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大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

家光をめぐる母「お江」と乳母「お福(春日局)」を偲ぶ本郷湯島の麟祥院・からたち寺【本郷湯島】

2010年11月15日 11時11分29秒 | 文京区・歴史散策
来年のNHK大河ドラマのお題は「お江」である。信長公の妹君「お市の方」が嫁いだ浅井長政との間にもうけた美人の三姉妹の一人だったのはご存知のことでしょう。浅井家が信長により滅ぼされた後、信長の庇護のもと安穏の日々を過ごしていたお市と姫様たちは、「本能寺の変」後に再び、時代に翻弄されていきます。
信長公の家臣であった柴田勝家との母・お市の方の再婚は秀吉により、無残にも壊されてしまいます。勝家と共に自害したお市が残した三姉妹はこの後、時の天下人「秀吉」そして、次代を築く家康公の思惑にさらに翻弄されていくのです。

長女である「茶々姫」は秀吉との間に嫡男「秀頼」を設け、淀君と称し絶大な権力をもったのですが、最終的には大阪の陣で秀頼と共に自害し果ててしまうという最悪の結末を迎えます。そして三女の「お江」は佐治一成を皮切りに、秀吉の養子である秀勝と再婚、しかし秀勝は朝鮮出兵中に病疫。失意の中で、お江は秀吉の命により家康公の三男、秀忠公へ嫁ぐことになるのです。

お江は秀忠公との間に設けた長女「千姫」を姉の茶々(淀殿)の産んだ秀頼に嫁がせるという、時代のいたずらにまたまた翻弄されていくのですが、千姫は大阪城落城の際に救出され、徳川家に戻ってきます。秀忠との間に三男四女を設けたお江ですが、何と言っても象徴的な事象は三代将軍家光公の生母であるということではないでしょうか。将軍御台所でもあり将軍生母であったのはこのお江しかいないのです。このため家光は「生まれながらにしての将軍」と豪語した由縁なのです。



この家光が将軍継嗣と決定するまでに活躍したのが今日のお題「麟祥院」に眠る「春日局」なのです。春日局を朝廷から授かる前は「お福」と呼ばれていたのですが、お福はお江と秀忠との間に生まれた長男・竹千代(後の家光)の乳母となります。我が子のように竹千代を懸命に養育したお福ですが、実は生母であるお江とはそりが合わなかったとも言われています。次男の忠長を次期将軍と考えていた秀忠、お江に対抗するように、お福は竹千代を守りたい一身で自ら駿府にいる家康公に直訴に及んだのです。家康公は江戸にのぼり、竹千代(家光)を次期将軍として遇し、片や忠長を家来扱いをしたために、家康公の鶴の一声で将軍職継承は家光に決定したといういきさつは誰もが知っている事実です。

このほかお福(春日局)にまつわる話はたくさんあります。大奥の基礎を作ったのが春日局、あの紫衣事件で家康の使者として後水尾天皇に退位を迫らせようとしたこと、外出して城の門限に遅れたとき、規則を守ることを手本とさせねばならぬとし、門前で一夜を明かしたこと、など逸話や男勝りの武勇伝が残っています。

麟祥院山門
春日局由緒書

そんなお福(春日局)が眠る麟祥院は賑やかな本郷の地にありながら、まるで京都にある名刹、古刹の風を湛えた佇まいの山門が私たちを向かえてくれます。山門をくぐると静まり返った空気が漂い、ご本堂と小さな鐘楼が目の前に現れてきます。苔むした庭の風情は古刹の風格を感じさせてくれます。

 
 
 


小さな庭を回りこむように墓地へと歩を進めて行きましょう。「春日局の墓」の指標に従って進んで行くと、それらしい石燈篭が春日局の墓へと導いてくれます。木々に囲まれ、差し込む陽射しが遮られ薄暗さが漂う中に、かの墓石が目線よりも高い位置に見えてきます。基壇の上に石柵で囲まれ凛とした雰囲気を漂わす墓には数段の階段が付され、階段を登った墓の入口には「葵のご紋」と春日局の実家である斉藤家(稲葉家)の家紋「折敷に三文字」がその権威を誇るように付けられています。

 


というのも「麟祥院」は春日局が幕府の恩恵に報いるために、本郷湯島に寺院を建立しようと思い立ち、これを知った家光公が、彼女の願いをかなえさせるために本郷湯島の土地を寺地として贈ったと記されています。願いがかなえられた春日局は、「報恩山天沢寺」と名付け、寛永7年(1630)渭川という高僧を新しく住職として迎え、改めて春日局自身の菩提寺としました。これを喜んだ家光公は、法号をもって寺号とするように命じたため、「天沢山麟祥院」と号するようになったそうです。

