升田山を歩く(5)・八十橋の伝承と『風土記』
『風土記』の話です。
『風土記』(奈良時代の地理書)は、編集されて後、まもなく姿を消します。
何らかの事情で、厳重に保管されていたものの、その存在が全く分からなくなっていました。
そんな状況が、一変しました。
江戸時代、何百年もの空白の期間を経て『風土記』がみつかったのです。
『播磨国風土記』は、平安時代の中期以降に書写されたものが、江戸時代の終わりころ、寛政八年〈1796〉と嘉永五年(1852)再び写され、世に登場しました。
『播磨風土記』は、まったく世に知られない空白の期間が数百年も続きました。
ですから、「八十の石橋」に書かれた話は、誰にも知られていなかったはずです。
「八十の岩橋」は、江戸時代の『播磨名所巡覧図絵』でも紹介されました。
現在、語られている「八十橋」の伝承は、江戸時代よりのちの話といえます。
それにしても、『風土記』の編纂された奈良時代に「八十橋」の話は、すでに何のためにつくられたのか、わからなくなっていたようです。
*写真:『播磨風土記』の一部
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