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社会理論・現代思想を主に研究する今野晃のblog。業績については、右下にあるカテゴリーの「論文・業績」から

アラン・バデュのアルチュセール論

2006年11月12日 | 読書
 アラン・バデュのアルチュセール論を読む。思いのほか時間がかかってしまったが、最後は一気に読み上げた。最後にアルチュセールのことを熱く語っているからかもしれないが(笑)。

 内容は、アルチュセールの遺稿出版以後注目されている「真空」概念を中心に初めて、「哲学には対象はない」というテーゼを扱いつつ、哲学の政治への介入のあり方を検討するという話。そこで、「哲学には政治という対象がある」という話にした後、しかし、そこではアルチュセールは介入の哲学として諸々のカテゴリーを批判しつつ、様々な領域を「縫合」するのだと主張。たしかに、哲学の「効果」や、対象の不在、真空、そして、階級闘争の反映としての哲学などは、そうした「縫合」のための概念と読めるところも。
 そして最後に、哲学は、諸々の真理が様々に生起する場として定義される。そこでは、哲学は内在的に哲学として残るということで、この点に哲学者としての、あるいは哲学の擁護者としてのアルチュセール像を、バデュは見出し、この点は100%アルチュセールと同意見だと結論付ける。

 と、彼の議論をまとめてみたが、日本語で要約しようとすると、中々うまく行かない、、、。

 このバデュ、デリダ以降、仏の哲学の第一人者の地位にあるようなのだが、彼も当初、アルチュセールが中心になって出版された『資本論を読む』に執筆する予定だったらしい。結局、彼はそれを辞退したらしい。
 仏に滞在していたとき、私は一度、バリバールと直接話をしたことがあるのだが、彼によると、バデュはアルチュセールに近づきすぎることを警戒していたらしい。バリバールは、自身は若かった故にそうした距離のとり方を知らなかったと、そのときは言っていた。まあ、このあたりは、バリバールの愛弟子とも言える大中氏に聞いてみるのが、最も正確な情報を得られる方法だろうが。

 ただし、このバデュの論文を読む限り、アルチュセールと彼の関係は、やはり「問題設定」の違いにあったのでは感じられる部分もある。実際、彼はアルチュセールから「ピタゴリスム」と批判されることがあったとか。哲学のなかに、哲学者としてとどまろうとするバデュと、階級闘争というかたちで哲学の外に出てゆこうとするアルチュセールの立場の違いが、そこにはあると言えるかもしれない(ただし、アルチュセールの数学コンプレックスもあるかもしれないが 笑―実際、バデュは数理哲学等にも詳しいらしい)。

 哲学、あるいは「介入」の問題に対する立場は別にして、しかし、バデュも「出来事」の重要性は認識している。アルチュセールの議論を深める上で、バデュの議論も参考にすべきかもしれないと、思っているが、しかし『存在と出来事』は厚すぎる、、、と躊躇。

 以上、バデュの論考の「感想」。


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