犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

“成功哲学”の発想

2008-10-25 14:36:05 | 実存・心理・宗教
ある法科大学院・弁護士の講演会より

「私は司法試験に7回落ち、8回目でようやく合格しました。私は、1~2回で簡単に合格しなくて良かったと思っています。なぜなら、何度も落ちてどん底から這い上がったことによって、自分を信じることの大切さ、念じ続ければ夢は必ず叶うということ、あきらめなければ何かが起きるということを知ったからです。夢を叶えるためには、まずイマジネーションが大切です。その上で、夢を現実にできるだけの行動力が必要なのです。人生の勝者になるためには、この2つが絶対に必要です。夢を現実に変えていくには、やはそれなりの信念が必要で、自分を信じる気持ちを常に持ち続けつつ、自分は夢を実現した瞬間の状態を常に想像することが大切です。その思いが強ければ強いほど、夢が現実になるのは早いはずです。

弁護士は犯罪者の代理人として、被害者や遺族の自宅に伺って謝罪し、粘り強く示談交渉を取り付けなければなりません。犯罪者の弁護をしているというだけで、私もよく罵倒されます。自分自身が悪いことをしたわけでもないのに、何で大声で怒鳴られなければならないのか、土下座までしなければならないのか、辛い思いをすることもあります。そんな時に自分を支えてくれるのは、7回の不合格から立ち直ったことと、8回目でようやく合格をつかんだ執念です。あきらめなければ夢は必ず叶うという信念があるるからこそ、私は絶対に示談を成立させてやるとの確信を持つことができるのです。私は、被害者との示談交渉を成立させた後の自分になり切って、夢がすでに叶えられたという思いで、成功のイメージを持ち続けています。私は自分を信じているからこそ、何度も何度も被害者の家に押し掛けたり、断られても断られても土下座を続けることができるのです」


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現代の法治国家の構造において、犯罪を取り扱う地位にあるのは、裁判官・検察官・弁護士の法曹三者である。すなわち、いわゆる成功者、人生の勝ち組のグループである。そこには、一流大学の法学部や政経学部を卒業し、なおかつ最難関の国家試験を突破したことの余裕と実績がある。そこから、「犯罪被害者を取り扱う」「遺族をなだめる」といった対象化の視点が生まれてくる。現代の法治国家の構造において、犯罪被害に遭うということは、このような構造の中に巻き込まれるということである。時間は戻らず、死者は帰らない。死んだ人を返してほしい、元通りに戻してほしいと願い続けても、そのような夢は実現しない。被害者遺族が断腸の思いで締結する示談とは、この残酷な現実の先にあるものである。その意味では、「誠意を見せ続ければ示談は必ず成立する」といった捉え方は、論理が完全に逆立ちしている。誠意を見せれば見せるほど、本来ならば、示談など論理的に成立しないものであることに気付かれなければならないからである。

犯罪被害者との示談交渉に最も適任なのは、8回目の司法試験で念願の合格を果たして弁護士になった人物ではない。8回目の司法試験でも不合格になり、自分を信じても裏切られ、念じ続けても夢は叶わないということを知り尽くした人物である。20代の青春を司法試験に費やし、挙句の果てに弁護士になれず、それどころか貯金も就職もなく、絶望の前で立ち尽くしている人物である。ところが、法治国家においては、このような人物は犯罪被害者の示談交渉にあたってはならない。弁護士法72条の非弁行為として、法的紛争の交渉は厳重に禁止されているからである。講演を行った弁護士は、次のようなことも述べている。「受験生は、合格者の成功体験談を聞いて、勝ちグセをつけなければならない。そして、不合格者に近付いてはならない。人生の敗者には負のオーラが漂っているからである」。“成功哲学”の発想は、弱さと不安の裏返しであって、1つつまづくと非常に脆弱なものである。