大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

渥美半島の隠れた歴史に彩られた三河田原①~幕末の先覚者・渡辺崋山が眠る城宝寺~

2011年08月18日 14時30分39秒 | 地方の歴史散策・愛知県三河田原
お盆休みを利用して8月12日から愛知豊橋に再び滞在していました。東海地方も異常ともいえる猛暑に襲われ、連日うだるような暑さが続いていました。

家の中でクーラーをつけて過ごすのも能がないので、意を決して豊橋の南に位置する渥美半島の中ほどの三河田原の町に出かけてみることにしました。

豊橋から渥美半島へのアクセスは豊橋鉄道のローカル線を利用し、約35分ほどで到着します。豊橋を出発してから10分ほどで車窓には田園風景が広がってきます。遥か彼方には豊橋湾に面する港のの大きなクレーンが見え隠れします。

渥美半島一帯は東海地方の中でも屈指の野菜生産地で見渡す限り野菜畑が広がっています。また野菜だけでなくマスクメロンの産地で観光農園でメロン狩を楽しめるようになっています。

豊橋鉄道・三河田原駅

電車はあっという間に三河田原駅に到着です。終点駅とは思えないほどこじんまりとした佇まいがローカル色を醸し出しています。駅前には一応バスターミナルが併設されていますが、行き先は鉄道が敷かれていない渥美半島の海岸や半島先端行きの路線のようです。

ここ田原は幕末の先駆者である渡辺崋山の故郷です。崋山は寛政5年(1793)9月16日に江戸の田原藩邸で生まれ、8才で若君のお伽役となり、後に藩主より登の名を賜わりました。財政難の田原藩は家臣の減給を行っており、11名の家族で貧しい渡辺家は幼い弟妹たちを奉公に出さなければなりませんでした。このため崋山も貧しさを救うため、絵を描く内職をしながら学問に励みました。

崋山は天保3年(1832)に田原藩の家老に就任しました。崋山は32才頃から外国事情に関心をもち、蘭学や兵学の研究を始めました。三宅友信に蘭学をすすめ、高野長英、小関三英、鈴木春山らを雇い翻訳をさせ、また鷹見泉石、幡崎鼎、江川坦庵ら洋学者とも交わり、来航したオランダ甲比丹から世界の状勢を知り、当時外国事情に精通する第一人者となりました。西洋諸国が強大な力をもって東洋に侵入するのに対し、幕府の外国船打払令や鎖国が危険なことを主張し、開国、交易をするよう強調しました。

当時、蘭学の進出は幕府役人にとって目の敵であり、目付鳥居耀蔵もその一人で、江戸湾測量で江川坦庵に敗れて以来、蘭学者の弾圧を狙っていました。幕府は、鳥居の密偵によって崋山らの無人島渡航計画の噂を知り、天保10年5月、崋山、高野長英ら10数名を捕らえました。渡航の罪は晴れたものの、崋山は机底から見つけられた「慎機論」、長英は「戊戌夢物語」が幕政批判という重罪となり、崋山は、在所田原へ蟄居、長英は永牢となりました。これがあの有名な事件「蛮社の獄」です。

蟄居中の崋山一家の生活を助けるため、門人福田半香らは崋山の絵を売る義会を始めました。崋山は作画に専念し、「于公高門図」「千山万水図」「月下鳴機図」「虫魚帖」「黄粱一炊図」など次々と名作を描きました。しかし、その活動により、天保12年(1841)夏の頃から「罪人身を慎まず」と悪評が起こり、藩主に災いの及ぶ事をおそれた崋山は死を決意しました。「不忠不孝渡邉登」と大書し、長男立へ「餓死るとも二君に仕ふべからず」と遺書して切腹し、49年の多彩な生涯を終えました。

幕末好きの私にとってはまたとないチャンス。肌を刺すように照りつける日差しの中を三河田原駅から徒歩で崋山が眠る「城宝寺」を目指すことにしました。

城宝寺山門
山門前の崋山墓標
山門の扁額

城宝寺は駅からさほど離れていない場所、通称「寺下通り」に面して建っています。この寺下通りは田原城の外郭に位置し、敵の侵入に備え一種の「砦」として多くの寺を配置したことからこう名付けられて言われています。実際にこの寺下通りに面して幾つもの寺が並んでいました。

静かな佇まいを期待して訪れた城宝寺だったのですが、たまたま檀家のご葬儀が営まれている最中で境内には多くの参列者が列をなしていました。

山門を入るとすぐ右に石を積み上げた小山が視界に入ってきます。実は城宝寺古墳と呼ばれているもので、6世紀末の豪族の墓とのこと。三河田原には古代の古墳が幾つも点在しているとのことです。この城宝寺古墳は石室の大きさが、渥美半島で最大級で横穴式石室をもつ円墳として知られています。また古墳の上には階段がついていて、何と古墳の上に登ることができます。古墳の上には社が建っていました。

城宝寺古墳の説明書
古墳入口

古墳から下りて、ご葬儀に参列されている方々の脇を抜けて、ご本堂の左側に設けられている墓地へと進みます。崋山の眠る墓は探すこともなく墓地の入口に立派な鉄扉がつき、玉垣で囲まれていました。

城宝寺ご本堂
崋山家の墓配置
崋山家の墓俯瞰
中央の墓標が崋山

崋山の墓標は正面中央の一番大きなものです。その右は母の栄、左は妻のたか、左右に二男である渡辺小崋夫妻の墓が置かれています。墓所の傍らには、「見よや春 大地も亨す 地虫さへ」という渡辺崋山の句碑もあります。幕末が始まる天保時代に開明派の先駆者として活躍した崋山先生に思いを馳せながら墓前で手を合わせました。

渥美半島の隠れた歴史に彩られた三河田原②~田原藩主・三宅家の菩提寺「霊巌寺」~
渥美半島の隠れた歴史に彩られた三河田原③~歴史に彩られた三河田原の城~




日本史 ブログランキングへ


神社・仏閣 ブログランキングへ


お城・史跡 ブログランキングへ


最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (香澄)
2011-09-28 08:35:41
私は 古代 超古代が好きです スピ的に渡辺崋山さまとこの古墳は繋がりがあると思います 登さまはチョーカッコイイです 憧れの登さまを 分かりやすく素直な文章でかたってくださって ありがとうございます(^人^)
返信する

コメントを投稿