春日の局の墓には墓石と台石の四方に丸い穴があいているのが特徴です。これは「死して後も天下の政道を見守り之を直していかれるよう黄泉(よみ)から見通せる墓を作ってほしい」という春日局の遺言によると伝わっています。

 


家光の将軍生母である「お江」と家光を心から愛した「春日局」の女同士の確執が少なからず感じるこの二人の関係がふと頭によぎる瞬間を感じる場所、それが「麟祥院」です。

お江戸湯島・幕府のエリート校「昌平坂学問所(湯島聖堂)」【明神様を後ろに神田川を望む】





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姫様輿入れのための高貴な門、今じゃ誰もが羨む狭き門【東大本郷キャンパス・赤門余話】

2010年10月04日 16時40分38秒 | 文京区・歴史散策
本郷通りの銀杏並木は緑濃い葉が青々と繁っている。日曜日の昼下がり、人影がまばらな銀杏並木を本郷三丁目から東大のランドマークの一つ、赤門へと向かう。もう一つのランドマークはやはり「安田講堂」である。



まず最初に本郷の東大キャンパスといっても、とてつもなく広い。一般的に赤門があるキャンパスを本郷キャンパス、そして北側の弥生キャンパス、更に本郷キャンパスの東北に位置する浅野キャンパスと3つのエリアから構成され、その広さなんと16万坪の敷地を有し、延べ床面積90万㎡の建物群が配置されている。
9つの学部が本郷の各キャンパスに置かれ、学生と教職員合計で約2万人が暮らす「街」が形成されている。「街」の中にはコンビニが5店(その内ローソンが3店)、食堂・レストラン(コーヒーショップを含む)が21軒、生協購買部・書籍部などが6軒、そのほか旅行会社、理髪店、花屋、銀行ATM、郵便局などが配置され、キャンパス内での生活を支えている。

こんな東大キャンパスであるが、ご存知のようにお江戸の時代には加賀100万石の雄藩である前田家の上屋敷があった場所。歴史を紐解くと、元和元年(1615)に前田利常が幕府から拝領した土地なのです。
その後、慶応3年(1687)の大政奉還で幕府が崩壊する260年間に渡って、前田家がこの場所に屋敷を構えていたのです。
今でこそ都心の一等地なのですが、お江戸の時代にはこの場所は内郭の外にあり、かなり遠ざけられた場所だったのです。それもそのはず前田家は徳川にとっては外様扱い。そのため内郭から離れたこの場所に屋敷地を与えられたのです。ちなみに同じ外様の雄藩である薩摩の島津家も内郭から遠く離れた芝の増上寺に近い場所だったことを考えると、外様大名を信用していなかった徳川の腹の内が読めてきます。とは言っても、いくら外様であっても前田家に対しては一目を置いていたのは事実のようでございました。

そんな歴史を持つ東大本郷キャンパスにあたかも正門であるかのようにその姿を見せるのが「赤門」です。見ての通り、武家屋敷然とした門構えです。実はこの門、時は遡る事江戸時代の文政10年(1827)に造られています。ちょうど第11代将軍家斉公の御世です。



家斉公と言えば16人の妻妾を持ち、なんと男子26人、女子27人を儲けた将軍として有名なのですが、この中の21女である「溶姫様」が前田家の斉泰公に嫁ぐ際に造られたのがこの「赤門」でございます。門を朱色に塗る云われは、将軍家から夫人をお迎えする場合の習慣であったらしいのですが、このような喜ばしい催事で造られた御門で唯一現存しているのが、ここ東大の赤門だけと言います。当然、国の重要文化財に指定されています。国宝ではないので、門をくぐることもできれば、手で触ることもできます。
門の様式は三間薬医門というらしい。薬医門を調べてみると、主柱と控え柱の計4本の柱の上に冠木や梁などを組み合わせ その上に切妻屋根を組む形式のことを指すようです。左右に番所を配しています。


内側から見た赤門:薬医門の構造がよく分かる

世が世であれば、おいそれとくぐれない高貴な御門。時代が変わり、今は東大の御門。それはそれで誰もが羨む「狭き門」の象徴である。





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お江戸ご府内(江戸の町)の範囲はどこまでだったの?本郷もかねやすまでは江戸のうち

2010年10月04日 10時09分32秒 | 文京区・歴史散策
久しぶりに東大キャンパス内の散策と根津そして谷中へと足をのばしてみた。日曜日ということで日本のカルチェラタン本郷界隈は東大の学生も少なく静かな佇まいを見せている。地下鉄本郷三丁目駅から歩を進め、本郷通りと春日通りが交わる比較的大きな本郷三丁目交差点角まではわずかな距離である。

