠っておられます。
そしてこの三宅家の墓域から少し離れたところに忠臣真木定前(まきさだちか)の墓があります。定前は藩の用人として、天保の飢饉では必死の働きをもって餓死者、流亡者を一人も出さずに切り抜けたといわれる知恵者だったのです。忠臣であったが故に、藩主三宅家の菩提寺に当時の藩主であった14代康直が自ら碑銘を書いたと言われています。
真木定前の説明板
真木定前墓
猛暑の中、日差しを遮るものがない霊巌寺を早々に辞し、隣接する神明社の杜でしばし休憩をして田原城へと向かうことにしました。
神明社本殿
家康公を祀る東照宮
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