犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田清彦著 『正しく生きるとはどういうことか』

2008-10-30 21:00:29 | 読書感想文
自由競争と市場原理のみの社会においては、貧富の差は必然的に拡大する。すなわち、制度の適用における「機会の平等」が「結果の不平等」を帰結する。この矛盾の調整が、正義論の最大の問題である(p.154)。社会主義の崩壊以降、法哲学の世界では、この正義論が精密かつ実証的に論じられてきた。「機会の平等」と「結果の平等」に関する研究の進展は著しい。それでは、これらの研究は、現実の格差社会の解消、勝ち組と負け組の二極分化の是正、ワーキングプア対策に役立っているのか。これは一見してわかるように、ほとんど使い物になってない。理論の抽象度が高すぎて、理論を実社会に適用しようとする間に、実社会が先に進んでしまうからである。

憲法における平等論は、人権論から派生する原理原則論である。しかしながら、人間はすべて平等であるという思想もごく最近のものであり、時代を超えた普遍性はない(p.141)。このフィクション性を見落とした憲法論は、やはり抽象論の世界に昇ってしまい、地上に帰ってこられなくなる。法の下の平等を規定するのは憲法14条であるが、同条に関する重要判例といえば、十年一日のように議員定数不均衡訴訟、昭和女子大事件(政治運動に伴う退学処分)、日産自動車事件(女性社員の定年)などが挙げられている。しかし、投票率が50パーセントも満たず、大学生の政治運動は消滅し、社員のリストラどころか会社の倒産が当たり前の現在において、この問題意識のピントは合っていない。

現代の多くの日本人にとって、最も懸案事項である平等・不平等の問題は、憲法論のそれとは見事にずれている。憲法14条1項は「人種、信条、性別、社会的身分、門地」を列挙しているが、多くの人々にとってはどうでもよい。我々の自尊心を絶えず揺さぶり、優越感と劣等感の間で人生の大問題を引き起こすのは、生まれつきの能力の問題である。その中でも、特に容姿の美しさの差異、異性にもてるかもてないかの差異は、現代社会の平等・不平等の問題において、その関心のほとんどを占めている。いくら憲法が個人の尊厳を保障し、人間であるだけで価値があるのだといっても、そのような建前は木っ端微塵である。現代社会では、容貌の優れた者は様々な欲望を実現することができるが、そうでない者にとっては非常に苦しい(p.60)。世の中はそのようにできている。

資本主義における欲望は、すべて他人と差異をつけること、他人との差異を埋めることに収斂してくる。資本主義下の大衆民主主義の社会では、身分の差がないぶん、金持ちは羨望と嫉妬の的となる(p.69)。この差異化の過程は、さらに人々の欲望を均一化させ、資本主義を加速度的に駆動させ、どうにも止まらなくなる。古典的には、自由と平等は原理的に対立するものとされ、法哲学者はその研究に頭を悩ませてきた。しかし、現在の日本では、思わぬ方向で答えが出てしまっている。すなわち自由も平等も、資本主義がその上位概念となり、両者がその中に飲み込まれてしまった。自由とは金儲けをする自由であり、不平等とは勝ち組と負け組の差である。理論と実務の融合を目指すと、このように身も蓋もないことになる。