さて今日のお題「お江戸ご府内(江戸の町)の範囲はどこまでだったの?」にまつわる場所がこの交差点の角。
お江戸の範囲は開幕以来、参勤交代による江戸勤番武士や上方や地方から流入する多数の商人や庶民が増えていく中で、都市開発が猛スピードで進み、ご府内の範囲が長い間明確に決まっていなかったのです。
この長い間とは、いつ頃までだったのか?というと、明和2年ですから1765年頃まで江戸とその周辺の境界が定められていなかったと書き付けに記録が残っています。

このように江戸の範囲が明確に定めれていなかった頃に、こんな川柳が詠まれていたのです。
「本郷もかねやすまでは江戸のうち」
この川柳の中に現われる「かねやす」ですが、実は江戸時代の享保年間に創業した薬屋で、乳香散と呼ばれる歯磨粉の販売で一躍人気店になったことで知られているのです。
この「かねやす」が現在でもこの本郷通りと春日通りの交差点角に現存しているのです。



現在は大きなビルに変わっていますが、現在は薬屋ではなく洋品雑貨のお店になっています。
そのビルの壁面に例の「本郷もかねやすまでは江戸のうち」の川柳の銘版と由緒書きが嵌め込まれています。



それでは当時ご府内の範囲が明確に定められていなかったにもかかわらず、「本郷かねやす」までが江戸の範囲と言われた理由を紐解いていきましょう。
享保15年大火があり、 当時の町奉行大岡越前守は三丁目から江戸城にかけての家は、塗屋(外壁を土や漆喰で塗り、柱を塗り込む)・土蔵造りを奨励し、 屋根は茅葺きを禁じ、瓦で葺くことを許したと言われています。これにより江戸の町並みは本郷まで瓦葺が続き、ここから先の中仙道筋の町並は板や茅葺の家が続いていました。ちょうどその境目で商売をしていた「かねやす」の大きな土蔵はきっと目だっていたので、このような川柳ができたのではないでしょうか。

尚、この本郷三丁目交差点をわたりわずかな距離に東京大学が右手にみえてくるのですが、この東京大学の敷地はお江戸の時代には加賀百万石・前田家の拝領屋敷が広がっていたのです。そうなるとあの加賀前田家のお屋敷は不思議な事に江戸の範囲の外にあった時代が長くつづいていたことになるのです。

ついでに春日通りを渡ってすぐの歩道脇に「見送り坂・見返り坂」の標識が立っている。実は江戸の範囲がちょうど「かねやす」までと言われていた時代にこの場所には小さな川が流れ、橋が架けられていたという。江戸を追放された者がこの橋で放たれ、南側の坂(本郷3丁目寄)で、親類縁者が涙で見送ったから見送り坂。追放された人がふりかえりながら去ったから見返り坂といわれた。そしていつしかこの橋が「別れの橋」と呼ばれるようになったとさ。



そんな場所を過ぎると、細い道筋が左へつづいています。その先に「お堂」がひとつ建っています。

本郷薬師

面白い場所にお堂が置かれています。実はここには真光寺というお寺がありました。現在、真光寺この場所になく、世田谷の烏山に移転してます。江戸時代の寛文10年(1670)にこの真光寺の境内に薬師堂が建立されました。

その当時、たびたび起こる流行り病で多くの人たちが病に倒れたのですが、この薬師様に祈願すると病が治ったと噂が広がり、多くの人たちに深く信仰れてきました。そんなことで古くから「薬師の縁日は本郷の花なり」と縁日には多くの夜店で賑わったといいます。

前述のように、かつてこの場所に堂宇を構えていた真光寺はいまはないのですが、なぜか当寺に鎮座していた「十一面観音菩薩」が薬師堂から30mほど奥まった場所に残されています。真光寺が世田谷に移転するさいに、置いていってしまったのでしょうか?
住宅街の一画にぽつねんと置かれています。

十一面観音菩薩像

薬師堂への路地の入口から本郷通りに沿ってほんの僅かな距離を進むと、本郷通りから斜め左へとのびる道が現れます。この道筋が有名な「菊坂通り」です。なぜ有名な道筋かというと、この道が明治の文豪、小説家をはじめとする多くの文筆家と深いかかわりがあるからなのです。この菊坂を歩くと、街灯の柱に誰もが知る明治の文豪たちの名前と説明板が張り付けられています。
というのも、この菊坂界隈には宮沢賢治が下宿し、坪内逍遥樋口一葉が住み暮らし、石川啄木若山牧水もこの道を歩き、漱石の場合は一高へ通う通勤コースになっていたといいます。

また菊坂から少し奥まった場所に、多くの文豪たちが利用した「菊富士ホテル」があったといいます。特にあの竹久夢二が最愛の女性である「笠井彦乃」と逢瀬を重ねたのが菊富士ホテルです。

多くの文豪たちが愛した菊坂通りは、当寺の面影はまったくなく、ビルが立ち並ぶ普通の道筋になっています。





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