犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

映画 『アキレスと亀』

2008-10-13 23:42:29 | その他
画家にしても、音楽家にしても、天才は孤独である。これは、世間に理解される・されない以前の問題である。表現者であれば自分の世界を表現しなければならず、それ以前に自分の世界を表現するしかない。これは、他人の世界は表現できないという論理的可能性を心底まで知り抜いているという単純な事実に基づく。従って、天才が何かを表現するならば、それは他者に認められるか否かとは全く関係のない話となり、むしろ他者に認めてもらうための表現は邪道となる。論理的にはこれで完結している。しかしながら、表現とは他方で、その内に必然的に他者の存在を前提とする。ここに芸術家の破滅が始まる。

芸術家が芸術家として生きていくためには、資本主義社会においてはその作品が世間で評価され、値段が付けられなければならない。これは、芸術家にとっての最大のパラドックスである。自分の作品を自分以外に誰も評価してくれないならば、飢え死にしないためには、嫌でも全く関係のない仕事をして食いつながなければならない。これは、芸術家にとって最大の苦悩であり、屈辱である。「アフリカの飢えた子供の前に、おにぎりとピカソを置いてみろ。間違えなく、おにぎりをとるだろ?」。映画の中で出てきたこの台詞は、若き画家を瞬間的に絶望に追い込んだ。

天才が孤高でありつつ同時に他者の承認を求めざるを得ないのは、自らが天才である以上は自分の表現した世界が普遍的であり、一般的に反転するはずだからである。これも論理の要請である。自分の作品は世間に承認されないわけがないし、売れないわけがない。そして、人々がこの天才の前にひれ伏さないわけがない。これが、自らの才能に賭ける者における当然のスタートラインである。従って、実際に世の中がそうならなかったときの挫折感は、孤独にして宇宙大に等しい。どんなに世の中は間違っている、大衆は馬鹿だ、時代が自分に追いついていないと叫んだところで、その声は自分を破滅させる力として作用してしまう。

アキレスと亀のパラドックスは、時間と空間を固定すれば簡単に解けるが、「いま」「ここ」の唯一性に気づいてしまえば絶対に解けない。これは自己と他者との間における独我論の反転の問題と同じである。どんなに絵画の才能があっても、世の中の流行に合わなければ売れない。すべては運である。そして、絵が売れなければ、その画家に才能があったのか否かもわからず、「才能がある」という意味すらも確定できない。ここにおいて、この映画の主人公は、絵が売れなかったことによってアキレスと亀のパラドックスを解いた。この映画は、北野武監督がアーティストとしての自分を投影したという「三部作」の完結編であり、ヴェネチア国際映画祭では「白い杖賞」を受賞したが、日本での興行成績は今一つとのことである。