西神吉町をゆく(33) 煙草(たばこ)生産
印南郡の刻煙草(きざみたばこ)の製造の歴史は古く、『印南郡史』は、250年前からとしています。
その中心は、西神吉の大国村・西村でした。
最初は、包丁で刻む刻煙草でしたが、明治の終わりの頃に「セン切り」という細く削られるようになりました。
その後、すぐ機械による製造方法に変わりました。
明治37年4月、政府は煙草の専売局を設置し、煙草の製造は政府が経営するようになりました。
日露戦争(明治37年始まる)の戦費を確保する必要があったためです。政府は、煙草の専売制で増収を目的としました。
専売局の設置と同時に、煙草の耕作も政府の指定地のみでの生産となりました。
大国は、国の委託製造をしていまあしたが、だんだん製造は減り、明治42年ついに生産をやめました。
磯野孝治さん(80歳・昭和55年当時)は、『私たちのふる里』で、次のように語っておられます。
・・・私が子どもの時、大国で煙草の製造家は17軒と葉煙草の仲買人が4人、刻煙草販売人が3名ありました。
大勢の村の人は、男は煙草を切る職人、女の人は葉巻師でした。
志方では、まだ靴下を製造する者はまだなく、志方や近村のから大勢の人が働きに来たので、大国は近村にない賑(にぎ)やかな村でした。
しかし、煙草製造の閉鎖後、多くの村人が失業し、賑やかだった村は急に寂しくなりました。・・・
*『私たちのふる里』(加古川市立西神吉小学校PTA)参照
*写真:煙草の葉
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます